第6話 王都に潜む陰謀
夜明け前に迷宮を抜け出した三人と一匹は、ふらつく足取りのまま墓守の家へ戻ってきた。
木の扉を押すと、油の匂いと懐かしい土壁のにおいが鼻をくすぐる。
「……帰ってきた」
ルカは深く息を吐いた。
奥からゆっくりと足音が近づいてきた。
杖をつきながら現れたのは、祖父のエルド老だった。
深いしわの刻まれた顔がランプの光に浮かび上がり、厳しい目がルカを見つめる。
「ルカ……」
老の声は低く、しかし震えていた。
ルカは思わず背筋を伸ばす。
「じいちゃん……僕、ちゃんと……帰ってきたよ」
エルドはルカに歩み寄り、その肩に手を置いた。
「よく戻った。……おまえが生きていて、本当に良かった」
その言葉に、胸が熱くなった。
いつも厳しい祖父が、こんなふうに安堵を隠さず口にしたのは初めてだったからだ。
「迷宮で……声を聞いたんだ」
ルカはぽつりと打ち明ける。
「王と墓守の契約、それから……王が裏切られる光景も」
エルドの目が鋭く光る。
「……見てしまったか」
「やっぱり、知ってたんだね」
ルカは思わず問い返す。
だが老は首を振るだけで、すぐには答えなかった。
その沈黙を破ったのは、エリシアだった。
「彼は声を聞くだけじゃなく、導きとして使えるようになっているわ」
王女らしからぬラフな口調に、エルドの目が細まる。
「……王家の娘か」
「ええ。エリシア。ルカと共に契約を果たすために来た」
エリシアは堂々と名乗った。
エルドはしばし黙って見つめ、やがて苦笑を漏らす。
「千年経っても、運命は同じ道を歩むのか……」
ルカは不安になって尋ねた。
「じいちゃん……声が言ってた。“裏切り”って……本当は何?」
エルドは深く息をつき、重い口を開く。
「墓守と王家の契約は、何度も破られてきた。王が墓守を切り捨て、墓守が王を見放したこともある。
裏切りは一度きりではない。血のように、この国の歴史に流れ続けている」
ルカは息をのんだ。
(やっぱり……声が言っていた“裏切り”は一つじゃないんだ)
エリシアも目を伏せ、かすかに震える声で言った。
「……私の家系は、そんな過去を背負っているのね」
沈黙が落ちる。
だがその中で、ミレイアが優しく笑った。
「でも今は違います。三人で契約を結んだ。だから、もう一度やり直せる」
その言葉にルカははっと顔を上げた。
(そうだ……僕たちの“契約”は新しい始まりなんだ)
エルド老は三人を見渡し、ゆっくりとうなずいた。
「ならば進め。声が導く先へ。だが忘れるな、裏切りはまだ終わっておらん」
外では夜明けの光が差し始めていた。
墓守の家に戻ってきた安堵と同時に、彼らの旅が次の段階へ踏み出す気配が漂っていた。
昼下がりの王都の広場は、普段なら露店や行商人の声でにぎやかな場所だ。
だがこの日はどこか違っていた。
人々の顔には笑顔がなく、不安げにざわめきあっている。
ルカたちはフードを深くかぶり、群衆の中を歩いていた。
エリシアは身分を隠すために庶民風の服を着ている。
それでも隠しきれない気品があり、ルカは「目立たないかな……」と冷や冷やしていた。
「聞いたか? 北の国境で戦が近いらしいぞ」
「王家の兵が撤退したって話だ。もうすぐ敵が攻めこんでくる」
噂が飛び交い、声が重なって広場全体を覆っていた。
子どもを抱いた母親が心配そうに空を見上げ、老人たちが杖をつきながら顔を寄せ合う。
「やっぱり……戦争になるんだ」
ルカはつぶやいた。胸の奥がざわざわと波立つ。
そのとき――耳の奥にまた声が響いた。
『……王家は……裏切った……』
『……血が流れる……』
冷たい囁きに、思わず足が止まる。
「まただ……」
「ルカ?」
ミレイアが心配そうに振り向く。
ルカは人々のざわめきを見渡した。
(声が……現実と重なってる。死者の囁きが、今の王都の不安を広げてるみたいだ)
「王家はもう終わりだって言ってたぞ」
「裏切り者は誰だ……? 兵か、王女か」
群衆の噂がさらに広がっていく。
その言葉に、エリシアの肩が小さく震えた。
ルカは気づき、思わず声をかける。
「エリシア……」
彼女は顔を隠したまま、唇をかみしめていた。
「これが……王家に生まれた者の運命なのね。誰も私の顔を知らなくても、王女というだけで“裏切り者”にされる」
その声は強がっていたが、ほんの少し震えていた。
ルカは胸が締めつけられる。
(声は本当に真実を伝えてるのか? それとも、みんなの恐怖を映してるだけなのか?)
「ルカ」
ミレイアが小さくささやく。
「民の声は心の声。死者の囁きと同じ。どちらも本物だけど、全部が真実じゃないの」
ルカははっとした。
たしかに、声は“断片”にすぎない。
真実を選び取るのは、聞く者の意志なのだ。
「……だから僕が、ちゃんと聞かなきゃ」
ルカはつぶやいた。
エリシアが振り返り、かすかに笑った。
「ありがとう、ルカ。あなたがそう言ってくれるだけで、私は立っていられる」
群衆のざわめきは収まらない。
王都全体が不安と噂に満ち、陰謀の影を孕んでいる。
その空気の中で、ルカは強く感じていた。
(死者の声と、生きている人の声……どちらも僕たちを試してる。真実を見抜けるかどうか……)
広場のざわめきは、嵐の前触れのように不気味だった。
王都の一角。人気のない石造りの館の奥で、厚いカーテンに閉ざされた部屋があった。
その暗がりの中に立っているのは、黒い軍装に身を包んだ男――カイエン卿である。
彼の前には数名の影兵がひざまずいていた。
顔を布で覆ったその姿は、迷宮でルカたちを襲った者たちと同じだった。
「……また失敗か」
カイエン卿の声は低く、冷たく響いた。
「はっ……申し訳ありません。少年は……予想以上に……」
影兵の一人が口ごもる。
カイエンはゆっくりと歩み寄り、手にした手袋をぱしんと叩いた。
「“予想以上”だと? 声を聞くだけの小僧に、貴様らが退けられたというのか」
その言葉に影兵たちが身を縮める。
部屋の空気は張り詰め、冷たい刃のように鋭くなる。
「まあいい」
カイエンは不意に笑みを浮かべた。
「むしろ面白い。あの少年は“使える”」
「……使える、でございますか?」
「墓守の血を引き、死者の声を聞く……千年待っていた駒が、ようやく現れた。
しかも王女と共にいる。これほど都合のいいことはない」
カイエンは窓辺に歩み寄り、カーテンの隙間から王都の街並みを見下ろした。
民のざわめきが、遠くまで響いている。
「民は恐怖している。戦と裏切りの噂で、心は崩れかけている。
そこに“声”が重なれば……誰も真実など分からなくなる」
影兵のひとりが恐る恐る尋ねる。
「……少年を、どうなさるおつもりで?」
「決まっている。利用するのだ。
声を通して混乱を広げ、王家を失墜させる。
その時、王座を握るのは私だ」
カイエンの口元が歪む。
その笑みには冷たい野望がにじみ出ていた。
「だが油断はするな。墓守の力は危うい。
あの小僧が“真実”にたどり着く前に、こちらが先に糸を握るのだ」
影兵たちが一斉に頭を下げる。
カイエン卿の影は、王都の中で確実に広がりつつあった。
そしてその暗闇は、ルカたちの足元にも、すでに忍び寄っている――。
夜。
墓守の家の囲炉裏には、ぱちぱちと火が燃えていた。
ルカ、ミレイア、エリシア、そしてクロがその周りに腰を下ろしている。
暖かさに包まれながらも、心は落ち着かなかった。
エルド老は静かに煙管を置き、ゆっくりと語り始めた。
「ルカ。おまえが見た“裏切り”の記憶……あれは千年前、王と墓守が交わした契約の真実だ」
ルカは身を乗り出す。
「やっぱり……契約は本当にあったんだね」
エルドの目は火の赤を映し、深く沈んでいた。
「墓守は代々、声を聞き、それを王に伝える役目を負ってきた。
王はその声を導きとして国を治める――それが契約だった」
ルカはうなずきながらも、胸の中にひっかかるものを感じた。
「でも……どうして裏切りが?」
老はしばらく黙り、炎を見つめた。
やがて低く、苦い声で続けた。
「契約は一度きりではなく、幾度も破られた。
ある王は墓守を恐れ、口を封じようとした。
ある墓守は王を見放し、声をねじ曲げて伝えた。
裏切ったのは一方だけではない。王家も墓守も、互いに裏切り続けてきたのだ」
ルカの心臓が強く脈打った。
「……僕たちの一族も、裏切ったってこと……?」
「そうだ」
老は重々しくうなずいた。
「だからこそ、墓守の血は呪われている。声を聞く者は、必ず孤独と疑いにさらされる」
ルカは拳をにぎりしめた。
(僕も、いつか裏切るのか? 声に狂わされて……?)
その不安を察したのか、エリシアが言葉を重ねる。
「でも、私は信じる。少なくとも、今のルカは裏切らない」
「エリシア……」
彼女のまっすぐな瞳に、ルカの胸が熱くなる。
ミレイアもやわらかく笑んだ。
「声は真実だけじゃない。想いも映すのよ。ルカがどんな心で耳を澄ますかで、導きは変わる」
その言葉は、暗闇に差す灯のようだった。
エルド老はふう、と深く息を吐いた。
「……ならば信じろ。おまえ自身を。そして仲間を」
その声は厳しい中にも、わずかな期待がにじんでいた。
ルカは小さくうなずく。
「……うん。僕は、もう逃げない」
囲炉裏の炎が高く揺れ、三人の顔を照らした。
新しい契約の火が、静かに受け継がれていくように見えた。
夜の王宮は静かだった。
月明かりが大理石の床を照らし、長い回廊に淡い影を落とす。
エリシアはひとり、自室のバルコニーに立っていた。
風に揺れるカーテンの向こうからは、遠く街のざわめきが聞こえる。
「……民の声は、どこまでも届いてくるのね」
昼間、広場で耳にした噂が胸に突き刺さっていた。
――裏切り者は王女だ。
姿を隠していたはずなのに、あの言葉を聞いた瞬間、まるで心を突き刺されたように痛んだ。
(私の顔を知らない人たちですら、王女というだけで……)
エリシアは手すりに手をかけ、ぎゅっと握りしめた。
その手は少し震えていた。
王宮では自由などない。
外に出るにも護衛が付き、言葉ひとつにも監視がある。
父王の目も、貴族たちの視線も、いつも冷たい。
「私は……本当に、この国のためになれるのかしら」
誰にも聞こえない声で、ぽつりとつぶやく。
その時、ふとルカの顔が浮かんだ。
迷宮で声に導かれ、必死に仲間を守ろうとした少年。
震えながらも、逃げずに立ち続けた姿。
そして――ミレイアの穏やかなまなざし。
あの二人と一緒にいるときだけは、王女ではなく、ただのエリシアでいられた。
「……あの子たちと出会えて、よかった」
唇に小さな笑みが浮かぶ。
だが同時に、不安も押し寄せてきた。
(もし“裏切り”の声が本当だったら? もし私自身が……彼らを傷つける未来を選んでしまったら……)
胸の奥に重い影が差す。
それでも、彼女は瞳を閉じて、そっと祈った。
「私は……裏切らない。絶対に」
その声は、夜風に乗ってかき消された。
けれど確かに、自分自身への誓いとなって胸に刻まれた。
部屋の外では、ひそやかに足音が通り過ぎていった。
使用人のものではない。もっと鋭く、重たい響き――。
エリシアは気づかない。
すでに王宮の中にも、カイエン卿の影が忍び寄っていることを。
王都の市場は昼になると活気づき、通りは行商人や買い物客であふれかえっていた。
色とりどりの布、香辛料の香り、焼きたてのパンの匂い。
ルカはそのにぎわいに圧倒され、思わず足を止めた。
「すごい……墓地とはまるで別の世界だ」
「市場は人の力が集まる場所だからな」
エリシアはフードを深くかぶりながらも、どこか楽しげに辺りを見回していた。
クロが先に歩き、干し肉の匂いにつられて鼻をひくひくさせる。
ミレイアが笑いながら首輪を引いた。
「ダメよ、クロ。買い物はあとで」
――そのとき。
不意にルカの耳に冷たい囁きが入りこんできた。
『……血が……流れる……』
『……逃げろ……』
ルカの背中を冷たいものが走った。
「待って……危ない!」
叫んだ瞬間、群衆の中から黒ずくめの影が躍り出た。
布で顔を覆った影兵たちだ。
鋭い刃が陽光を反射し、真っすぐこちらに迫る。
「しまった!」
エリシアが剣を抜く。
だが周囲には買い物客が多すぎる。
悲鳴が上がり、人々が四方に逃げ惑った。
「ルカ、下がって!」
ミレイアが叫び、護りの光を展開する。
だが群衆に押され、身動きが取りにくい。
影兵のひとりが母親と子どもに刃を向けた。
「やめろっ!」
ルカはとっさに飛び出した。
『……横に押せ……!』
声が耳に走る。
ルカは迷わず近くの樽を転がし、影兵の足を払った。
刃が逸れ、親子は悲鳴を上げながら逃げていく。
「ルカ!」
エリシアが駆け寄り、影兵を斬り払う。
混乱の中、クロが吠えて別の敵に飛びかかり、ミレイアの光が壁をつくって人々を避難させる。
だが影兵は次々に湧き出し、市場は修羅場と化していた。
ルカは必死に耳を澄ます。
『……右から……』『……上を見ろ……』
声が断片的に導きをくれる。
ルカは叫びながら仲間に伝え、刃をかわし、仲間を守った。
「すごい……! 声が全部、導きになってる!」
ミレイアの驚きの声が響く。
やがて、鐘の音が鳴り響いた。
王都の衛兵が駆けつけ、人々の叫び声が少しずつ遠のいていく。
影兵たちは不利を悟ったのか、煙玉を投げ、闇に溶けるように姿を消した。
「はぁ……はぁ……」
ルカは荒い息をつき、手のひらが汗でぬれているのに気づいた。
「また……狙われた」
エリシアが剣を収め、真剣な目で言った。
「これはただの襲撃じゃない。私たちをあえて人前で襲い、“王家が混乱を招いている”と見せつけようとしたのよ」
ミレイアもうなずいた。
「噂と恐怖を利用している……まるで死者の声を操るみたいに」
ルカは唇をかみしめた。
(声と現実が重なっていく……。これは偶然じゃない。誰かが裏で糸を引いてるんだ)
市場に残った血の匂いとざわめきが、確かな不安となって三人の胸に刻まれていた。
市場の混乱は、夕方になっても収まらなかった。
広場には衛兵が立ち並び、倒れた屋台や転がった果物がその激しさを物語っている。
ルカたちは人目を避けて路地裏に身を潜め、息を整えていた。
「……また狙われた」
ルカは握った拳を見つめる。まだ手のひらに汗がにじんでいる。
「しかも今度は、民を巻きこんで……」
「これはただの襲撃じゃない」
エリシアの声は冷たかった。
「王家への不信を煽るための見せしめ。そうとしか思えない」
ミレイアもうなずいた。
「人々の噂と、死者の声……それを同じ方向へ流そうとしている誰かがいる」
ルカは耳を澄ます。
――声はまだ遠くでざわめいていた。
『……裏切り……王宮の中に……』
心臓がどくんと跳ねる。
「王宮の……中に……?」
「ルカ?」
ミレイアが心配そうにのぞきこむ。
ルカは震える息を整えながら、聞こえた言葉を伝えた。
エリシアの表情が固まる。
「……やっぱり。裏切りは、外からじゃなく……中にいる」
彼女の瞳が一瞬だけ揺れた。
「もしかして……父王の側近か、それとも……」
その先は口にできなかった。
ルカは拳を強くにぎる。
「声が何を意味してるのか分からない。でも、僕らが確かめなきゃ」
その時――。
場面は変わり、王都の奥深く。
薄暗い部屋で、カイエン卿がひとり立っていた。
「民衆は騒ぎ、王家は疑われる。すべて順調だ」
窓の外から響くざわめきに、彼は満足げに笑う。
机の上には、王宮の内部構造を描いた地図。
そこに赤い印がいくつも打たれていた。
「墓守の小僧も、王女も、こちらの駒にすぎぬ。
声を利用すれば、誰も真実を見抜けはしない」
彼の影が、ゆっくりと壁に広がっていく。
その闇は王都全体を覆い尽くすかのようだった。
――ルカたちはまだ知らない。
声と陰謀が重なり合い、王国を揺るがす大きな嵐が近づいていることを。