第4話 王女と秘密の契約
翌日の昼下がり。
墓地から戻ったルカとミレイアは、街の裏道を歩いていた。
市場に行く用事もなく、ただ気分を落ち着けるために散歩していただけだった。
「昨日の声……」
ルカはつぶやき、うつむく。
ミレイアがちらりと横顔をのぞきこんだ。
「王女様の名前を出したこと、まだ気にしてるのね」
「だって……『裏切り者』って言ったんだ。あの人が本当に……」
言いかけて、ルカは口をつぐんだ。
昨日、市場で見た王女エリシアの姿を思い出す。
庶民と同じ目線で、笑顔で話していた。
裏切り者――そんな言葉が似合うはずがない。
その時だった。
「――やっと見つけた」
背後から声がした。
二人が振り返ると、そこに立っていたのは、青いフードをかぶった少女。
だがその顔を見て、ルカは目を見開いた。
「……王女、様……!?」
フードを少し下げると、金色の髪が光を受けてこぼれる。
昨日市場で見たあの気高い笑顔と同じ。
間違いなく王女エリシア本人だった。
ルカは思わず一歩下がる。
「な、なんでここに……!? こんな裏道で……」
エリシアはくすりと笑った。
「声を追いかけていたら、あなたにたどり着いたの」
その一言に、ルカの胸がどくんと鳴った。
(……声を? まさか、王女様も……?)
「安心して。私は敵じゃないわ」
エリシアはそう言って、両手を見せるように広げる。
その動作は気高いのに、不思議と親しみやすさがあった。
ミレイアが前に出る。
「王女様……どうして私たちに?」
「昨日、市場であなたたちを見て分かったの。あなたたちは“声”と関わっている。
……だから会いたかったの」
エリシアの瞳は澄んでいて、迷いがなかった。
ルカは心臓を押さえる。
不吉な声が告げた「裏切り」という言葉が頭をよぎる。
(本当に……信じていいのか……?)
「ここで立ち話をするのも危ないわ。ついてきて」
エリシアはそう言って、裏道の奥を指差した。
「城じゃない。もっと安全な場所よ」
ルカとミレイアは顔を見合わせる。
クロが「わん」と一声鳴いた。
ミレイアは短くうなずき、ルカの腕を軽くたたいた。
「……行ってみましょう」
ルカはごくりとつばを飲みこみ、ぎゅっとランプを握りしめた。
(裏切り者なのか、それとも……仲間なのか。
僕の耳が確かめるしかないんだ)
こうして――墓守の少年と巫女、そして王女の出会いは、本格的に始まった。
エリシアに案内され、ルカとミレイアは王都の外れへ向かった。
表通りのにぎやかさとはちがい、ここは人の気配が薄い。
古い石垣を抜けると、そこに小さな庭園が広がっていた。
「ここなら安心よ」
エリシアはフードを外し、金の髪を風にさらした。
昼の光を受けてきらめくその姿は、やっぱり王女そのもの。
けれど、彼女の表情はどこか楽しげで、城の中のかたい雰囲気とはまるでちがった。
「王女様が……こんな場所に?」
ルカは思わず口にする。
エリシアは軽く笑った。
「私に“様”なんていらないわ。ここではただのエリシアでいい」
そう言って、靴を脱ぎ、芝生にそのまま腰を下ろした。
ドレスのすそが土に触れるのも気にせず、両手を後ろについて空を見上げる。
その姿にルカは目を丸くした。
「え、えっと……そんなふうにしたら服が……」
「いいの。私は城の中で、ずっと飾られてる人形みたいに扱われるのよ。
ここに来たときくらい、好きにしてもいいでしょう?」
エリシアの声は明るいのに、ほんの少しさびしさが混じっていた。
ミレイアが隣に座り、静かにたずねる。
「それで……どうして私たちに会いたかったんですか?」
エリシアは二人を見て、真剣な瞳になる。
「昨日、市場であなたたちを見て分かったの。あなたたちは“声”と関わっている」
「……!」ルカは息をのんだ。
「私の家系――王家には、昔から“墓守と声”にまつわる伝承がある。
もし声を聞く者が現れたら、必ず王家がそばに立ち会わねばならないって」
ルカの心臓が大きく跳ねた。
祖父が言っていた“契約”の話と重なる。
(やっぱり……僕は偶然じゃなく、必然で声を聞いているのか……)
でも同時に、昨日のささやきがよみがえる。
『……裏切り……エリシア……』
目の前の少女と、あの冷たい声が頭の中で重なってしまう。
(この人が……裏切り者? そんなはず、ない……)
ルカは顔を上げられず、拳をにぎった。
その様子に気づいたのか、エリシアは少し笑った。
「ねえ、ルカ。あなた、私のことを疑ってるでしょう?」
「っ……!」
図星をさされ、ルカは慌てて首を振る。
「ち、ちが……っ」
「いいのよ。疑って当然だもの」
エリシアは草の上に寝ころび、空を見上げた。
「王家には裏切りや血の争いが山ほどある。
『裏切り者は王女』なんて声が聞こえても、不思議じゃないわ」
その落ち着いた口調に、ルカは逆に戸惑った。
――まるで自分の運命を受け入れているように。
ミレイアがそっとルカの肩に触れ、ささやいた。
「声は断片的なの。すぐに信じちゃだめ」
ルカは小さくうなずいた。
王女の素顔は思っていたよりも人間らしく、温かい。
昨日市場で見た笑顔も、いま隣で風に吹かれている姿も、嘘には思えなかった。
(……この人が本当に裏切り者なのか?)
心の中に、迷いと同時に小さな信頼が芽生えていた。
庭園の風はやわらかく、草花のにおいが漂っていた。
けれどルカの胸の奥は落ち着かない。
王女エリシアは芝の上に腰を下ろし、真剣な顔で二人に向き直った。
「ねえ、ルカ。それにミレイア。私があなたたちを探した理由を話すわ」
その声にルカの肩がぴくりと動く。
彼女の瞳は青く澄んでいて、まっすぐに射抜くようだった。
「王家にはね、“契約の伝承”があるの」
エリシアは言葉を選ぶように、ゆっくりと語り始めた。
「千年前。王国がまだ小さな国だったころ、王家は“墓守”と誓いを交わしたの。
――死者の声を聞く者、その記憶を王に伝える者。
王家はその導きを受け、国を正しく治める、と」
ルカは息をのんだ。
祖父エルドが昨夜語った“墓守と王家の契約”。
それとまったく同じ内容だった。
「だから、声を聞く者が現れたら、必ず王家がそばに立ち会う。
そう記されているの。……あなたが、ルカ、そうなんでしょう?」
突然名前を呼ばれ、ルカの心臓が跳ね上がる。
「ぼ、僕は……」
「大丈夫。隠さなくていいわ」
エリシアはやわらかく微笑んだ。
「昨日、市場で目が合ったとき、分かったの。あなたの目には“声の影”が映っていた」
「影……?」
ルカが思わず聞き返すと、ミレイアが補うように言った。
「巫女の私にも少し見えるの。ルカのまわりにある“声の気配”。
たぶん王女様には、もっとはっきりと見えるのでしょう」
ルカはうつむいた。
(やっぱり……僕が声を聞くのは偶然じゃない。
契約で決まっていたことなんだ……)
エリシアの声が重なる。
「王家も墓守も、どちらか一方では国を導けない。
“過去を知る耳”と“未来を選ぶ手”。両方がそろってはじめて意味を持つ」
その言葉はまっすぐで、迷いがなかった。
けれどルカの胸には、まだ昨日の声が刺さっている。
『……裏切り……エリシア……』
(どうして……声は王女様を“裏切り者”と呼んだんだ?)
心の中で疑いが膨らむ。
だが、目の前の少女はこんなにも真剣に話している。
そのまなざしを見ていると、とても嘘や裏切りの姿には思えなかった。
ミレイアが静かに言った。
「……声は断片的です。すべてを信じるのは危険。でも、無視もできない」
エリシアはうなずいた。
「だからこそ、あなたと共に歩きたいの。ルカ。
“声”が導く真実を、この目で確かめたい」
ルカは息を止めた。
胸の奥が熱くなり、迷いと希望がせめぎ合う。
――墓守の少年と王女。
千年前の契約が、いま再び動き出そうとしていた。
庭園を吹き抜ける風はやさしかった。
けれどルカの胸の奥には、重い石のようなものが居座っていた。
「ルカ……?」
エリシアが不思議そうにのぞきこんでくる。
その瞳は澄んでいて、嘘やごまかしを感じさせない。
(本当に……この人が“裏切り者”なんだろうか?)
昨日の声が頭をよぎる。
『……裏切り……エリシア……』
冷たい囁きが耳に残り、心臓をきつくしめつける。
「……僕、どうすればいいんだろう」
ルカは思わずこぼした。
「声は嘘をつかないってじいちゃんは言った。でも……もし本当に王女様が裏切り者だとしたら……僕は……」
言葉は途中で途切れた。
口にするのも恐ろしい。
ミレイアが横から静かに言った。
「ルカ。声は確かに真実を伝えることもある。けど、すべてがそのまま正しいわけじゃない。
声は断片的で、時には間違った形で聞こえることもあるの」
「……間違った、形」
「そう。死者の目線はひとつじゃないわ。兵士だった者、民だった者、王に仕えていた者……。
それぞれの思いがまじり合って、“声”になっている。
だから、一度の声だけで人を決めつけちゃだめ」
ルカははっとした。
そうだ。これまで聞いてきた声も、断片ばかりだった。
「裏切り」とは言ったけれど、理由も経緯も何も分からない。
エリシアは黙って二人のやりとりを聞いていたが、やがて小さく笑った。
「……正直に言うわね。私の家系には裏切り者が多いの」
ルカとミレイアは目を見開いた。
「王族は権力をめぐって争ってきた。兄が弟を裏切り、叔父が甥を殺し……。
だから、“裏切り者”という言葉は、私の一族につきものなのよ」
エリシアの声は静かだったが、ほんの少し震えていた。
その強さの裏に、孤独な重荷を背負っているのが伝わる。
ルカは唇をかんだ。
(この人は……嘘をついてるようには見えない。
でも声は確かに“エリシア”と言った……)
葛藤で胸がいっぱいになる。
信じたい気持ちと、疑う気持ち。
どちらも消えず、ルカの中でせめぎ合った。
「ルカ」
ミレイアが彼の肩に手を置いた。
「大丈夫。真実を探せばいいの。声に流されるんじゃなく、自分の目で確かめて」
その言葉に、ルカの心に少し光が差しこんだ。
エリシアもまっすぐルカを見つめる。
「私は裏切らない。少なくとも、あなたを。……そう誓える」
その瞳を見ていると、胸のざわめきが少しずつおさまっていく。
(……信じたい。信じてみたい。たとえ声がなんと言おうと……)
ルカは小さくうなずいた。
疑念は消えない。けれど、それ以上に彼女を信じたいと思った。
庭園にやわらかな風が吹きぬけた。
エリシアは立ち上がり、青空を見上げる。
金色の髪が光を受けて揺れ、まるで炎のように輝いていた。
「私ね、小さいころからよく聞かされたの」
彼女は両手を胸の前で組み、ゆっくり語りはじめる。
「王女は国を守るために生まれた存在だって。人より先に立って、誰よりも強くあれって」
その声は明るく聞こえるのに、どこかさびしさをにじませていた。
「でもね……私は完璧な人間じゃない。弱いし、間違えることだってある。
だからこそ――力を求めてしまうの」
ルカはごくりとつばを飲んだ。
(……まさか、声が言っていた“裏切り”って、そのことなのか……?)
エリシアは振り返り、真剣な眼差しでルカとミレイアを見つめた。
「でも、あなたたちに会って気づいたの。声を聞く者と、それを導く者。
そして私。三人でなら、きっと真実にたどりつけるって」
その言葉に、ルカの胸が熱くなる。
「……王女様……」
「エリシア、でいいわ」
エリシアはにっこりと笑った。
「私は王女としてじゃなく、一人の人間としてここにいる。
だから――」
彼女は片手を高く掲げ、はっきりと告げた。
「この国を守ることを誓う。
たとえ声が私を裏切り者と呼んでも、私は逃げない。
最後まで立ち向かうわ」
その言葉は力強く、風に乗って庭園いっぱいに広がった。
ルカは胸が震えた。
(……嘘じゃない。本気で言ってるんだ。この人は)
隣でミレイアもうなずいていた。
「私も、声を確かめるためにここに来た。エリシア様……いえ、エリシア。あなたを信じる」
「ありがとう、ミレイア」
エリシアはそっと手を差し出す。
ルカは迷った。
声の残した疑念は消えない。
けれど、目の前の少女の決意を無視することはできなかった。
「……僕も、一緒に」
おそるおそる手を重ねると、エリシアの手は思ったより温かかった。
その温もりが、胸の奥の冷たい不安を少しずつ溶かしていく。
「ありがとう、ルカ。これで私たちは仲間よ」
その瞬間、クロが大きく吠えた。
まるで三人の誓いを祝福するかのように。
庭園の花々が風に揺れ、陽光が差しこんだ。
――王女の誓いは、少年と巫女の心に深く刻まれた。
庭園に流れる空気が、一瞬にして変わった。
小鳥のさえずりが止まり、草むらの奥で枝が折れる音がした。
「……誰かいる」
ミレイアが眉をひそめる。
クロが低く唸り、耳をぴんと立てた。
ルカの背筋に冷たいものが走る。
昨日の夜、墓地で襲われたときと同じ気配――いや、それ以上の圧迫感だった。
「影兵……」
エリシアがつぶやく。
「カイエン卿が差し向けた者たちね」
「まさか、ここまで追ってきたのか……!」
ルカは思わず声をあげる。
彼らが王女のいる庭園に踏み込んできたということは、狙いがルカだけではない。
茂みの中から黒ずくめの影が三人、四人と現れる。
顔を布で覆い、目だけがぎらぎらと光っていた。
その手には短剣や鎖。動きは音もなく、獲物を狩る獣のようだ。
「少年を捕らえろ」
冷たい声が闇の奥から響く。
ルカの足がすくむ。
「また……僕を……!」
心臓が早鐘のように鳴り、体が動かない。
そのとき、ミレイアが一歩前に出た。
「ルカ、下がって!」
ペンダントが青白く光り、空気が震える。
光の膜が広がり、最初の一撃をはじいた。
火花のような光が散り、影兵が後退する。
「さすが巫女……だが長くは持つまい」
低い声とともに、別の影兵が横から回りこんでくる。
ルカは息をのんだ。
「ミレイア、横から……!」
思わず叫んだ瞬間、影の動きがはっきり見えた。
(分かる……? なぜか、次にどう動くかが……!)
ルカは咄嗟に石を拾って投げた。
ごつん、と音がして影兵の足が止まる。
「今だ、クロ!」
犬が飛びかかり、敵を押し倒した。
「ルカ……声が導いてるのね」
ミレイアが目を見開く。
「……え?」
「あなたの耳が“危険”を知らせてるのよ!」
ルカの背に電流のようなものが走る。
たしかに、耳の奥に微かな囁きが響いていた。
『……左から……』『……刃が……』
それは不気味で恐ろしい声だったが、不思議と「助けよう」としているようにも聞こえた。
「ルカ、私を守って!」
エリシアが叫ぶ。
彼女は武器を持っていなかった。
庶民のふりをしてここに来たため、護衛もいない。
だからこそ、ルカははっきりと理解した。
(僕が……守らなきゃ!)
次の瞬間、影兵が飛びかかる。
ルカは声に導かれるままに身をかわし、クロがその腕に噛みついた。
ミレイアの光がとどめを刺すように弾け、影兵たちは一斉に退いた。
「くっ……退け!」
誰かが命じると、残りの影兵も闇の中に溶けるように消えていった。
静けさが戻る。
ルカは膝から力が抜け、その場に座りこんだ。
「はあ……はあ……」
エリシアがそっと肩に手を置く。
「ありがとう、ルカ。本当に……あなたがいなかったら危なかった」
ミレイアもうなずいた。
「やっぱり、あなたの声の力が必要なの」
ルカは荒い息を整えながら、震える手を見つめた。
(僕の声が……役に立った……?)
まだ信じられなかった。
けれど確かに、さっきの戦いで仲間を守れた。
夜の庭園に月明かりが差しこみ、三人と一匹をやわらかく照らしていた。
その光はまるで「これからは共に進め」と告げているようだった。
影兵たちが去ったあと、庭園には静けさが戻っていた。
だが、ルカの胸はまだ激しく上下している。
クロも荒い息をつきながらルカの足元に身を寄せ、心配そうに彼を見上げていた。
「……ルカ、大丈夫?」
ミレイアがのぞき込む。
「うん……たぶん」
返事をしたものの、まだ足が震えていた。
けれど心の奥には、不思議な熱が残っている。
(さっき、確かに聞こえた。声が……僕を導いてくれたんだ)
恐ろしいはずの死者の声が、あの瞬間だけは味方のように感じられた。
「本当に……助かったわ」
エリシアがそっと近づき、ルカの手を取った。
その手は温かく、震えを少しずつやわらげてくれる。
「私、今まで護衛に守られてばかりだった。
でも今日、初めて“仲間に守られる”ってことを知ったの」
エリシアの目はまっすぐだった。
「だから……お願い。これからは一緒に戦わせて」
ルカは言葉を失った。
王女にそんなことを言われるなんて想像もしなかった。
ミレイアがゆっくりと口を開く。
「……一緒に、声の真実を探す仲間として?」
「ええ」
エリシアは力強くうなずいた。
ルカはしばらく考えこみ、やがて小さく笑った。
「僕なんかでいいのかな……」
「いいのよ」
エリシアは即座に答えた。
「墓守の血を継いで声を聞くあなた。
神託を受けて導きをもたらすミレイア。
そして王家に生まれた私。
三人そろえば、千年前の契約がよみがえる」
その言葉に、ルカの胸がじんと熱くなる。
祖父から聞かされた“墓守と王家の契約”。
それが今、形を変えてここに生まれようとしている。
「……分かった。僕でよければ」
ルカは小さくうなずき、エリシアの手に自分の手を重ねた。
「私も」
ミレイアも迷わず手を重ねる。
三人の手が重なり合った瞬間、クロが「わん!」と高らかに鳴いた。
まるで祝福するかのように、庭園の木々が風に揺れる。
「これからは秘密の仲間ね」
エリシアが微笑む。
「誰にも知られない契約。でも、私たちは信じ合える」
ルカは強くうなずいた。
「うん。絶対に……守る」
小さな庭園で交わされたその契約は、王国を揺るがす大きな運命の始まりとなる。
まだ誰も、その重さを知る由もなかった。