第35話 影を抱く姫
夜明け前の王都は、まるで深呼吸を忘れたように静かだった。
燃え残った香の煙が、崩れた塔の間をゆるやかに流れている。
人々は再建の疲れから眠りにつき、街路の灯火だけがまだ息をしていた。
エリシアは王城のバルコニーに立っていた。
朝露に濡れた手すりを握りしめ、遠くの瓦屋根を見つめる。
あの戦いのあと、ルカは炎の暴走を抑えたまま昏睡している。
ミレイアが彼のそばを離れず、カイエンは民の警護に奔走していた。
そして、残された王女だけが――この静寂を“重さ”として感じていた。
「……父上の光が消えても、人々は祈りをやめないのね」
風が彼女の髪を撫でる。
下の広場では、少年が新しい祈り灯をともしていた。
その光は橙でも白でもなく、淡い金に近かった。
まるで、焼かれた祈りが形を変えて戻ってきたように。
(ルカなら、きっと“それでいい”って言うでしょうね)
そう思いながらも、胸の奥に言葉にならない痛みが残る。
――私は、誰の祈りを信じればいいのだろう。
そのとき、風の音が変わった。
まるで誰かが耳元で息を吐いたように。
「……姫よ……」
エリシアは息を呑んだ。
背後を振り向いても誰もいない。
それなのに、確かに声がした。
「光を信じすぎる者は、影を恐れる。
おまえは、どちらに立つ?」
胸が凍るような感覚。
声は柔らかいのに、心の奥を掴む冷たさがあった。
「誰……?」
「祈りの底に眠る声。
王の祈りを継ぐ者――おまえの中にある」
その瞬間、周囲の景色が歪んだ。
空気が凍り、光が色を失っていく。
足もとに金の紋様が広がり、王の印が浮かび上がる。
(これは……父上の祈り陣? どうして、ここに……)
“我が祈りは、まだ終わっていない”
その言葉とともに、影がエリシアの胸へ流れ込んだ。
身体が熱く、そして冷たくなる。
視界が白に包まれ、最後に見たのは――
父の面影をした、光と影の境目のような“微笑”だった。
白い光に包まれた空間――そこは、現実ではなかった。
天井のない聖堂。
床は水面のように揺れ、彼女の足跡が波紋を広げていく。
エリシアはゆっくりと歩を進めた。
衣の裾が光をはね返し、まるで夢の中を漂っているようだった。
「……ここは、どこ?」
問いかけに答える声があった。
「祈りの檻。人が心の奥に閉じ込めた願いの行き着く場所だ」
その声は懐かしく、同時に怖ろしかった。
振り向くと、そこに“父”が立っていた。
金の鎧に身を包み、穏やかな笑みを浮かべている。
「……父上」
「久しいな、エリシア」
彼女は駆け寄ろうとしたが、足がすくんだ。
父の背後から、黒い影が流れ出していたのだ。
それはまるで彼の祈りの残滓が、形を持ったようだった。
「どうして……また現れたのですか」
「この国の祈りが、まだ私を求めている。
人は光を欲する。秩序を、導きを。
そしておまえの心もまた、迷いの中にある」
エリシアは言葉を失った。
その通りだった。
民は自由を与えられても、どう祈るべきか分からずにいる。
自分もまた、その不安の中にいた。
「おまえが王座に立て。
おまえなら、私の祈りを正しく継げる。
民は再びひとつになれる」
「……違う。それはもう終わったのです」
「終わっていない!」
父の声が聖堂に響いた。
光が震え、床の水面が波打つ。
「おまえは私の祈りを否定しながらも、まだその温もりを求めている。
だから、影が生まれた」
影がうねり、足もとから這い上がってくる。
黒い糸のような祈りが腕に絡みつき、心臓の鼓動を締めつけた。
「見えるだろう。これが“光の影”だ。
祈りを否定すれば、人の心は闇を生む」
「違う……それは、光が強すぎるから生まれるんです!」
エリシアが叫んだ瞬間、腕の影が燃え上がった。
だが炎は橙ではなく、金と黒の混じった色だった。
「おまえの中にも“影の祈り”がある」
父の声が低く笑う。
「さあ、受け入れよ。祈りの王の娘として」
光と影が渦を巻き、世界が割れた。
エリシアの身体が宙に浮き、視界が反転する。
最後に見えたのは――父の微笑。
そしてその瞳の奥で、かすかに蠢く“影の眼”だった。
――暗闇。
光の聖堂は崩れ去り、代わりに広がったのは静まり返った闇の海だった。
底が見えないその空間で、エリシアはゆっくりと目を開ける。
手を伸ばすと、そこに触れたのは冷たい鏡のような水面。
波紋が広がり、その中心に“父”の姿が浮かび上がった。
「……まだ、終わらないのですね」
「終わりなどない。祈りは繰り返す。
誰かが求め、誰かが導き、そしてまた、誰かが迷う」
ヴァルドリスの幻は微笑んだ。
その声は、穏やかで――だからこそ、恐ろしかった。
「あなたは間違っていました。
でも、私は……あなたを憎めない」
エリシアは拳を握りしめた。
「焼かれた祈りも、あなたを信じた民も、みんな……あなたの光を望んでいた」
父の幻が近づく。「では、なぜ否定した」
「……光が、誰かの涙を焼いていたから」
ヴァルドリスが静かに笑う。
「その涙もまた、祈りだ。
悲しみを知らぬ光に、救いなどない」
「……父上?」
エリシアの目が見開かれる。
その声は、確かに父のものだった。だが同時に――違う何かが混ざっていた。
影の中で、父の顔がゆっくりと崩れ、無数の声が重なっていく。
“王に仕えた者”“焼かれた者”“祈りを奪われた者”
それはこの国に生きたすべての人々の祈りだった。
「あなたは……みんなの記憶を背負っているの?」
「我らは“祈りの影”。
光が焼いた想いの集まり。
おまえの心にも、その欠片がある」
エリシアの胸が痛んだ。
彼女の中で、祈りと恐れ、責任と愛情が混ざり合う。
(そう……私は、まだ父を赦せていない)
「祈りを否定しながら、私は祈っていた。
“あの人を、もう一度抱きしめたい”って」
涙が頬を伝う。
その雫が水面に落ちると、闇の海に光が広がった。
光は金と白に分かれ、彼女の周囲を包む。
「父上……私は、あなたの祈りを否定しません。
でも、それに縛られることもしません。
光も影も、人の中にあるものだから」
ヴァルドリスの幻が微かに頷いた。
「……それが、おまえの答えか」
「はい。私は、導く姫ではなく――共に祈る者になります」
その言葉とともに、幻が崩れ、闇が弾けた。
無数の祈りの粒が夜空に昇り、彼女の手に光が宿る。
それは父の祈りでも民の信仰でもない、
彼女自身の祈りだった。
――鼓動が聞こえた。
それは誰のものでもない。
エリシア自身の心臓が打つたびに、闇の底が光で満たされていく。
金と黒がゆるやかに混ざり合い、空へと昇る。
その光景は、まるで“夜明け前の祈り”のようだった。
「……影は消えない。けれど、拒むこともできない」
彼女は胸の前で両手を重ねる。
掌の中で、小さな光が脈を打っていた。
「ならば――抱きしめる」
その瞬間、世界が震えた。
水面が弾け、闇と光が渦を巻く。
金の羽のような光が背から伸び、黒い糸がそれを包み込む。
天と地の狭間に立つ彼女の姿は、かつてのどんな王よりも荘厳で、美しかった。
「……これが、私の祈りの形」
エリシアの声が静かに響く。
それは祈りではなく、誓いだった。
闇の中から無数の手が伸びる。
人々の祈りの残響。焼かれた影。
エリシアはそれらを恐れず、手を差し伸べた。
「あなたたちも、私の中で眠っていて。
もう誰にも、焼かせたりしないから」
手が触れた瞬間、影たちの輪郭がほどけて光に変わる。
“あたたかい……”“苦しくない……”
無数の声が風に溶け、彼女の身体の中へと吸い込まれていった。
やがて、静寂。
残ったのは、黒と金が溶け合った一つの灯。
それが彼女の胸に宿ると、世界がゆっくりと現実へと戻っていく。
――王城の回廊。
倒れたままの身体が、小さく息を吹き返した。
まつげが震え、薄く開いた瞳が夜の光を映す。
ミレイアが駆け寄る。「エリシア様っ!」
エリシアはゆっくりと起き上がり、胸に手を当てた。
「……心配をかけたわね。でも、もう大丈夫」
その声は落ち着いていた。
ミレイアは目を見開いた。「その光……まるで、ルカの炎みたい……」
エリシアの胸の奥で、淡い金黒の光が脈を打っていた。
「違うわ。これは私の祈り。
――影を抱く、祈りの灯よ」
風が吹き抜け、彼女の髪が揺れる。
金色の夜が、静かに王都を包み込んでいた。
夜が明ける頃、王都の空には薄い霧が漂っていた。
破壊された尖塔から見える太陽はまだ弱々しく、金と灰の境を彷徨っている。
エリシアは静かにその光を見上げた。
胸の中で、金黒の灯が淡く脈を打っている。
「……この光、消えないのね」
ミレイアが隣でつぶやいた。
エリシアは微笑んだ。「ええ。影を拒んでいた頃の私とは違う。
これは“罪”じゃない。“想い”なの」
彼女の足もとには、昨夜の戦いの痕跡がまだ残っていた。
焦げた石畳、砕けた祈り灯。
けれど、その中から新しい芽が生えていた。
小さな白い花。光を受けて、ゆっくりと開いていく。
ミレイアが息をのんだ。「花……まさか、祈りの種?」
「ええ。焼かれた祈りが、土に還って咲いたのよ」
エリシアはしゃがみ込み、花に手をかざした。
淡い光が花びらを包み、金色の露がこぼれる。
「……生きているのね。光も、影も」
そのとき、遠くの鐘が鳴った。
王城の南方――ルカが眠る祈りの塔からだった。
ミレイアが顔を上げる。「ルカが……」
「ええ、感じるわ」
エリシアは胸の灯に手を当てる。
「この光は、彼と同じ“焼かない炎”。
――だから、彼はきっと戻ってくる」
朝日が王都を照らす。
崩れた街並みに、橙と金の光が交じる。
瓦礫の隙間で、子どもが祈り灯を拾い上げた。
「もう一度つけよう」
その言葉に、誰かが笑い、誰かが頷く。
やがて、街中に小さな灯火がともっていった。
「みんな、立ち上がっている……」
ミレイアの目に涙が滲む。
エリシアは微笑んだ。「祈りは、焼かれても消えないわ。
人が願う限り、灯り続けるの」
風が吹き抜け、金黒の灯がふっと輝いた。
それは、遠い場所で同じ炎が揺れている合図のようだった。
ルカの魂の炎が、再び動き始めた――
エリシアは目を閉じ、静かに祈る。
「ルカ……あなたの光、私にも届いているわ」
王都の鐘が鳴りやんだあと、静かな余韻が街を包んでいた。
焼けた街路を渡る風が、どこかやさしく感じられる。
祈り灯の残り火が並び、金の筋が地面を縫っていた。
エリシアは王城の最上階――祈りの間へ向かった。
かつて王が玉座の背に隠していた“祈りの炉”は、今や静かな沈黙を守っている。
炉の中には小さな火が一つだけ残っていた。
彼女はその前に跪き、両手をそっと差し出す。
「父上……あなたの祈り、確かに受け取りました」
小さな声が、石壁に反響する。
「けれど私は、それを“光の命令”としてではなく――“共に歩く誓い”として灯します」
火が揺れた。
その瞬間、炉の周囲に浮かぶ古い文字が金に染まる。
“赦しと祈りは、ひとつである”
王家の封印語だった。
エリシアの瞳に光が宿る。
「光を恐れず、影を拒まず。
私はこの国を“祈りの国”として、もう一度始めます」
その言葉に呼応するように、街の灯がひとつ、またひとつと輝きを増していった。
祈り灯の炎が連なり、王都全体がまるで星の海のように輝く。
塔の影から見下ろすミレイアが息をのんだ。
「……まるで夜空が地上に降りてきたみたい」
エリシアは振り返らなかった。
ただ静かに微笑み、胸の光に手を当てた。
「ルカ、あなたの祈りはここにあるわ。
この灯が消える前に、もう一度会いましょう――」
風が吹き抜け、金黒の炎が一筋の流星のように昇っていく。
夜明け前の空が、やわらかく白んでいった。
この第35話「影を抱く姫」では、
エリシアが“祈りを拒む姫”から“祈りを抱く王女”へと変化しました。
彼女の胸に宿った金黒の灯は、ルカの炎と同質でありながらも、
“共鳴”という新しい概念を象徴しています。
祈りとは、光でも影でもなく――“誰かと繋がる温度”。
その一歩を踏み出した彼女の姿は、
これからの物語でルカと対を成す“もう一つの灯”になるでしょう。
次回・第36話「再び燃ゆる声」
眠りから目覚めたルカが、新たな試練と“声の進化”に直面します。
祈りの炎は、今度は彼自身の中で“魂の形”を問われる。
どうぞ、次の朝も見届けてください。




