第32話 王の影
夜が、ようやく終わろうとしていた。
空の端がわずかに白み、王都の塔の影が長く伸びている。
英雄祭の喧騒が嘘のように消え、通りには誰一人いなかった。
燃え残った布切れが風に揺れ、焦げた花の香りがかすかに漂ってくる。
ルカは胸の炎を見つめた。
白く、そしてかすかに赤い光。
「……まだ、消えてない」
彼の呟きに、隣を歩くミレイアが小さくうなずいた。
「この炎は、まだ“祈り”を覚えてる。ヴァルト卿の願いも、きっと」
石畳の先に、王城がそびえていた。
塔の上には薄い白光が残り、まるで眠る巨人の心臓が脈を打っているようだった。
「王の祈りが、まだ続いてる……」ミレイアが低く呟く。
エリシアは顔を上げ、まっすぐに城を見据えた。
「父上の真実を、この目で確かめます」
彼女の瞳には恐れよりも決意があった。
ヴァルトの最期の言葉が、今も耳に残っている。
――『陛下の祈りを、止めてくれ。』
「ほんとに行くのか」
カイエンが低く問う。
彼の剣は鞘に納められたまま、手の甲に浮かぶ血管が青白い。
「もう引き返せねぇぞ。王都全体が“光炉”の警護下にある」
「それでも行く」ルカは静かに答えた。
「この炎が導いてる。あの光の根を断たなきゃ、祈りはまた焼かれる」
彼らの靴音だけが、静まり返った王都に響く。
誰もいない広場を通ると、昨日の祭壇の跡が残っていた。
焦げた柱、壊れた鐘、そして地面に散らばる白い灰。
ルカはその一粒を指先で拾い、そっと炎にかざす。
灰が溶け、橙の光が一瞬だけ灯った。
「……まだ、泣いてる」
ミレイアが小さく祈りの印を切る。
エリシアは拳を握りしめ、前を向いた。
「父上の祈りが、もし人を焼くものなら――私が止めます」
カイエンが口角を上げる。「王女の決意か。頼もしいな」
「カイエンさんも、怖いの?」ミレイアが尋ねる。
「怖ぇさ。でも、ルカが燃やさねぇ光を見せてくれた。
だったら、俺はその光を守る側にいる」
ルカは微笑み、小さく頷いた。
その瞬間、胸の炎が一度だけ強く揺れた。
まるで王城の方角が呼吸しているように。
「行こう。夜が明ける前に、すべてを終わらせる」
ルカの声が静かに響いた。
四人はゆっくりと歩き出す。
空の白が少しずつ滲み、王都を覆っていた影が薄れていく。
――その夜明けが、祈りを試す戦いの始まりになることを、誰もまだ知らなかった。
王城の正門は、まるで誰かが意図的に開けたかのように、半ば開いたままだった。
門の縁をなぞると、冷たい光の粒が指先にまとわりつく。
祈りの紋章が刻まれた金属板が、かすかに脈打っていた。
「誰もいない……の?」ミレイアが囁く。
ルカは頷いた。「でも、何かが見てる。空気が……生きてるみたいだ」
中へ入ると、廊下の壁一面に祈りの文様が浮かび上がっていた。
淡い白光が、呼吸のようにゆっくりと明滅している。
エリシアはその光に手を伸ばし、ためらいながら触れた。
途端に、耳の奥で声が響く。
――「光に従え。影を捨てよ」
エリシアは息を呑み、手を引っ込めた。
「……父上の祈りが、壁に刻まれてる」
その声には、震えと痛みが混じっていた。
カイエンが剣を抜き、廊下の奥を睨む。
「祈りってやつは便利だな。人の言葉を、命令に変えられる」
「命令……?」ミレイアが顔を上げる。
「そうだ。祈りの名を借りて、心を縛る。王都の民は“光を信じてる”んじゃねぇ、“信じるように作られてる”」
その言葉に、ルカは拳を握った。
(祈りを……命令に変える? それが、この国の光の正体なのか)
廊下を進むほど、光の脈動が強くなっていく。
壁の隙間から淡い霧が漏れ、空気が微かに震える。
ミレイアが耳を澄ませる。「……聞こえる。まだ祈ってる。
“穢れを焼け”“祈りを捧げよ”……まるで、同じ声が繰り返されてる」
「同じ……声?」
「うん。これは人の祈りじゃない。“装置の祈り”よ」
ルカは胸の炎をかざした。
炎が壁の光に反応して、わずかに赤く揺れる。
「この下に、何かがいる。祈りの根が……生きてる」
カイエンがうなずき、廊下の奥を指さす。
「地下への通路がある。……この光の流れ、全部そこに集まってる」
やがて、王城の中央に差しかかったとき、足もとがかすかに鳴った。
金属の床板が、鼓動のように上下している。
「……心臓みたいだ」ミレイアが呟く。
エリシアの声がかすれる。「ここが、父上の“祈り”の中心……」
ルカは深く息を吸い、足を踏み出した。
「下へ行こう。祈りの根を、見つけるために」
螺旋階段の入り口で、彼らは一瞬だけ空を見上げた。
夜明け前の光が細い筋となって降り注ぎ、王城の中に差し込んでいる。
それは、まるで地上から最後の祈りが差し伸べられているようだった。
ルカはその光を背に受けながら、静かに言った。
「ここから先は、誰も戻れない場所だ。……でも、もう迷わない」
そう言って、彼は暗い階段の奥へと足を踏み入れた。
階段を降りるたびに、空気が重くなっていった。
石壁の間を通るたび、耳の奥に何百もの囁きが流れ込む。
“光を讃えよ”“影を焼け”“祈りを捧げよ”――その声は誰のものでもなく、まるで機械の呼吸みたいだった。
最後の段を下りると、視界が一気に開けた。
そこは、王都の地下とは思えないほど広い空洞だった。
天井から吊られた巨大な水晶の柱が、淡い光を放ちながら脈打っている。
その中心には、半透明の球体――“光炉”が浮かんでいた。
「……あれが、王国を照らす光の源」
ミレイアの声が震える。
光炉の中で、炎のような光が渦を巻いていた。
けれどそれは純粋な白ではない。
赤や黒、時には灰色の影が混じり、燃えるたびに小さな人影が見え隠れしている。
ルカは息を呑んだ。
「人の……形?」
球体の表面に触れた瞬間、無数の声が弾けた。
――“まだ、終わりたくない”“忘れないで”“祈りを返して”
それは叫びでも泣き声でもなく、燃やされながらも生きようとする“祈りの声”だった。
「……これ、全部……人の祈りなの?」
ミレイアが涙をこらえきれず、声を震わせる。
「ううん、違う……“焼かれた祈り”だわ」
エリシアが壁際に目を向けると、封印陣が何百も並んでいた。
そのひとつひとつに、王都の民の名と記号が刻まれている。
「この国の光……まさか、人の祈りを燃やして得ていたなんて」
カイエンが奥歯を噛み締めた。
「まるで……魂の炉だな」
ルカの胸の炎が反応した。
橙の光が揺らめき、光炉の表面に赤い波紋を広げる。
その中から、ひときわはっきりした声が響いた。
――“墓守……ここは、祈りの墓だ”
ルカは膝をついた。
頭の奥で、何かが訴えている。
「……ここが、“影”の根なんだ」
ミレイアが彼の肩に手を置く。
「じゃあ、この光炉が“影”を生み出してる?」
「うん。祈りを焼くたびに、残った“想い”が影になる。
それを“光”で押さえつけてきたんだ……」
エリシアは口を覆い、震える声を漏らした。
「父上……あなたは、これを“祈り”だと言っていたの?」
返事はない。けれどそのとき、光炉の中央がかすかに脈打った。
白い光の中に、人影が立っている。
それはまるで、王が光の中から生まれようとしているようだった。
ルカは立ち上がり、拳を握る。
「……来る。王の“祈り”が、目を覚ます」
光炉の中心に浮かぶ影が、ゆっくりと形を取っていく。
白光が凝縮し、衣のようにまとわりつき、やがて一人の男の姿になった。
王――ヴァルドリス。
その瞳は、まるで星を閉じ込めたみたいに輝いていた。
けれどその光の奥には、どこか深い闇が潜んでいる。
「……来たのですね、墓守」
静かな声だった。
怒りでも威圧でもない。まるで慈悲のような響き。
「あなたが“光の影”を解いたと聞いたとき、私は確信しました。
――この国の祈りが、揺らぎ始めていると」
ルカは一歩前に出た。
「揺らいでるんじゃない、気づいたんです。
祈りが命令に変わってたことに」
王の口元がかすかに動く。
「命令……? 違います。これは導きだ。
人は弱い。悲しみも怒りも、祈りの形を失えばすぐに闇へ堕ちる。
だからこそ、我が“光”が必要なのです」
エリシアが震える声で叫ぶ。
「父上、それが祈りの形だなんて……違います!
人の心を焼いてまで守る光なんて、正しくありません!」
王は振り返らない。
「おまえはまだ幼い。
民が恐れる“影”の本当の意味を知らぬのだ。
影とは、祈りを拒んだ者の残滓。
焼かねば、国は祈りを忘れる」
「だから燃やすんですか……?」ルカが問う。
王は静かにうなずいた。
「焼くことは清めること。
この国の平穏は、祈りを燃やして保たれている。
誰も泣かず、誰も怒らず、ただ光を信じる――それが理想の王国だ」
「理想……?」
ルカの胸の炎が赤く揺れた。
「それは、誰の理想ですか? 民の? それとも……あなた自身の?」
王の瞳がわずかに揺らぐ。
「私の祈りは、国そのものだ。
私はこの国を愛している。だから、光に変えた」
ミレイアが小さく呟く。「愛……? 違う、それは束縛よ」
光炉が唸りを上げた。
天井の封印陣が共鳴し、空気が震える。
王が両手を広げ、光を操る。
「影に怯える民を救うために、私は祈った。
“すべての祈りをひとつに”――それが王の使命だ」
「でも、それは“支配”だ!」ルカが叫ぶ。
「祈りは束ねるものじゃない。
ひとつひとつが違っていい。違うからこそ、生きてるんです!」
王の瞳に冷たい光が戻る。
「ならば見せよう。統べられぬ祈りが、どれほど世界を乱すかを」
その瞬間、光炉の内部が激しく脈動した。
壁の祈りの紋章が一斉に輝き、空間が揺れる。
カイエンが剣を抜き、ルカが胸の炎を掲げる。
ミレイアが短く息を呑む。「来る……!」
王の声が、光そのものに変わって響いた。
「見よ――これが“王の祈り”だ」
光炉が唸り声を上げた。
王の広げた両腕から白い光の筋が走り、床の封印陣が次々と起動していく。
壁一面に刻まれた祈りの文様が輝き、まるで生き物のようにうねった。
「陛下! やめてください!」
エリシアの叫びも、光の轟音にかき消される。
「これが……祈りの統一だ」
王ヴァルドリスの声が光に溶ける。
「人の心を一つに。混乱も悲しみも、この光で焼き尽くす!」
彼の周囲の空気が白く沸騰し、肌を刺すような熱が走る。
ミレイアが目を見開く。「祈りが吸い込まれてる! この光炉、限界を超えてる!」
ルカは胸の炎を押さえた。
祈りの声が一斉に押し寄せる。
“助けて”“怖い”“消えたくない”“光は痛い”――
「こんなものが……祈りの形なわけがない!」
ルカが叫び、炎を掲げた。
橙の光が弾け、白い空間に亀裂が走る。
だがすぐに王の声が響く。
「墓守。おまえの炎も祈りだろう? ならば我が光に溶けよ!」
次の瞬間、光炉の中心から白光が爆ぜ、天井まで吹き上がった。
ルカたちは衝撃に吹き飛ばされ、床に叩きつけられる。
「ルカ!」ミレイアが駆け寄る。
「平気……でも、光が……」
見上げると、天井の封印陣が砕け、そこから黒い靄が流れ出していた。
白光の隙間からあふれる黒――それはまるで、光そのものの“影”。
「暴走してる……王の祈りが、命令を食ってる!」
ミレイアの声が震える。
「命令……?」エリシアが顔を上げた。
「祈りを“従え”っていう意思が、祈りそのものを壊してるのよ!」
王が頭を抱える。「なぜ……私の光が、黒く――」
足もとから黒い亀裂が走り、光炉の中の影が次々と溢れ出す。
焼かれた祈りたちの声が渦を巻き、空間を覆っていく。
“返して……返して……私の願いを返して……”
ルカは歯を食いしばった。
「王の祈りが……人々の声に拒まれてる!」
黒と白が混ざり合い、光炉全体が震える。
エリシアが父に駆け寄る。
「もうやめて! 祈りは、命令じゃない!」
王の瞳がかすかに揺れる。
「……だが、これを止めれば国が崩れる」
「崩れるのは、“偽りの光”だけです!」
ミレイアが祈りの印を切る。「願わくば、この光が、再び人に戻りますように――」
ルカは立ち上がり、炎を掲げた。
「王の祈りが壊れる前に、僕が“人の祈り”で上書きする!」
光炉の中心が轟音を立てる。
王の姿が光の中に溶け、声だけが響いた。
「おまえの光で、王国が終わるぞ、墓守!」
「終わらせない。――生まれ変わらせるんだ!」
橙の炎が爆ぜ、王の光に向かって走った。
轟音の中、ルカはヴァルトから託された銀色の鍵を取り出した。
光炉の暴走で空気が波打ち、足もとが崩れそうになる。
それでも彼は一歩前へ進んだ。
「ヴァルト卿……あなたが残したこの“祈り”、今使います」
鍵の表面が橙に光り、胸の炎と共鳴する。
まるで金属そのものが呼吸しているようだった。
「ルカ!」エリシアが叫ぶ。「それを使えば――あなたの炎が!」
「平気だよ。僕は墓守だ。祈りを繋ぐために生まれた」
彼の声は不思議と静かだった。
光炉の中心で暴れる光と影が、まるで彼の心を試すように唸っている。
ルカは目を閉じ、鍵を胸に押し当てた。
「祈りは、焼かれるためじゃない……生かすためのものだ」
橙の光が広がった。
それは熱を持たず、柔らかく、優しい。
ミレイアの祈りの言葉が重なる。
「願わくば、この光が悲しみを包みますように――」
鍵が光炉の中へと引き込まれる。
白と黒が渦を巻き、橙がその間に差し込んだ。
まるで夜と昼の狭間に、もう一つの色が生まれたようだった。
王の声が響く。「やめろ……祈りが……我を拒む……!」
光炉の表面に亀裂が走り、まぶしい閃光が迸る。
ルカは両手で炎を掲げ、声を張り上げた。
「この炎は、誰かを焼くためのものじゃない!
誰かを想い続けるための光だ!」
その瞬間、光炉が静まった。
暴走していた白光がゆっくりと橙に染まり、
黒い靄が消えていく。
祈りの声が途切れ、静かな呼吸の音だけが残った。
ルカは膝をついた。
「……終わった、のか?」
光炉の奥で、柔らかな光が脈を打っている。
その中心に、小さな影が立っていた。
王ヴァルドリス。
彼は光の中で目を細め、微かに笑った。
「……墓守よ。おまえの光が、私の祈りを……」
言葉の途中で、彼の声は風に溶けていく。
ミレイアが駆け寄る。「ルカ! 炎が……!」
胸の光は小さくなっていた。
「大丈夫。少し、祈りを分けただけだから」
ルカは微笑み、橙の炎を見つめる。
「ヴァルト卿の願いも、王の祈りも、ちゃんと届いたよ」
光炉の表面に、ひとすじの涙のような光が流れ落ちた。
それはまるで、王自身の祈りが還っていくようだった。
空がゆっくりと明るくなっていった。
光炉の爆音が止み、地下を満たしていた振動も消える。
残ったのは、柔らかな橙の光と、どこか遠くから聞こえる小鳥の声。
それは、王都が長い夜から目を覚ます音だった。
ルカは肩で息をしながら、光炉を見上げた。
球体の中では、もう白い光も黒い靄も消えている。
かわりに、淡い橙の灯がゆっくりと脈を打っていた。
まるで、誰かが新しく息をしているような穏やかさだった。
「……終わったの?」
エリシアの声はかすれていた。
ルカは頷く。「うん。もう、誰の祈りも焼かれていない」
ミレイアがそっと胸に手を当てる。「……暖かい。光炉が、生き返ったみたい」
カイエンは剣を鞘に収め、静かに笑った。
「これが“照らす光”ってやつか」
ルカは歩み寄り、王の姿を探した。
光炉の中央に、ヴァルドリスが膝をついていた。
鎧も冠もなく、ただ一人の男としてそこにいた。
「……墓守」
王がかすかに微笑む。「私は、光を恐れていたのかもしれぬ。
影を見る勇気がなかったのだ」
「誰だって怖いですよ。光にも、影にも」
ルカの言葉に、王は穏やかに目を閉じた。
その身体が光に包まれ、静かに溶けていく。
エリシアが涙をこらえきれず、手を伸ばした。
「父上……」
「おまえの光が、次の祈りを導くだろう」
それが、王の最後の言葉だった。
光が消えると、地下に静寂が戻った。
誰も言葉を発さなかった。
ただ、胸の中で何かが確かに変わったと感じていた。
やがて地上に戻ると、王都の空には雲ひとつなかった。
夜のように覆っていた白光はすべて消え、代わりに本物の朝日が街を照らしていた。
通りの人々が顔を上げる。「……星が、見える……」
誰かが呟き、誰かが泣いた。
そして、誰もが静かに手を合わせる。
ルカは炎を見つめた。
それは小さく、けれど確かに息づいている。
「この光は、もう焼かない。照らすために、生まれたんだ」
ミレイアが微笑む。「ええ。これからは、みんなの祈りが灯になる」
エリシアが風に髪を揺らしながら、空を見上げた。
「父上……見えますか? この光、もうあなたの祈りに縛られていません」
ルカは静かに頷く。
そのとき、王都の鐘が鳴った。
重く、優しく、長い余韻を引きながら。
昨日まで“英雄祭”のために鳴らされていた同じ鐘が、
今はまるで――祈りの再生を祝福するように響いていた。
夜が明ける。
焼くための光は消え、“照らすための祈り”だけが残った。
それが、王国の新しい夜明けだった。




