第3話 陰謀の影
王都ネヴァリスの広場は、いつになくざわついていた。
露店の声、行き交う人の足音、パンの香ばしい匂い。
それらすべてが、今日はどこか落ち着きを欠いている。
「北方でまた戦が起きたらしい」
「兵士たちが召集されてるって話だ」
「このままじゃ、王都にまで火が回るぞ……」
通りすがる人々の声が耳に入る。
ルカはフードを深くかぶり、胸の前で袋を握りしめた。
中には祖父に頼まれた食料。だが今日は買い物どころではなかった。
広場の空気に満ちる“ざわめき”が、どうにも胸を締めつける。
(また……誰かの声が混じってる……?)
市場の喧噪にまぎれて、かすかな囁きが頭の奥に響いた気がした。
「……裏切り者は……」
「……血が……まだ……」
ルカは思わず足を止める。
背筋を冷たいものが走る。
(ちがう……これは、人の声じゃない。あの夜と同じ……!)
「ルカ、大丈夫?」
隣に立つミレイアが心配そうに覗き込んでいた。
彼女は白い外套にフードをかぶっている。神殿の巫女と悟られぬよう目立たない服装だが、それでも清らかな雰囲気は隠しきれなかった。
「……ああ。ちょっと、人が多すぎて」
ルカはごまかすように笑う。
だがミレイアは鋭い目で彼を見つめた。
「声が聞こえたんでしょう?」
「……っ!」
図星を突かれ、言葉を失う。
ミレイアは静かにうなずき、彼の手をそっと取った。
「大丈夫。ここでは深入りしないほうがいいわ」
その言葉に従い、二人は人混みを抜け、裏通りへ入った。
そこは喧噪から離れた薄暗い路地で、壁には古びた掲示板が打ちつけられていた。
ルカは思わず目を凝らす。
――徴兵の布告。
「北方戦線へ志願せよ。勇敢なる者に報奨を」
その紙は何枚も重ねられ、人々の不安を逆なでするように貼り出されていた。
兵士募集の声を背に、若者たちが小声で語り合っている。
「やっぱり戦は避けられないのか……」
「俺たちまで徴兵されるのかよ……」
ルカは唇をかみしめた。
(死者の声……そして戦争。全部、つながっているのか……?)
「ルカ」
ミレイアの声に振り返る。
彼女の瞳は不安と決意が入り混じっていた。
「王国の中で、何かが動いている。……きっと、声が教えてくれるはず」
その時、通りの先で兵士の一団が現れた。
青い鎧をまとい、整然と歩く姿は威圧的だった。
その中心には、一際目を引く人物がいた。
高身長で、冷たい眼光。
黒いマントを翻し、剣の柄に手を添えるその姿。
「……誰だ、あの人」ルカが小さくつぶやく。
通りの商人が答える。
「知らないのか。あれがカイエン卿だ。北方戦線の将軍様だよ」
将軍――。
ルカは思わず息を呑んだ。
その鋭い眼差しが、一瞬こちらに向いた気がした。
背中がぞくりとする。
(あの人……ただの兵じゃない。何かを、知ってる……?)
ミレイアもまた、その視線を感じ取ったのか、唇をきゅっと結んだ。
やがてカイエン卿は兵を引き連れて広場を横切り、王宮の方へと消えていった。
残された空気は、ますます重苦しくなる。
ルカは胸の奥に、説明できない不安を抱えていた。
――まるであの将軍が、死者の声に手を伸ばそうとしているかのように。
王宮の大広間は、昼なのに薄暗かった。
高い天井からは光がわずかに差しこみ、赤いじゅうたんの上に影を落としている。
その中央に、ひとりの男が立っていた。
――カイエン卿。
王国でもっとも恐れられている将軍だ。
「陛下。北の国境は不安が広がっております。すでに村がひとつ焼かれました」
低い声が広間にひびく。
王は重そうにうなずき、玉座から答える。
「……戦は避けられぬか。兵を増やすしかあるまい」
「はっ」
カイエンは片ひざをつき、深く頭を下げた。
だがその顔には、わずかな笑みが浮かんでいた。
(戦こそ好機……混乱の中でこそ、私は新しい力を手にできる)
彼が求めているのは、ただの勝利ではない。
――死者の声。
近ごろ王都でひそかに広がる噂。
「墓守の子が死者と話す」という話を、カイエンは真剣に信じていた。
「……死者が真実を語るというなら、それを操る者こそ、この国の本当の支配者だ」
副官が不安そうに口をひらく。
「しょ、将軍……本当に“墓守の子”などいるのでしょうか?」
カイエンは冷たい笑みを浮かべた。
「いる。調べはついている。まだ少年らしい」
「少年を……どうなさるおつもりで?」
「器にする」
短い一言に、副官はごくりとつばを飲みこんだ。
「声をただ聞くだけでは足りん。
それを取りこみ、思うままにあやつれる“器”が必要だ。
――墓守の血は、そのためにある」
言葉は冷たく、ひどく重かった。
副官の背中に、冷や汗がつたう。
「すでに影兵を放った。少年を捕らえさせてある」
カイエンは立ち上がった。黒いマントが広間をかすめ、床に影を大きく落とす。
その姿は、人間というより闇そのもののようだった。
「死者の声をつかむのは、私だ。
王国の未来は、王ではなく――私が決める」
静かな広間に、その冷たい言葉がしずかに残った。
その夜。
ルカはまた墓地にいた。
月は雲にかくれ、夜空はどんよりと暗い。
ランプの火が小さくゆれ、足元でクロが耳をたてている。
(……今日は静かであってほしい)
そう思った瞬間。
『……裏切り……』
『……血は……まだ……』
冷たい声が、頭の奥に流れこんできた。
ルカの体がびくっとふるえる。
「っ……!」
耳をふさいでも無駄だ。声は心の中に直接ひびく。
墓石がざわざわと鳴り、影がゆらめいて迫ってくるようだった。
『……名は……エ……リ……』
ルカは息をのんだ。
(いま……名前を言った?)
『……エリ……シ……ア……』
ぞくりと背すじが冷える。
「エリシア……王女様の名前……」
声はそこでぷつりと途切れた。
風が吹きぬけ、ランプの炎が大きくゆれる。
「なんで……王女様の名前が……」
ルカの胸がどくどくと高鳴る。
死者の声が王族を“裏切り者”と呼んだ――その事実が、頭から離れない。
「ルカ!」
後ろから声がして、ルカははっと振り返った。
ミレイアが駆け寄ってくる。
白い外とうを羽織り、胸元のペンダントが淡く光っていた。
「また声が聞こえたのね」
「……ああ。『裏切り』って……それに、王女様の名前まで」
言うと、ミレイアは一瞬だけ息をのんだ。
その顔には驚きと、少しの緊張が浮かんでいた。
「やっぱり……ただの幻じゃない」
「でも、どうすればいい? もし本当に王女様が……」
ルカは声をふるわせた。口にするのも恐ろしい。
ミレイアはきっぱり首を振る。
「決めつけちゃだめ。声は真実を語ることもあるけど、ぜんぶ正しいわけじゃない。
大事なのは――確かめること」
その言葉はまっすぐで、強かった。
ルカの胸に小さな光がともる。
「確かめる……?」
「ええ。死者の声をつなげて、真実を探すの。
それがあなたの役目で、私の使命」
ルカはごくりとつばをのんだ。
怖さは消えない。
でも、このまま耳をふさいでいても何も変わらない。
「……分かった。僕、逃げない」
ランプの炎がふっと明るくなった。
クロが「わん」と鳴き、二人の足元にしっかり立つ。
夜の墓地に吹く風は冷たい。
けれど、ルカの胸の中には少しだけ勇気が芽生えていた。
――声が告げた名前。
それがこの国を揺るがす大きな始まりになることを、ルカはまだ知らなかった。
翌日。
王都の市場は、朝から人であふれていた。
パンの香ばしいにおい、野菜を並べる声、子どもたちの笑い声。
だがルカには、そのにぎわいがどこか遠いものに感じられた。
(……昨日の声。王女様の名前……)
胸の奥で、あの冷たいささやきがまだ残っている。
「裏切り」という言葉と共に。
「ルカ、前を見て」
隣を歩くミレイアが、小さく声をかける。
ルカははっとして足を止めた。危うく果物のかごにぶつかりそうになっていたのだ。
「ご、ごめん」
「気を張りすぎると、かえって目立つわよ」
ミレイアはフードを深くかぶっている。巫女だと気づかれないためだ。
ルカも真似をしてフードを直した。
その時だった。
「すみません、それひとついただけますか?」
澄んだ声が市場のざわめきにまじった。
ルカが顔を向けると、人だかりの中心に少女がいた。
――長い金の髪をゆるく編み、上質な青いドレスの上からシンプルな外套を羽織っている。
動作は落ち着いていて、まるで舞台に立つ役者のような気品があった。
周りの人々が、ひそひそと声をあげる。
「まさか……あれって」
「いや、そんなはず……でも、あの顔……」
ルカは息をのんだ。
見たことはなかったはずなのに、ひと目で分かった。
(……王女、エリシア様……!)
彼女は市場の人々に囲まれながらも、気さくに笑っていた。
「値段はこれで足りるかしら?」
「は、はいっ! も、もちろんです!」
店主はあわてふためき、ほかの人々も目を丸くしている。
王女が庶民の市場に姿を見せるなど、ありえないことだった。
ルカは思わず足を止めた。
(昨日の声が言ったのは、この人の名前……。裏切り者って……王女様が?)
胸が苦しくなる。
まさか、と頭では思う。だが声は確かにその名を呼んだ。
ミレイアが横でつぶやいた。
「本当に……会ってしまうなんて」
その言葉に、ルカははっとした。
彼女の目は王女を真剣に見つめていた。
ミレイアもまた、啓示の中で“墓守の声を探せ”と告げられている。
そして昨日の声が告げた名が、いま目の前にいる王女。
エリシアは人々に笑顔で礼を言い、ふとこちらに目を向けた。
その瞳は澄んだ青。
ルカと視線がかち合った瞬間、胸の鼓動が跳ね上がる。
(見られた……!)
エリシアはほんの一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから意味ありげに微笑んだ。
まるで「あなたを知っている」とでも言うように。
ルカは息を止めた。
昨日の不吉な声と、目の前の気高い笑顔。
その落差が大きすぎて、頭が混乱する。
――本当に、裏切り者なのか?
それとも、声が告げたのは別の真実なのか?
彼の胸に、強い不安と興味が同時に芽生えていた。
夜。
墓地の丘は冷たい風に包まれていた。
昼の市場で王女エリシアを見たせいか、ルカの心はまだざわついていた。
(裏切り者って……本当に王女様のことなのか? あんな人が……?)
考えれば考えるほど、胸が重くなる。
ミレイアも同じらしく、黙ったまま歩いていた。
クロだけが、前足で土をかきながら元気に進んでいく。
その時だった。
カサッ。
茂みが動いた。
ルカは立ち止まり、ランプを掲げる。
「……クロ?」
犬は唸り声をあげ、背を丸めている。
闇の中から、黒ずくめの人影が三つ、四つ……。
音もなく現れた。
顔を布で隠し、剣を手にした男たち。
「なっ……!」
ルカの背中に冷たい汗が流れる。
誰だか分からない。だがただの盗賊ではないのは確かだ。
その動きは兵士のようにそろっていて、鋭かった。
一人が低い声で言った。
「……少年を捕らえろ」
ルカの心臓が跳ねる。
(僕を……狙って!?)
恐怖で足がすくむ。
ランプの炎が揺れて、手が震える。
「ルカ、下がって!」
ミレイアが前に立った。
胸元のペンダントが青白く光り、淡い光の幕が広がる。
だが影の男たちは迷いなく踏みこんできた。
クロが飛び出し、一人の足に噛みつく。
「ぐっ!」男がよろめく。
その隙にルカは必死に後ずさった。
「やめろ! 僕は……!」
叫んでも誰も聞かない。
剣のきらめきが闇を裂き、迫ってくる。
ミレイアが聖具をかざすと、声が光に変わり、敵の目をくらませた。
「ルカ、走って!」
「で、でも……!」
「いいから!」
その必死の叫びに、ルカは体をふるわせながら駆け出した。
背後でクロが吠え、ミレイアの光がはじける。
影の男たちがそれを追う気配がする。
心臓が破裂しそうだ。
足は重いのに、地面をたたく音だけがやけに大きく響く。
(なんで……僕が狙われるんだ! 死者の声のせいで……!)
振り返ると、闇の中でミレイアが立ちふさがっていた。
その姿は小さいのに、誰よりも強く見えた。
ルカは涙がにじむ視界の中で叫んだ。
「ミレイア――!」
墓地の丘に、恐怖と怒りと決意がまじった声がひびいた。
どうにか墓地の丘を抜け、ルカとミレイアは小さな墓守の家に転がりこむように戻った。
息が荒く、足は震えている。
クロもぜいぜいと肩で息をしながら、ルカの足元にぴたりと寄りそった。
「……危なかった」
ミレイアが胸を押さえる。
ペンダントの光はすっかり消えて、彼女の顔色も青ざめていた。
ルカは混乱のまま叫んだ。
「なんだったんだよ、あの人たち! なんで僕なんかを狙うんだ!」
その声に応じたのは、家の奥から出てきた祖父エルドだった。
ランプの光に照らされたその顔は、今まで見たことがないほど険しい。
「……来たか。やはり動き出したな」
「じいちゃん……知ってたのか?」
ルカの声は震えていた。
エルドは無言で椅子に腰を下ろし、深いため息をついた。
「墓守と王家は、千年前に“契約”を結んでいる」
「契約……?」
ルカとミレイアが同時に声をもらした。
老人の声はかすれていたが、一つひとつの言葉は重かった。
「墓守は死者の声を聞き、その記憶を王へ伝える役目を負った。
真実を知るのは死者、決断を下すのは王。――そう決められていた」
ルカの頭に、夜ごとの囁きがよみがえる。
『王は裏切られた』
『血はまだ乾かぬ』
「じゃあ……僕が聞いた声も……」
「そうだ。死者はときに、国を揺るがす秘密を語る。
だからこそ、墓守は孤独でなければならん。声を利用する者に狙われぬようにな」
エルドの目が鋭く光った。
「だが今……“利用しようとする者”が現れた。あの影兵を差し向けたのは、間違いなく権力を握る者だ」
ミレイアが唇をかみしめた。
「……将軍、カイエン」
ルカは息を呑んだ。
王都で見かけたあの冷たい目が脳裏に浮かぶ。
(やっぱり……僕を狙ってるのは……あの人……!)
祖父はルカの肩に手を置いた。
その手は細く、骨ばっているのに、重い力があった。
「ルカ。お前はもう逃げられん。声を聞いてしまった時点で、お前は“見届け人”になった。
それを恐れるな。墓は嘘をつかん。お前が聞いたことを、伝えるのだ」
「……僕に、できるのかな」
声が小さくこぼれる。
エルドはしばし黙り、それからゆっくりうなずいた。
「お前には仲間がいるだろう」
視線の先で、ミレイアが真剣な瞳でうなずいた。
クロも「わん」と吠えて前足を踏み出す。
ルカの胸が熱くなる。
怖さは消えない。
けれど、もう一人ではない。
「……分かった。僕、逃げない。
死者の声を……ちゃんと見届ける」
その言葉に、祖父は初めて小さく笑った。
「それでいい」
夜の静けさの中、少年は初めて自分の宿命を受け入れた。
王都ネヴァリスの奥深く。
王宮の塔の一室で、カイエン卿は地図を広げていた。
北方との国境線、駐屯する兵の位置、王都へ通じる街道――そのすべてを赤い線で記している。
「北の戦は陽にすぎん。真に狙うべきは、王都の中だ」
低くつぶやいた声に、副官が顔を上げた。
「将軍……やはり“墓守の子”を?」
カイエンは冷たい笑みを浮かべる。
「死者の声は真実を知る。ならば、それを支配する者が国を支配する。
墓守の血はそのためにある。少年を捕らえ、器とする」
副官の背中に冷たい汗が流れる。
「器……。ですが、もし声に呑まれれば――」
「構わん。使い捨てでもよい。器が壊れれば、次を探すだけだ」
その言葉はあまりに冷酷で、部屋の空気が凍りついたように感じられた。
カイエンは視線を窓の外へ向ける。
城下の広場では人々が不安そうに行き交い、徴兵の布告を読みあげる兵の声が響いている。
「不安は恐怖を生む。恐怖は支配の糧だ。
そして……死者の声は、未来を変える力となる」
カイエンの口元に、再び薄い笑みが浮かぶ。
――同じころ。
墓守の家では、ルカが祖父とミレイアに囲まれていた。
「……僕は逃げない。声をちゃんと聞く」
決意を口にしたその顔は、まだ幼さを残していたが、もう昨日までの少年ではなかった。
ミレイアはうなずき、ルカの肩に手を置いた。
「一緒に探しましょう。声の真実を」
クロが元気よく吠え、家の中に響いた。
エルドも静かに目を閉じ、短く言った。
「その覚悟を忘れるな」
だが三人はまだ知らなかった。
すでに王都の影では、彼らを狙う網がしだいにせばまりつつあることを。
カイエンの差し向けた影兵たちが、密かに王都の裏道を動いている。
その狙いはただひとつ――墓守の少年、ルカ。
夜の闇の中で、未来を決める光と影が、静かにせめぎ合いを始めていた。