第29話 囁く地下聖堂
雨上がりの夜は、石の匂いが濃くなる。
鐘楼の根元に口を開けた階段へ降りると、ひんやりとした空気が頬をなでた。
胸の前で油ランプを掲げると、炎が細くしなり、壁に伝う水滴を金色に照らす。
足もとから伝わる段差のすり減り方が、この場所が長い間眠っていたことを教えてくれる。
けれど、最近になって――誰かがここに足を踏み入れた。そんな気配が残っていた。
「息を整えて。ここから先は、声が響きやすい」
ミレイアが小さく囁く。
その声は静かで、石に吸い込まれていった。
僕はうなずき、手袋の内側で汗ばんだ手を握り直す。革がきゅっと鳴った。
踊り場でいったん灯を休めた。
白い壁をなぞると粉が落ちて、喉にざらりとした膜が張る。
地上の雨はもう止んだのに、ここではまだ“地下の雨”が降っているみたいだった。
怖さは、いつだって最初の一歩にまとわりつく。
でも、一歩でいい。戻る印を残せばいいんだ。
先頭を行くのはカイエン。
僕のすぐ後ろで、護衛役のエルドが縄を整えていた。
「合図はさっきの通り。離れすぎるな」
彼は短く言い、縄の端を僕の腰に結び直す。結び目は二重。引けばすぐ戻れるように。
カイエンは足もとを指さす。砕けた小石に新しい靴跡が重なっている。
エリシアは風の通りを探るように首をかしげた。
誰も言葉を発さない。けれど、全員が同じ緊張を共有していた。
さらに五十段。
空気の温度がひとつ変わり、肌に境目の線が走る。
半開きの鉄扉は錆びつき、蝶番を押すたび粉のような音が散った。
隙間から流れ出す冷気は澄んでいるのに、どこか重い。
息を吸うと、その重さが胸の奥まで沈んでいく気がした。
僕は片足を差し入れ、黒い石の床を踏む。
その瞬間、心の奥で糸がぴんと張った。
ここから先は、言葉が“物に触れる場所”だ。
だから会話は短く、動きも静かに。
胸の中で作法を唱える――“聞く前に、返す道を用意する”。
それだけで、喉を締めつけていた見えない糸が、少しゆるんだ。
「ルカ、無理はしないで」
「大丈夫」
振り向かずに答える。声は波のように広がる。強すぎれば、何かを揺らしてしまう。
聖堂の床は黒く磨かれた石。
灯の光が丸い円を描き、その外側は闇に沈む。
僕は歩幅をそろえ、靴音を一定に刻む。
すると――一歩遅れて、別の足音が返ってきた。
ただの反響にしては、遅すぎる。
香りが変わった。
古い木ではなく、甘い“聖油”の匂い。
記録ではもう補充されていないはずなのに、床をなぞると指先が少し粘った。
――最近、誰かがここで祈った。
背中を冷たい汗が伝う。
正面には、剥がされた祭壇と三つの納骨箱。
蓋の欠け方が不自然で、砕けた縁が新しい。
僕は灯を遠ざけ、影で形を読む。
光は真実を照らす。でも、影は別の真実を描く。
雨上がりの匂いがふと戻り、僕は膝をついた。
ここが――声の古巣だ。
地下聖堂の空気は、思ったよりも“新しかった”。
何百年も閉ざされていた場所のはずなのに、壁に漂う香りが少し違う。
湿った石の匂いの奥に、かすかに甘い油の香りが混じっている。
ミレイアが小さく眉を寄せた。「……この匂い、聖油。でも、最近のものだわ」
「記録では補充は百年前に止まってるはずだよ」僕は答えながら、壁のすき間を指でなぞった。
粉のような感触の下に、わずかな“粘り”があった。乾ききっていない。
ここには、誰かが――つい最近――入っている。
「待って、足音……」
エリシアが息を止める。
静寂の中に、コツン、と小さな音。
僕たちは身を寄せ、ランプの光を抑えた。
しばらくしても、誰も現れない。
けれど、もう一度――コツン。
確かに足音が聞こえた。しかも、一歩だけ遅れて。
「反響じゃない……誰かが、僕たちの足に“合わせてる”」
そう呟いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
カイエンが低く構える。「全員、灯を落とせ」
ランプを胸に抱え、炎を絞る。
光が消えると、聖堂は一瞬で闇に飲み込まれた。
耳だけが、異様に敏感になる。
水滴の音、遠くで風が抜ける音――そして、その合間に、確かに何かの“息づかい”がある。
けれどそれは、人のものではなかった。
音でもなく、声でもない。空気の層の“ゆらぎ”だけが、ゆっくりと形を変えていく。
ミレイアがそっと祈りの言葉を唱えた。
「光よ、嘘なきものを映しなさい……」
彼女の掌が淡く光を帯び、周囲に薄い光の膜が広がる。
その中で、壁の一角がほんの少し波打った。
「……見える?」
僕は目を凝らした。そこには、薄く削り取られた碑文があった。
縁だけが黒く煤け、中央の文字は新しく磨かれている。
「……これ、わざと消してある」
「名前の部分、全部?」エリシアがのぞき込む。
「うん。祈りの対象を消したら、残るのは“形”だけ。つまり……」
「儀式の殻、だな」カイエンが低くつぶやいた。
エルドが壁際を調べながら言う。「最近、工具の跡もある。削ったばかりだ」
「誰がこんなことを……」ミレイアが小さく震える声で問う。
僕は答えられなかった。
祭壇の奥に残る石の粉が、風もないのにふわりと舞い上がる。
まるで、ここに刻まれていた“名”たちが、まだ消えたことを認めたくないかのように。
「ルカ、こっちを」
エリシアが指さす。
床の一角、黒石が一枚だけ色を変えていた。
周囲の石よりも新しく、そして……微かに温かい。
僕が手を当てた瞬間、体の奥で何かが弾けた。
光ではない。声でもない。けれど――“呼ばれた”。
名も知らぬ誰かが、僕の名を口にしたような感覚があった。
「……今の、感じた?」
「うん。誰かが“開けろ”って言った」ミレイアが息をのむ。
「封印……まだ、生きてる」
カイエンが剣の柄に手をかけたが、エルドが止めた。「待て。音を立てるな。これは――」
その瞬間、黒石の表面がゆっくりと波打ち、中央に小さな亀裂が走った。
乾いた音がひとつ。
それだけで、空気の層が変わる。
闇が、こちらを覗いていた。
――ピシッ。
短い音が石を走り、聖堂の空気がひと息で変わった。
黒石の亀裂がじわりと広がり、そこから薄い白煙が立ちのぼる。
けれど、それは煙ではなかった。
“声”だった。
まるで溜め込まれていた息が、長い封印の中から一気に吹き出したみたいに。
「離れろ!」
カイエンの叫びより先に、空気が弾けた。
冷たい風が吹き抜け、ランプの炎が細くなったかと思うと――吸い込まれた。
炎は音もなく石の割れ目に飲まれ、残ったのは暗闇と、かすかな赤い残光だけ。
「ルカ!」
ミレイアの声が遠くに聞こえる。
手を伸ばそうとした瞬間、全身が重くなった。
何かが腕に絡みつき、足もとから体を引きずり込もうとする。
見えないのに、“掴まれている”のがわかる。
息が詰まり、喉が焼けるように熱くなった。
――聞ケ。
――名ヲ、呼ベ。
その声は、耳ではなく胸の内側に響いた。
何百もの囁きが重なり、波のように押し寄せる。
怖い。
でも、それ以上に“懐かしい”と感じてしまった。
この声を、どこかで聞いた気がする。
胸の奥で、赤い光がかすかに揺れる。
炎が――戻ってくる。
「ルカ、しっかりして!」
ミレイアの声が届く。
彼女の祈りの光がランプの残火に触れ、かすかな明るさが戻った。
その瞬間、絡みついていた影がビクリと震える。
痛みのような気配。
僕は息を吐きながら、心の中で作法を思い出した。
“声を聞く前に、決まりを置け。”
墓守の教えの最初の一文。
僕は唇を動かし、心の奥で小さく呟いた。
「――この声に、意味を与えない。」
それだけで、黒い影がふっと揺らぎ、指先から離れていった。
冷たい空気が戻る。
暗闇の中で、赤い灯が小さく瞬いた。
「……今の、なに?」
エリシアが震えた声で言う。
「封印の“息”だと思う」僕は息を整えながら答える。「まだ生きてる。祈りと一緒に」
「祈りが……?」ミレイアの顔に、驚きと悲しみが入り混じる。
「たぶん、ここに眠る人たちの“願い”だ。でも、それが縛られてる」
エルドが短くうなずいた。「誰かが祈りを利用してる、ということか」
「……そうかもしれない」
静かな沈黙が落ちる。
亀裂はもう閉じたが、聖堂の奥から小さな囁きがまだ続いていた。
“呼ベ”“聞ケ”“繋ゲ”
それは命令のようで、懇願のようでもあった。
胸の炎が小さく脈を打つ。
――もし、これが“祈り”なら。
聞かずにいることも、きっと罪なんだ。
僕はランプを握りしめた。
炎の奥で赤い芯が光を取り戻す。
その色はもう、昼の白光とは違う。
温かくて、静かな“生きた火”だった。
「……まだ終わってない。声は続いてる」
ミレイアがうなずく。「ええ。たぶん、呼びかけてるのよ。次の“門”へ」
僕たちは互いに顔を見合わせた。
恐怖はまだ消えていない。
けれど、誰も逃げようとはしなかった。
闇の奥で、また新しい音がした――今度は“呼吸”の音だ。
まるで聖堂そのものが、長い眠りから目を覚ましたように。
空気が変わった。
さっきまでただの“風”だった囁きが、今度は意味を帯び始める。
音じゃなく、意識の奥に直接届く感じ。
僕の鼓動と重なり、頭の内側で誰かの声が形をとっていく。
――名を、聞け。
――呼ぶ前に、決まりを置け。
――さもなくば、祈りは刃となる。
「……今、聞こえた?」僕は息をのむ。
ミレイアが頷いた。「ええ。音じゃなくて、言葉……頭の中に流れ込んできた」
「僕にもだ」エルドが眉をひそめる。「だが、この声は“誰”のものだ?」
答えようとしても、言葉にならない。
それは人間の声というより、祈りの“残響”だった。
ミレイアが一歩前に出て、両手を胸の前で組んだ。
「――どうか、あなたの名を教えてください」
祈りの言葉は柔らかく、光を帯びて広がる。
その瞬間、空気がわずかに震えた。
まるで聖堂全体がその祈りに応えるように、低く、長く“息を吐いた”。
――我は、無き名。
――名を奪われ、声だけを残されたもの。
低く響くその言葉に、ミレイアの瞳が揺れた。
「名を奪われた……? この聖堂の碑文が削られていたのと関係があるのね」
「たぶん、“名を消すことで祈りを支配した”んだ」僕は口の中でつぶやいた。
「祈りを支配……?」エリシアが小さく息を呑む。
「うん。名前を失った祈りは、誰のものでもなくなる。だから――“使える”」
その瞬間、空気がピシリと裂けた。
黒石の床に、赤い光の線が浮かび上がる。
ルーンのような文字が一瞬だけ形を取り、また崩れた。
「ルカ、危ない!」
ミレイアが僕の腕を掴む。
だが、もう遅かった。
光の粒がランプの炎に吸い込まれ、火がひときわ大きく膨らむ。
白と赤が混じり合い、やがて淡い橙へと変わった。
炎の奥に、ぼんやりと“人の輪郭”が見えた。
――聞く者よ。墓の守り手よ。
――名を呼ぶな。
――けれど、名を恐れるな。
声が静かに、けれど確かに僕の中に流れ込む。
ミレイアが祈りを重ねるように目を閉じた。
「……あなたは、まだここにいるのね」
「そう。“残響”として」僕は言葉を返すように呟いた。
それは意思だった。
亡霊でも幻でもなく、“祈りそのもの”が、僕たちに話しかけていた。
――決まりを置け。
――聞く者の作法を示せ。
――さすれば、次の門が開く。
光の粒がゆっくりと舞い上がり、祭壇の上にひとつの文字を残した。
〈真名〉――その一文字だけが、なぜか他よりも深く刻まれている。
「真名……呼ぶ者と呼ばれる者を結ぶ名前」ミレイアが小さく呟く。
「でも、呼べば結ばれる。結ばれれば、縛られる」
「だから“決まり”がいるんだ」僕は答えた。
「墓守の作法……一行のルールを置いてから、名を呼ぶ。そうすれば、祈りに飲まれない」
炎が、静かに揺れた。
“残響”の声がそれを認めるように、一度だけ低く鳴る。
――聞く者よ。門は、あなたの決まりを待っている。
そして、囁きがすっと消えた。
聖堂には静けさだけが戻る。
だが、その静けさは、嵐の前の静けさに似ていた。
僕は胸の炎を見つめ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
これが“導き”なら――次に進むのは、僕の“決意”だ。
静けさが、重く沈んでいた。
まるで聖堂そのものが、僕の決断を待っているかのように。
ランプの炎は赤と白のあいだで揺れ続け、呼吸に合わせてかすかに脈を打つ。
「……名を呼べば、“次の門”が開く」
自分の声が思ったより大きく響き、慌てて口を閉じた。
石の壁がその言葉を飲み込んでいく。
「でも、本当に呼んでいいの?」
エリシアの声は、細い糸のように震えていた。
「さっきの囁き……“呼べば縛られる”って言ってたわ。そんなの、罠じゃないの?」
「罠かもしれない。でも、声は“祈り”でもある」ミレイアが静かに言う。
「たぶん、この聖堂に眠る人たちが、まだ“誰かに思い出してほしい”って願ってるの」
エルドが壁際で腕を組んだ。「だとしても、ルカが名を呼んだ瞬間に何が起こるかは分からん。封印は、そう簡単なものじゃない」
「そうだな」カイエンも頷く。「この場所を“維持”している者がいる。おそらくは王宮の連中だ。下手に触れば、見つかる」
「見つかったら?」僕は問う。
「影の使徒として処分される」
淡々とした声に、空気が一段冷えた。
沈黙。
仲間の視線が集まる。
それでも、僕の手は止まらなかった。
祭壇の上に浮かぶ〈真名〉の文字が、ゆっくりと脈打っている。
まるで呼吸しているように。
――名を呼べ、と言っている。
でも、呼べば何かが変わる。取り返しのつかないことになるかもしれない。
僕の胸の炎が小さく揺れ、過去の記憶がかすめた。
“名前を呼ぶ”――それは墓守の作法では、最も危うい行為。
呼んだ名に応じて、魂がこちら側に“戻る”ことがある。
戻ってきた魂が穏やかなら祈りとなる。
でも、怒りや悲しみを抱えたままなら……災いを呼ぶ。
僕の手が震える。
どんな決まりを置けば、この祈りと対話できるんだろう。
「ルカ」
ミレイアがそっと声をかけた。
その瞳はまっすぐで、恐れよりも信頼があった。
「あなたは、これまでたくさんの“声”を聞いてきたわ。だから、きっとわかる。これは、怒りじゃない。助けを求める声」
僕は息をのみ、彼女の手を見つめた。祈りの光が、指先にほんのり灯っている。
暖かい。
恐怖で凍った心の奥に、小さな火が戻る。
「……そうだね。聞かなきゃ、いけない気がする」
「やめておけ」カイエンの声が低く響く。「理屈じゃない。直感で嫌な予感がする」
エルドも頷く。「ああ。あの囁きは“門”を開かせるために誘っている。意志が強くなければ、飲まれるぞ」
ミレイアが一歩前に出た。「だからこそ、ルカにしかできないの。墓守は“聞く者”でしょ? 誰も届かない声に、手を伸ばすのが役目よ」
「……役目、か」僕は苦笑した。
恐ろしいのに、その言葉に少し救われた気がした。
“役目”という言葉は、僕に“選ばなきゃいけない理由”を与えてくれる。
「わかった」
僕は立ち上がり、ランプを祭壇の中央に置いた。
炎が反射して、〈真名〉の文字が淡く光る。
「でも、呼ぶ前に一つだけ“決まり”を置く」
ミレイアが目を細める。「どんな決まり?」
「“呼ぶ名は、今夜だけ真名ではない”。――本当の名を呼ばずに、声だけを結ぶ」
「それで、縛られずにすむのね」
「たぶん」僕は小さく笑う。「墓守の一行ルールは、祈りと願いの“間”を作るためのものだから」
みんなの表情に、わずかな安堵が戻る。
けれどその瞬間、聖堂の奥からまた風が吹いた。
床の〈真名〉が淡く光り、石が低く鳴る。
――門は、開く。
僕の胸の炎も同じリズムで脈を打った。
名を呼ぶ時が、きた。
空気が張りつめた。
聖堂の奥から吹き上がる風が止み、あたりが不自然なほど静かになる。
炎が揺れる音さえ聞こえない。
僕はゆっくりと息を吸い込み、胸の前で両手を重ねた。
「――聞く前に、返す道を用意する」
作法を心の中で唱え、ランプを見つめる。
白い光の芯が、赤い輪をまとって震えた。
〈真名〉の文字が淡く光を帯び、聖堂の空気がひとつ脈動する。
「行くぞ」僕は小さく言った。
ミレイアが祈りの言葉を重ねる。「願わくば、この光が正しい導きをもたらしますように」
「“呼ぶ名は、今夜だけ真名ではない”」僕は宣言した。
そして、ゆっくりとその名を呼ぶ。
それは人の言葉にはない響き。
音ではなく、心臓の鼓動の間に挟み込まれた“声”だった。
――名を、聞いた。
――聞いた者よ、ここに記す。
赤い光が一気に広がり、聖堂の壁面に古い模様が浮かび上がる。
それは祈りの紋様だった。だが、よく見ると地図のようでもある。
「……これ、まさか」エリシアが息をのむ。
ミレイアが近づいて光をなぞった。「王都の地下……? でも、中心部が抜けてる」
「いや、抜けてるんじゃない」僕はランプを掲げた。「“隠されてる”んだ」
壁に描かれた線の中央、円形の空白。
その部分にだけ、祈りの文様が重なり合っている。
「封印……王都の真下に、もう一つの聖堂がある」
僕がそう言った瞬間、聖堂の奥から低い音が鳴った。
ゴウン、と地鳴りのような音。
石の床が細かく震え、光が亀裂を走る。
「ルカ!」
ミレイアが駆け寄り、僕の腕をつかむ。
「大丈夫。これは……“応答”だ」
足もとから上がる光が、まるで階段のように整列していく。
一本の光の道が、祭壇から地下のさらに下へと続いていた。
――ここに、祈りの根がある。
――名を消されし者たちの、最後の願いが眠る場所。
声が再び響く。
でも、今度は柔らかかった。
怒りや呪いではなく、祈りの残り火のように穏やかだ。
ミレイアが涙をこぼした。「……まだ、消えてなかったのね」
「ええ。祈りは焼かれても、消えない」僕は炎を見つめる。「それを“墓守”が証明する」
その瞬間、光が弾けた。
まるで夜空に花が咲くように、赤と金の粒が天井を駆け上がる。
それは音もなく散り、空中にひとつの形を残した。
――三日月。
王都の地図の空白、そして聖堂の地下に刻まれた印。
「……三日月の角。そこが“影の芽”の在り処だ」僕は呟いた。
エルドが険しい顔で頷く。「王宮の水路がその形をしている。誰かが意図的に隠したんだ」
光がゆっくりと消えていく。
聖堂の空気が穏やかに戻り、炎も安定した。
けれど、その穏やかさは、ただの安堵ではなかった。
まるで、“使命”を受け取ったあとの静けさ。
胸の奥に、はっきりとした言葉が刻まれていた。
――祈りを救うために、影を見つけろ。
「……行こう」
僕は立ち上がり、祭壇を見下ろした。
炎が、ほんの少しだけ強く揺れる。
それはまるで、祈りが“ありがとう”と答えているようだった。
聖堂を出たとき、外の空気はひどく冷たかった。
長く閉ざされた扉をくぐると、夜の匂いが胸いっぱいに広がる。
地上では雨の名残が石畳を濡らし、月明かりがそこに細い道を描いていた。
ランプの炎を絞ると、光が一筋の糸のようになって僕たちを照らす。
「……夜明け前ね」ミレイアが囁いた。
空の端が少しだけ白んでいた。闇と光が混ざる、その境目の時間。
祈りの声が消えた聖堂を振り返ると、そこにまだ、誰かの気配が残っている気がした。
「三日月の角、か」カイエンがつぶやく。
「王都の地図を見返す必要があるな。水路の交点にそんな形があったはずだ」
「確か、古い王立水道の設計書なら東区の資料庫に残ってる」エルドが答える。
「でも、昼間は警備が厳しい」エリシアが眉を寄せる。「夜に動くしかないわ」
「危険でも、行くしかない」僕は静かに言った。「あの声が教えてくれた。そこに“影の芽”がある」
ミレイアがうなずいた。「あれは怒りじゃなかった。祈りだった。放っておけば、また誰かがあの力を利用する」
「……光の影、か」カイエンが低く呟く。
昨日、英雄祭で見たヴァルトの姿が頭をよぎる。
あの冷たい笑み。完璧な光の鎧。その背に見えた黒い揺らぎ。
(あれが、“影の芽”と繋がっているのか……?)
胸の奥の炎が、かすかに疼いた。
通りの上で、風が鳴った。
朝の気配が近づいているのに、街の空気はまだ眠っている。
屋根の上で鳩が羽を震わせ、遠くで鐘が一度だけ鳴った。
“目覚め”の合図のように。
「行こう」
僕は歩き出した。靴の裏で水が跳ね、光の粒が短く揺れた。
ミレイアがその横を並んで歩く。「……ルカ、さっきの声、もう聞こえない?」
「うん。たぶん、もう静かに眠ったんだと思う」
「じゃあ、また呼ばれるかもしれないね」
「そのときは……ちゃんと返すよ」
僕は微笑んだ。炎が小さく応えるように揺れた。
坂を登ると、王都の屋根の向こうに朝の光がのぞいた。
夜の終わりを告げる光。けれど、心の中にある闇は、まだ消えていない。
「王都の地下に、もう一つの聖堂があるなんて……」エリシアが呟く。
「もしそれが“影の巣”なら、王国そのものが危ない」エルドが言う。
「たぶん、もう動いてる」カイエンが短く答えた。「ヴァルトの背後にいる“何か”が」
僕はうなずく。昨日の光景が頭から離れない。
白い光の中で消えていった祈りたち。
その声が、まだ耳の奥で囁いている。
――光を恐れるな。影を見つめろ。
「……ねぇ、ルカ」
ミレイアが小さく呼んだ。
「なに?」
「あなたの炎、さっきより優しい色になった」
僕は胸のランプを見た。
赤でも白でもない、淡い橙の光。
「これはきっと、“祈りの灯”だ」
そう言うと、ミレイアが笑った。
「じゃあ、その灯が消えないように、次の場所まで行かなきゃね」
「うん。三日月の角へ」
朝焼けが、街をゆっくりと染めていく。
光と影が混ざり合うその瞬間、王都の屋根の上で一羽のカラスが鳴いた。
まるで、新しい夜明けの前に何かを告げるように。
僕たちはそれを背に、歩き出した。
――次に向かうのは、王国の“心臓”だ。




