第20話 影に潜む策謀
王都は、一見すると静けさを取り戻していた。
大通りには露店が並び、人々が行き交っている。
鐘の音もいつも通りに鳴り、城壁の上では衛兵が槍を持って立っていた。
けれど――その静けさの奥には、深い不安が潜んでいた。
「影がまた出るかもしれない」
「王女様は何もできなかったそうだ」
「この国はもう終わりだ」
広場を歩けば、そんな噂話が耳に入ってくる。
表情は笑っていても、その目は笑っていない。
人々の声には、影そのものよりも重たい「不信感」がこもっていた。
路地裏では、影兵の襲撃で焼けた家の修復が続いていた。
黒く焦げた壁に泥を塗り、屋根を直そうと必死に働く家族。
だが誰も口を開かず、ただ重い沈黙だけが流れている。
「……やっぱり、王家は頼りにならない」
若い男が小さくつぶやくと、周囲の者たちがうなずいた。
「兵士もやられてたんだろ? 影を防げるわけない」
「なら、誰が俺たちを守るんだ……」
その言葉は風に乗り、また別の人々の間に広がっていく。
王家の権威は、ゆっくりと削られていた。
一方、城内も同じだった。
謁見の間での惨劇以来、王の間は閉ざされ、国王は表に姿を見せていない。
重臣たちが廊下を行き来するが、その顔には不安の色が濃い。
「陛下は弱られている」
「王女殿下も……声を民に届けられなかったと聞く」
「このままでは王国が揺らぐぞ」
ひそひそ声は途切れることなく続いた。
玉座に座る王の影は日に日に薄れ、代わりに不信と恐怖の影が広がっていく。
夕暮れ、王都の空を赤く染める中。
人々は家路を急ぎながらも、背後を何度も振り返った。
影がまた現れるのではないか――その恐怖が、心から消えていなかったからだ。
静けさは、決して平和ではなかった。
それは嵐の前の静けさにすぎなかった。
王城の一室。
厚い扉の奥に集められたのは、十数名の重臣たちだった。
部屋の中は窓が閉ざされ、灯された燭台の光だけがゆらゆらと照らしている。
「……陛下は、もはや公務をこなせる状態ではない」
ひとりの老臣が口火を切ると、ざわめきが広がった。
「謁見の間での一件以来、病のように伏せっておられるとか」
「王女殿下も、民を導くことはできなかった……」
「むしろ王家そのものが、影を呼んでいるのではと民は囁いておりますぞ」
声を落としながらも、その言葉は鋭かった。
別の若い重臣が苛立ったように机を叩いた。
「ふざけるな! 王家を疑うような発言は許されん!」
「だが現実に、民の間ではそう囁かれておる」
「このままでは、民の心は完全に離れる」
「……王国の未来はどうなる」
重苦しい沈黙。
誰もが真実を口にできず、ただ互いの顔色をうかがっていた。
そのとき、低い声が部屋を満たした。
「――ならば、導く者が必要だろう」
重臣たちの視線が一斉に向く。
そこに立っていたのは、長身の男。黒い外套に金の留め具をつけ、整った口髭を持つ――カイエン卿だった。
「カイエン卿……」
誰かが名をつぶやく。
彼はゆっくりと歩みを進め、燭台の光を背に受けながら中央に立った。
その姿は、影をまとったように堂々としていた。
「王家が弱り、民が怯えている今こそ――我らが立ち上がる時だ」
その声は重く、部屋に響き渡った。
ざわめきが再び広がる。
だが、誰も反論しなかった。
カイエン卿の言葉は、皆の胸の奥に潜んでいた不安を代弁していたからだ。
彼の口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
「影に抗えるのは、強い秩序だけだ。……諸君、そうは思わぬか?」
その問いかけに、重臣たちは互いに視線を交わし、やがてうなずき始めた。
王家を支えるべき者たちの心が、少しずつ別の方向へと傾いていく――その瞬間だった。
重臣たちのざわめきが収まるのを待つように、カイエン卿はゆっくりと口を開いた。
その声は低く、しかし不思議なほど耳に残る響きを持っていた。
「諸君。王家が代々守ってきたはずのこの王国は、今どうなっている?」
誰も答えなかった。
だが、彼は自ら答えを示すように手を広げる。
「影の襲撃に民は怯え、王の姿は玉座から消え、王女は声を届けられなかった。民衆は失望し、疑いの目を向けている」
その言葉は痛烈だった。
重臣たちは顔をしかめながらも、否定はできなかった。
カイエン卿は一歩前に出る。
「王家は民を導けぬ。これは誰の目にも明らかだ」
「し、しかし……陛下は病に伏せておられるだけで――」
老臣が震える声で反論しかける。
カイエン卿の視線が鋭く突き刺さった。
「病? それは言い訳にすぎん。真実は“力がない”ということだ。弱き王に民を守れるはずがない」
部屋に重苦しい空気が走る。
「……だが、王家の威光なくして、この国をどう導くというのだ」
別の重臣が恐る恐る問い返す。
カイエン卿は冷たく笑った。
「導くのは王ではない。秩序だ。力ある者が立ち、正しき秩序を築けばいい」
その言葉に、何人かの重臣がうなずき始めた。
恐怖に揺れる心は、強い言葉を求めていたのだ。
「影は混乱を好む。ならば我らは混乱を排し、統べる者となるべきだ」
「王家が衰えた今、この国に必要なのは“力”だ」
言葉が次々と重ねられ、やがて一つの空気を形づくっていく。
――王家ではなく、カイエン卿の言葉に従うべきだ、と。
カイエン卿は満足げに口元をゆがめた。
「恐れるな。民は弱いゆえに、必ず力ある者を求める。私がその声となろう。
そして諸君――お前たちがその礎となるのだ」
燭台の炎が揺れ、影が壁に広がる。
その影はまるで、カイエン卿の背から伸びた黒い翼のようだった。
重臣たちは誰一人、声を上げなかった。
それは反論ではなく――すでに彼に呑まれていたからだ。
夜の王城。
重臣たちとの会合を終えたカイエン卿は、自らの執務室に戻っていた。
広い部屋に並ぶ書架と豪奢な机。
だが、彼は机に向かうことなく、窓の外に沈む闇をじっと見つめていた。
「……来るがいい」
低くつぶやく。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
壁にかけられた燭台の炎が揺らぎ、窓辺の影が膨れ上がっていく。
黒い靄が渦を巻き、人の形を取った。
「――待っていたぞ、影よ」
カイエン卿は微動だにせず、背筋を伸ばして影に向き合った。
影はゆらゆらと揺れながら、低い声を放った。
『人の身でありながら、我らを呼ぶとは……恐れを知らぬな、カイエン卿』
「恐れを知らぬのではない。恐怖を利用するのだ」
カイエン卿の声は冷ややかだった。
『王家は脆い。玉座は血にまみれ、民の心は離れつつある。……それでも貴様は、王国を欲するのか?』
「欲するのは王国ではない。真の秩序だ」
彼の目がぎらりと光る。
「弱き王も、揺らぐ民も不要。力ある者がすべてを導く――そのためならば、影の力さえ利用する」
影はくつくつと笑った。
『人は弱きゆえに影に縋る。……だが、お前は違うな。自ら影を抱き込もうとしている』
「取引と呼べ。お前たちの望みと、私の望みは一致しているはずだ」
『……面白い。ならば力を貸そう。だが一つだけ条件がある』
「言ってみろ」
影は床を這い、黒い手のようなものを伸ばした。
『――墓守の少年を葬れ。我らにとって最大の障害はあの声を聞く者だ』
カイエン卿はわずかに目を細めた。
だが迷いはなかった。
「承知した。墓守は、必ずこの手で葬る」
その答えに、影は満足げに笑った。
『良い。ならば契約は成った。……人と影、共に王国を飲み込もうではないか』
黒い靄が広がり、部屋全体を覆う。
それはやがて消え、何事もなかったかのように静寂が戻った。
カイエン卿は窓の外の夜を見つめた。
その横顔には、恐れも迷いもなかった。
ただ冷酷な決意だけが残っていた。
「墓守の少年……ルカ。必ず、私が終わらせる」
執務室の空気は、まだ冷たい闇の気配を残していた。
窓から差し込む月光は淡く、机に置かれた羊皮紙の上で揺れている。
その光を前にして、カイエン卿は静かに椅子に腰を下ろした。
「……影と取引を交わす日が来るとはな」
低くつぶやきながらも、その声にはわずかな笑みが混じっていた。
机に広げられた地図には、王都から南へと延びる街道が描かれている。
そこには小さく印がつけられていた。
――ルカたちが向かっているであろう道。
「墓守の少年……。あの小さな灯火を、影が恐れるとは」
カイエン卿は指先で地図をなぞる。
「ならば、やはり“鍵”を握っているのは奴か」
瞳に冷たい光が宿る。
そのとき、再び耳に低い囁きが届いた。
『契約は交わされた。お前の望みを果たすため、我らも力を貸そう』
影の声は、壁に映る黒い揺らめきの中から響いていた。
カイエン卿は表情ひとつ変えず答える。
「力を貸すというなら、試させてもらおう。墓守を狙う刺客……必ず仕留められる者を寄越せ」
『ふふ……人の手と影の手。どちらが強いか、見せてやろう』
闇が笑った気がした。
しかし、カイエン卿はわずかに目を細めた。
「忘れるな。私はお前たちに従うつもりはない。利用するだけだ」
『……人は皆そう言う。だが結末は同じだ。我らは必ず心の隙を食う』
ぞわり、と冷たい風が部屋を撫でた。
それでも彼は眉ひとつ動かさない。
「心の隙を突かれるほど、私は甘くない」
唇に浮かんだのは、確かな自信の笑みだった。
影の気配がゆっくりと消えていく。
静けさが戻ると同時に、カイエン卿は再び地図を見下ろした。
「弱き王も、無力な王女も不要……。必要なのは、揺るぎなき秩序」
羊皮紙の上に赤い印をつける。
そこはルカたちが旅の途中で必ず通るであろう村。
「そこで待ち伏せさせる。……墓守の少年、貴様の炎をここで消してやる」
月光に照らされたその横顔は、冷酷な決意に染まっていた。
王城の裏門。
夜気に包まれたその場所に、数人の男たちが集められていた。
粗末な外套に身を包み、顔の半分を布で隠している。
誰も口を開かず、ただ緊張した目をしていた。
やがて、足音が石畳に響く。
現れたのはカイエン卿。
月光に照らされたその姿は、まるで夜を統べる支配者のようだった。
「――集まったな」
低い声が響き、男たちは一斉にひざまずいた。
カイエン卿はゆっくりと彼らを見渡す。
「お前たちには任務を与える。南へ向かう一団を追え。……墓守の少年と、その仲間たちだ」
「墓守……」
小さなざわめきが走る。
「王都を襲った影を退けたという……あの子供か」
「本当に人間なのか?」
疑いと恐怖が混じる声に、カイエン卿の瞳が鋭く光った。
「影に恐れられるほどの存在らしい。ならば、我らにとっても障害だ。必ず葬れ」
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこにはルカたちの似顔絵が描かれている。
ルカ、エリシア、ミレイア、そして黒犬クロの姿。
「村や街に潜り込み、情報を集めろ。機を見て襲え。……どんな手を使っても構わん」
男たちは深く頭を垂れる。
その動作は忠誠ではなく、恐怖に縛られたものだった。
カイエン卿は背を向け、夜空を仰いだ。
「王国は変わる。弱き者が去り、強き者だけが残る。……その秩序のために、お前たちは血を流せ」
「はっ!」
男たちが一斉に答え、闇の中へ消えていく。
残されたのは、冷たい月光と、石畳に響くカイエン卿の独白だけだった。
「墓守の炎など、一息で吹き消せる……」
王都の夜は静かだった。
だが、その静けさの裏で、確かに何かが動き始めていた。
城の高い塔の上に、カイエン卿の影が立っていた。
月明かりに照らされたその姿は、王都全体を見下ろす支配者のように冷たく光っている。
眼下には、まだ修復の終わらない街並み。
焦げ跡の残る壁や、怯えて家にこもる民の姿。
そのすべてを見渡しながら、彼は小さく笑った。
「弱き王に未来はない。無力な王女に民を導く力はない。……ならば、この国を築き直すのは誰か?」
自らの胸に手を当て、彼は低く言い放つ。
「――この私だ」
その声は夜風に消えたが、月光に照らされた横顔は揺るぎなかった。
その背後で、黒い影がゆらめいた。
まるで彼の言葉に応えるように、塔の壁に影の翼が広がっていく。
『秩序を望むか、人の王よ』
低い囁きが闇の中から響いた。
カイエン卿は振り返らず、ただ前を見つめたまま答える。
「望む。……影の力さえ利用してでもな」
影が笑う。
『ならば、未来は血で染まろう。それでも構わぬのか?』
「構わん。秩序は血なくして生まれぬ」
その瞬間、塔の上を風が吹き抜けた。
冷たい夜風が、彼の外套を大きくはためかせる。
カイエン卿は両手を広げ、王都を包み込むように見下ろした。
「震えて眠るがいい、民よ。やがて私が“真の王国”を築いてやる」
闇が揺らめき、不気味な笑い声が夜空に溶けていった。
王都に残ったカイエン卿が、ついに影と手を結びました。
彼の冷徹な野望は、ルカたちの旅に大きな影を落とそうとしています。
次回、第21話「旅の始まり」で、仲間たちが新たな一歩を踏み出します。