第19話 王女の誓い
夜が明けて、森を抜けた街道に朝の光が差し込んでいた。
冷たい夜露に濡れた草がきらきらと光り、鳥のさえずりが遠くで聞こえる。
けれど僕たちの足取りは重かった。
エリシアは背に幼い子どもを抱きかかえ、黙ったまま歩いている。
昨日助け出したあの子だ。疲れて深く眠っているのか、時折かすかに寝息が聞こえてきた。
エリシアの表情は柔らかいけれど、その瞳の奥にはまだ迷いが影のように残っていた。
「……大丈夫かな」
僕は小さくつぶやいた。
「何が?」
隣を歩いていたミレイアが問い返す。
「エリシア。ずっと無理してる気がして」
ミレイアはちらりと彼女を見て、苦笑した。
「王女だから、弱さを見せられないんでしょ。でも……人間なんだから、本当は泣きたいはずよ」
クロが「ワン」と短く吠え、エリシアの横に寄り添うように歩いた。
子どもの体を支える彼女の背に、黒い犬の存在が心強さを加えていた。
やがて小さな川を渡り、陽光の差す草原に出た。
風が頬をなで、少しだけ空気が軽くなった気がする。
「ふぅ……」
エリシアがようやく息を吐いた。
でも表情はまだ硬い。
サイラスがそんな彼女を横目で見ながら口を開いた。
「王女殿下。君は“王女としての責任”と“仲間としての覚悟”を混同しているな」
その言葉に、エリシアの眉がぴくりと動く。
「どういう意味?」
サイラスは落ち着いた声で続けた。
「王女だから民を守るのか。それとも、一人の仲間として隣にいる者を守るのか。どちらを偽れば、君の心は必ず折れる」
「……!」
エリシアは反発するように口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
僕は思わずサイラスをにらんだ。
(言い方がきつい……でも、言ってることは確かに当たってるかもしれない)
エリシアはしばらく黙ったまま歩き続け、やがてぽつりとつぶやいた。
「私は……王女である前に、一人の人間……なのかな」
その小さな声は、風に混じって消えそうに儚かった。
朝の光を浴びながら進む街道は、一見すると穏やかだった。
けれど僕たちの足音の間には、まだ昨日までの影の戦いの余韻が重く漂っている。
サイラスは長い杖を軽く突きながら、少し後ろを歩いていた。
外套の裾が風に揺れ、片手には例の分厚い本を抱えている。
昨日の戦いで深手を負ったはずなのに、表情は変わらず冷静そのものだった。
「王女殿下」
突然、彼が声をかける。
エリシアは背に子どもを抱いたまま振り返った。
「……何かしら」
「君は“王女としての責任”と“仲間としての覚悟”を同じものだと思っている」
淡々とした口調で、またあの言葉を繰り返す。
エリシアの瞳が揺れた。
「それのどこが悪いの? 責任と覚悟、どちらも私に必要なものよ」
サイラスは小さく首を振る。
「どちらも必要だが、混ぜれば脆くなる。王女として民を守ることと、一人の仲間として共に戦うこと……その二つは似ているようで違う」
「……っ」
エリシアは言葉を失った。
ミレイアが口を挟む。
「つまり、王女としての義務に縛られていると、仲間としての自分を偽ってしまう……そういうこと?」
「そうだ」サイラスは頷く。
「どちらも本物でなければならない。偽れば、心は必ず折れる」
彼の言葉は冷たいけれど、妙に説得力があった。
僕は思わずエリシアを見た。
彼女は唇を噛み、何も言えないまま前を向いて歩き続けていた。
少しの沈黙のあと、エリシアがぽつりとつぶやいた。
「私は……王女だから皆を守ろうと思っていた。でも……仲間としての私に、意味はあるのかしら」
その声には、深い迷いがにじんでいた。
僕は拳を握った。
(エリシア……。君の声は、僕にとってはちゃんと意味があるんだ。王女だからじゃなくて、エリシアだから)
でも、今はまだ言葉にならなかった。
ただ、彼女の背中を見つめることしかできなかった。
昼前、僕たちは森を抜けた丘の上に腰を下ろした。
見渡す先には、小さな村の屋根が点々と見える。けれど煙はなく、昨日の焼け跡とは違う穏やかな景色だった。
エリシアは子どもを抱いたまま、風に揺れる草を見つめている。
その横顔は静かだけれど、眉間には迷いの影が残っていた。
僕は勇気を出して、そっと声をかけた。
「ねえ、エリシア。少し話してもいい?」
「……なに?」
彼女は視線を外さずに答える。
「昨日から考えてたんだ。エリシアは王女だから民を守らなきゃって思ってるんだよね」
エリシアは小さくうなずいた。
「当然でしょ。王家に生まれた者の義務よ。民を守れなければ、私は……存在する意味がない」
その言葉を聞いて、胸が苦しくなった。
「違うよ」思わず声が大きくなる。
「僕は王女だから一緒にいるんじゃない。エリシアだから一緒にいるんだ」
「……っ!」
彼女の瞳が揺れる。
「影と戦ったとき、エリシアは真っ先に父王を庇った。昨日だって、泣いてる子どもを抱いて守った。あれは王女だからじゃない。エリシア自身がそうしたいと思ったからでしょ」
エリシアの唇が震えた。
「でも……私は失敗ばかり。声は届かないし、民に拒まれた……」
「それでも!」
僕は立ち上がり、彼女の前に立った。
「僕は見たんだ。必死で声を張り上げてたエリシアを。誰よりも民を思っていたその姿を。だから僕は、王女じゃなくても――エリシアを信じたい」
しばし沈黙が続いた。
風が草原を渡り、子どもの寝息が小さく聞こえる。
やがて、エリシアは小さく笑った。
それは泣きそうで、でも少し救われたような笑みだった。
「……ルカって、時々ずるいわね」
その声は震えていたけれど、確かに僕の心に届いた。
昼下がり、僕たちは丘を下りて再び街道に戻った。
遠くに村が見えるのに、道中は不思議なくらい静かだった。
けれど、その静けさの奥に不穏な気配が混じっているのを、僕は耳で感じていた。
――来る。
耳の奥で囁きが走る。
「待って!」
僕が声を上げた瞬間、道端の木の根から黒い靄が噴き出した。
形を持たない影がうごめき、やがて兵士の形をとる。
昨日の大規模な襲撃ほどじゃないが、五体……いや六体。
「影の残滓……!」
ミレイアが聖具を握りしめる。
「ルカ、子どもを!」
エリシアは背負っていた子を僕に託すと、迷わず剣を抜いた。
「エリシア!? 無理だ、数が多い!」
僕が叫ぶが、彼女は引かなかった。
「守らなきゃ! 王女としてじゃなく……私自身として!」
その声は震えていたけれど、迷いはなかった。
エリシアは影に突っ込み、剣を振るう。
金属音が響き、黒い靄が散る。
けれど敵は次々と形を取り戻し、じりじりと彼女を追い詰めていった。
「エリシア、下がって!」
僕が叫んでも、彼女は引かない。
むしろ一歩も退かず、影に剣を突き立て続けていた。
「私が……守るの!」
その必死の声は、王女ではなく、一人の少女の叫びだった。
けれど影は容赦なく迫り、剣の隙を狙って腕を伸ばす。
「くっ……!」
エリシアの肩がかすめられ、赤い線が浮かぶ。
僕は子どもを抱えたまま歯を食いしばった。
(このままじゃ……エリシアが!)
影の兵たちがエリシアを囲んでいた。
彼女は剣を構え、必死に斬り払っている。
けれど数が多すぎる。受け止めるたびに足が下がり、肩から血がにじむ。
「やめろぉ!」
僕は子どもをミレイアに預け、ランプを高く掲げた。
炎がゆらめき、黒い影の輪郭を照らす。
――左、背後から。
――二歩先、足元を狙え。
声が届いた。
(今度は迷わない!)
「エリシア! 左後ろ!」
叫ぶと同時に彼女が振り返り、剣で影を切り払った。
黒い靄が弾け、悲鳴のような音が森にこだまする。
「やった……!」
だが安心する暇もなく、別の影がエリシアの足元から伸びた。
「下だ!」
僕の声で、彼女は飛び退いた。影の腕が空を切る。
「助かった……ルカ!」
エリシアの顔に、ほんの一瞬笑みが浮かんだ。
そのとき、ミレイアが聖具を掲げて祈りをささげる。
「聖なる光よ、影を祓え!」
白い輝きが広がり、影たちの動きが鈍った。
「今よ!」ミレイアの声が響く。
エリシアはその隙に一体の胸を突き、黒い光を断ち切った。
さらにサイラスが杖を振り、低い呪文を唱える。
地面に円形の紋様が浮かび、影の足を縛る。
「完全じゃないが、数秒は動けまい!」
「ナイス!」
僕はすかさず声を重ねる。
「右から二体! 胸の赤を狙え!」
エリシアが突進し、影の中心を貫いた。
残りの影も、ミレイアの光とサイラスの術に押されて、次々と霧散していく。
やがて最後の影が悲鳴を上げて消えた。
辺りに残ったのは焦げた匂いと静寂だけ。
「はぁ、はぁ……」
エリシアが剣を下ろし、膝をついた。
肩で荒く息をしながら、それでも子どもを守り抜いたことに安堵の色が浮かんでいた。
僕は駆け寄り、手を差し出す。
「一人じゃない。僕たちがいる」
エリシアはしばし黙って僕を見つめ――やがて、その手を強く握り返した。
仲間として。
戦いが終わり、森に再び静けさが戻った。
鳥の声は聞こえず、ただ風が木々を揺らす音だけが響いていた。
エリシアは剣を地面に突き立て、その場に膝をついた。
肩からはまだ血がにじみ、呼吸も荒い。
僕は慌てて彼女の横にかがみこむ。
「大丈夫!? 傷、深いよ」
「……平気。こんなの、たいしたことないわ」
強がって笑おうとしたけど、すぐに唇が震えて崩れた。
「私……王女として、ずっと民を守らなきゃって思ってきた。でも……昨日も、今日も……何もできなかった」
言葉はかすれ、涙が滲んでいた。
「声は届かないし、影に追い詰められるばかり……。王女失格よね」
拳を握りしめ、悔しさをこらえきれずに涙が頬を伝う。
「そんなことない!」
僕は思わず声を張り上げた。
「エリシアは戦ったじゃないか! 一歩も引かずに、子どもを守って……僕たちと一緒に!」
彼女は首を振る。
「でも……王女としては失敗ばかり。父上みたいに堂々と声を響かせられない……」
その言葉を遮ったのは、ミレイアの優しい声だった。
「エリシア。あなたは王女である前に、一人の人間よ。仲間として戦ってくれた、それだけで十分」
「仲間として……?」
エリシアが涙に濡れた瞳を上げる。
サイラスも静かにうなずいた。
「王女だから守るんじゃない。仲間だから共に進む。――それでいいのだ」
エリシアは震える手で顔を覆い、ついに泣き出した。
「……私……王女としては弱いけど……仲間としてなら……歩めるかな……?」
僕は即座に答えた。
「もちろん! 僕たちは、王女じゃなくてエリシアを信じたいんだ」
その言葉に、彼女の頬を伝う涙が少しだけ柔らかくなった。
「……ありがとう……」
仲間の輪の中で、彼女の心に少しずつ光が差し込み始めていた。
夜になった。
僕たちは森を抜け、小さな野営地を見つけて焚き火を囲んでいた。
星が澄んだ空に瞬き、冷たい風が頬をなでる。
炎の明かりに照らされながら、エリシアはゆっくりと立ち上がった。
剣を手に取り、静かにその刃を空へ向ける。
「私は……ずっと王女としての役目に縛られてきた。民を守らなきゃ、声を届けなきゃって」
彼女の声は震えていたけれど、確かに響いていた。
「でも私は、声を届かせられなかった。戦っても追い詰められるばかりで、無力さに押しつぶされそうになった」
炎がぱちぱちと音を立てる。
僕とミレイア、サイラスは黙って彼女を見守っていた。
「それでも――」
エリシアは剣を胸の前に掲げ、目を閉じる。
「私はここで決める。王女エリシアじゃなく、一人の仲間エリシアとして歩むと」
瞳を開いたとき、炎の光がその中で揺れていた。
「ルカ、ミレイア、サイラス、そしてクロ。私はあなたたちと共に戦う。仲間として、この命を懸けて」
その言葉は、まっすぐに僕の胸を打った。
「エリシア……」
気づけば僕も立ち上がっていた。
「ありがとう。僕たちも、エリシアを仲間として信じる」
ミレイアが優しく微笑み、サイラスも静かに頷く。
クロは「ワン!」と吠え、夜空に声を響かせた。
焚き火の光の中で、僕たちは確かにひとつになった。
そのとき、耳の奥にかすかな囁きが届いた。
――その誓いが未来を変える。
僕は胸に手を当て、炎を見つめた。
(未来を……変える。なら、僕はもう迷わない)
夜空に瞬く星々が、まるで祝福するように輝いていた。
エリシアは「王女」ではなく「仲間」として共に戦うと誓いました。
チームとしての絆が強まったことで、旅路は新たな段階へ進みます。
次回、第20話「影に潜む策謀」で、遠く王都に残る陰謀の影が動き始めます。