第16話 炎の村にて
王都を出て二日目の朝。
僕たちは北の街道を歩いていた。
空は晴れているのに、どこか胸の奥が重たい。昨日の刺客の言葉――「墓守を殺せば契約は終わる」が頭から離れなかったからだ。
クロが前を駆けながら、たびたび鼻をひくつかせていた。
その仕草に嫌な予感がした。
「……なんだか匂わない?」
ミレイアが眉をひそめて言った。
僕も深く息を吸うと、焦げたようなにおいが鼻を突いた。
「煙……?」
エリシアが顔を上げる。
道の先、薄い灰色の煙が空に立ちのぼっていた。
しかも一筋ではない。いくつもの家から同時に上がっているように見えた。
「急ぎましょう!」
エリシアが駆け出した。僕とミレイアも慌てて後を追う。クロは先に走り、土を蹴る音が道に響いた。
やがて視界に入ったのは――焼け落ちた村だった。
茅葺きの屋根は真っ黒に崩れ、木の柱はまだ煙を上げていた。
地面には壊れた壺や散乱した衣服が転がっている。
井戸のそばには、倒れたまま動かない牛の姿。
まるで昨日までの生活が一瞬で破壊された跡だった。
「……こんな……」
エリシアが息を呑む。
王女として、民の暮らしを見慣れてきたはずの彼女でも、この光景には足を止めていた。
僕の耳に、かすかな声が届き始めた。
――熱い……苦しい……
――子どもを……逃がせなかった……
――なぜ……王都は助けに来ない……
それは、もうこの世にいない人たちの声だった。
焼け跡に残された魂が、最後の瞬間を叫んでいる。
「うっ……」
胸を押さえる。喉が焼けるように痛み、足がすくむ。
(これが……戦乱の現実……? 人が暮らしていた村が……こんな……)
クロが「ワン」と短く吠えた。
彼の黒い毛並みが煙に染まる。
その姿を見ながら、僕は胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じた。
「誰か、生き残りがいるかもしれない!」
エリシアが叫び、焼け跡の奥へ駆けていく。
僕とミレイアも慌ててその背を追った。
村の中は、静かすぎた。
風にあおられた煙が、焼け跡の間をふらふらと漂っている。
足元には、壊れた鍋やこげた人形が転がっていた。
「……ひどい」
ミレイアが眉を寄せて立ち止まった。
彼女の視線の先には、炭になった木の柱が横たわっていた。そこには生活の匂いが確かに残っている。昨日まで家族が囲んでいたであろう食卓。子どもが遊んでいたであろう庭。全部が黒い灰に変わっていた。
「生きてる人は……?」
エリシアが声を張り、あたりを見回す。
「誰か! 返事をしてください!」
けれど、返ってくるのは木材がぱちぱちとはぜる音だけ。
人の声はまったくなかった。
「……いないのか」
僕は唇をかんだ。
そのとき、ミレイアが地面に膝をつき、黒く焦げた跡を手でなぞった。
「影の気配はある……でも、これ、普通の影兵とは違うわ」
「違う?」
僕は顔を上げた。
「ええ。影の爪痕みたいなものが残ってるけど、火のまわり方が不自然。これは……人が火を放ったのよ」
ミレイアは真剣な目で言った。
「つまり、この村を焼いたのは人間。影はそれに乗じただけ」
「人間が……?」
エリシアの声が震えた。
「どうして……こんな小さな村を……」
答えは誰にもわからなかった。
でも、焼け跡の声だけは僕に届いていた。
――逃げられない……
――助けてくれるはずだったのに……
――なぜ王都は来ない……
その声に胸が締めつけられる。
耳をふさぎたくても、墓守である僕にはできなかった。
「ルカ……?」
ミレイアが僕の顔色に気づく。
「……声が、聞こえる。死んだ人たちの……」
かすれた声で答えると、エリシアがぎゅっと唇をかんだ。
「私たちが……守れなかったせいで」
彼女の拳が震えていた。
僕は返す言葉を持たなかった。
焼け跡を歩くたびに、耳の奥でかすかな声がこだまする。
それは風に混じった幻聴なんかじゃなかった。墓守の僕にしか届かない、死者の残した声だ。
――熱い……息が……
――水を……誰か……
――子どもを……守れなかった……
次々と押し寄せてきて、胸の奥にずしりと重くのしかかる。
体が小刻みに震え、吐き気がこみ上げてきた。
「ルカ、大丈夫!?」
ミレイアが駆け寄り、僕の肩に手を置いた。
「……声が……たくさん……」
言葉にした瞬間、また別の囁きが耳に刺さる。
――王都は助けに来なかった……
――見捨てられた……
――もう二度と……信じない……
「やめろ……やめてくれ……」
思わず頭を抱える。けれど声は止まらない。
怒り、悲しみ、後悔。どの声も、生きていた証のように鋭かった。
エリシアがそっと僕の前に立つ。
「聞こえるのね……この人たちの最後の声が」
「うん……あまりに多すぎて……」
視界がにじみ、膝が折れそうになる。
エリシアは拳を握りしめていた。
「……私たち王家が、守るべき民だったのに」
その声は震えて、悔しさでにじんでいた。
「エリシア……」
呼んだのに、言葉が続かない。
僕には慰めの言葉なんて見つからなかった。
ミレイアが静かに言った。
「ルカ、無理に全部を受け止めなくていい。声はあくまで“残り火”なの。大事なのは、その想いをどう伝えるか」
「どう……伝えるか……」
つぶやくと、耳の奥でまた声が響く。
――未来に……残してくれ……
――二度と……同じことが起きないように……
さっきまで苦しみに満ちていた声の中に、かすかに希望を願う声が混じっていた。
それを聞いた瞬間、胸の奥に小さな光が灯った気がした。
「……わかった。全部じゃなくても、伝えるよ。この人たちの無念を……」
そうつぶやいた僕に、クロが寄り添うように「ワン」と鳴いた。
その声が、不思議と支えになった。
崩れた家の前で、エリシアは立ち尽くしていた。
焦げた柱、黒く焼けた壁。そのすべてが、民の生活を無惨に奪い去っている。
「……王都から近いのに、どうして誰も助けに来なかったの」
小さな声がもれた。
「エリシア様……」
ミレイアがそっと名を呼ぶ。けれど、彼女は顔を上げなかった。
「私が……私たちが守るべき民だったのに」
エリシアは膝をつき、焼けた石に手をついた。
「影だけじゃない。人が火を放った……。それを止められなかったのは王家の責任。私の責任……」
その声はかすれていた。
王女としての誇りよりも、ただ一人の少女としての罪悪感に押しつぶされているようだった。
僕は思わず一歩近づいた。
「エリシア……そんなの、エリシアのせいじゃない」
言ったけれど、声は自分でも弱々しく聞こえた。
(だって……民を守れなかったのは事実だ。だから彼女は自分を責めるんだ)
エリシアは首を振った。
「王女だからこそ、責任を負わなくちゃいけないのよ。声を届けられなかった私には……何の意味もない」
その目は赤くにじみ、涙をこらえて震えていた。
「そんなことない!」
気がついたら僕は叫んでいた。
「昨日だって、影の前で一歩も引かなかったじゃないか! あれを見た人は絶対忘れないよ!」
けれど、エリシアはうつむいたまま首を横に振る。
「行動で見せても、声が届かなければ……王女じゃないの」
沈黙が落ちた。
重苦しい空気が胸を押しつぶす。
そのとき、ミレイアが静かに近づき、エリシアの肩に手を置いた。
「エリシア。王女だからじゃない。あなたは一人の人として泣いていいのよ」
その言葉に、エリシアの肩が小さく震えた。
「……でも……私……」
最後まで言えなかった。
涙がこぼれ、灰色の地面に落ちた。
僕はその姿を見ながら、胸が痛くてたまらなかった。
(どうすれば……どうすればエリシアを支えられる? 墓守の僕に、できることはあるのか?)
クロが「クゥン」と小さく鳴き、彼女の足元に寄り添った。
その温もりが、ほんのわずかに彼女を救っているように見えた。
重たい空気の中、かすかな音が混じった。
――ごとり。
瓦礫の山の下から、木の板がずれるような音だった。
「今の……!」
僕が振り向くと、クロがすでに駆け出していた。
黒い毛並みを揺らしながら、焼け跡の一角を必死に掘り始める。
「誰かいるの!?」
エリシアが叫び、灰の山に飛び込んだ。
僕とミレイアも慌てて後を追い、焦げた木材を一つずつどかしていく。
熱はもう残っていなかったが、すすが手にまとわりついて真っ黒になる。
肺に入る灰で咳が止まらない。
それでも――。
「……いた!」
エリシアの声が響いた。
瓦礫の隙間から、小さな手がのぞいていた。
か細い指先が、まだ必死に動いている。
「しっかり! もう大丈夫!」
エリシアが声をかけながら木材を持ち上げる。
僕とミレイアも協力し、ようやく小さな体を引き出した。
現れたのは六歳くらいの男の子だった。
服は煤で真っ黒、顔には涙と灰が混じっていた。
弱々しい呼吸を繰り返しながら、かすかに目を開ける。
「……おかあ……さん……?」
その声に胸が締めつけられる。
エリシアはすぐに抱きしめ、涙をこらえながら言った。
「大丈夫よ。もう一人じゃないわ」
子どもは彼女の胸に顔をうずめ、かすかに頷いた。
まだ震えている小さな体が、エリシアの腕の中でようやく少しだけ落ち着いた。
「生き残りが……いたんだ」
僕は息を吐いた。
死者の声ばかりが胸を刺していた中で、この子の小さな鼓動は確かな希望だった。
「ルカ、クロが見つけてくれたのね」
ミレイアが微笑んだ。
クロは「ワン」と短く吠え、誇らしげにしっぽを振った。
エリシアは子どもを抱いたまま、きつく唇を結ぶ。
「……私は、この子だけでも必ず守る」
その決意の言葉が、焼け跡に強く響いた。
焼け跡に小さな生存者を見つけたのは希望だった。
けれど安心する暇は、ほんの一瞬しかなかった。
――ドドドッ。
地面がかすかに揺れた。
馬の蹄の音。しかも一頭や二頭じゃない。複数だ。
「……来る!」
僕が顔を上げると、森の向こうから土煙が立ちのぼっていた。
「誰……兵士?」
エリシアが抱きかかえた子どもをぎゅっと抱き締める。
ミレイアが目を細めた。
「普通の兵士ならいいけど……影に取り込まれていたら」
その可能性に、胸が冷たくなる。
昨日の刺客のこともある。人間の姿をしていても、敵かどうかなんてわからない。
クロが低くうなった。「グルル……」
毛を逆立て、尻尾を下げ、完全に警戒している。
蹄の音はどんどん近づいてきた。
やがて森の影から黒い甲冑の兵士たちが現れた。
顔は見えない。外套のフードを深くかぶり、全員が槍を構えている。
「……数が多い」
僕はごくりと唾を飲む。十人以上はいる。
「ここで戦えば、この子が巻き込まれるわ」
ミレイアが短く言った。
「じゃあ……隠れるしかない」
エリシアは素早く周囲を見回し、焼け残った納屋の影に身を寄せた。
僕とミレイアも続く。クロも低く唸りながらついてくる。
子どもは震えていた。弱々しい声で「……おかあさん」とつぶやく。
エリシアは抱きしめながら「大丈夫」と何度もささやいた。
そのとき、耳の奥に声が走った。
――墓守よ。この子を守れ。
――次の選択が、未来を変える。
「……未来を変える?」
小さくつぶやいた僕に、ミレイアが目を向けた。
「声が……聞こえたのね?」
「うん。この子を守れって……」
それ以上の説明はいらなかった。
三人とも、覚悟を決めた表情になった。
蹄の音が止まる。
村の中央に黒甲冑の兵士たちが並び立った。
彼らの目が赤く光り、同時に低いうなり声を上げる。
「……やっぱり、影に取り込まれてる!」
エリシアの声が震えた。
僕はランプを握り直す。炎が小さく震え、影の群れを照らした。
クロが吠えた。「ワンッ!」
戦いは、まだ終わらなかった。
黒い甲冑の兵士たちが村の広場に立ち並んでいた。
赤黒い目が一斉に光り、まるで人間ではなく人形のように同じ動きをしている。
影に完全に取り込まれているのが、ひと目でわかった。
「十人以上……」
エリシアが唇を噛みしめる。腕の中の子どもが小さく震えた。
「この子を巻き込むわけにはいかない」
ミレイアが低い声で言った。聖具を握る手に力がこもる。
クロが前に出て、うなり声を上げる。「グルルル……」
彼の黒い毛並みが炎の光を受けて輝き、頼もしく見えた。
僕はランプを握り直した。
耳の奥で、再び声が響く。
――墓守よ、選べ。
――逃げれば子は死ぬ。戦えば、お前が傷つく。
冷たい囁きに心臓が縮む。
(選べって……こんなときに……!)
でも、選ばなきゃならない。
僕は炎を掲げ、エリシアとミレイアに向かって叫んだ。
「この子を守ろう! どんなに遠回りでも、ここで見捨てたら……絶対後悔する!」
二人は驚いた顔をしたあと、すぐにうなずいた。
「もちろんよ!」
エリシアが剣を抜き、子どもを背に庇うように立つ。
「ルカの声に従うわ!」
ミレイアが聖具をかざし、光をためる。
クロが「ワンッ!」と吠え、影の兵士に飛びかかった。
その瞬間、赤黒い目が一斉にこちらをにらむ。
「来るぞ!」
僕が叫ぶと同時に、影の兵士たちが動いた。
剣が一斉に振り下ろされる。
土がえぐれ、火の粉が散る。
エリシアが剣を受け止め、ミレイアの光が影を押し返す。
僕は声に導かれながら、仲間の動きを支える。
「左の影! クロ、そっちだ!」
「ミレイア、右上から来る!」
叫ぶたびに、仲間が動き、敵の隙が生まれる。
その小さな連携が命をつないでいた。
戦いの最中、僕ははっきりと感じていた。
――これは声に従うだけじゃない。
僕自身の意志で「守りたい」と願っているんだ。
「僕は……墓守だけど! ただの見届け役じゃない!」
炎を高く掲げ、全身で叫んだ。
「この命に誓って、生きてる人を守る!」
影の兵士たちがうなり声を上げた。
その瞬間、ランプの炎が大きく揺れ、闇をはじいた。
戦いはまだ続く。
でも、僕の心にはひとつの決意が刻まれていた。
(もう迷わない。この子も、エリシアも、ミレイアも、クロも。必ず守る!)
夜明けの光が煙の向こうから差し込み、焼け跡を照らしていた。
その中で、僕たちは新しい一歩を踏み出していた。
ルカたちは焼け落ちた村で、生き残った子どもを救いました。
影に操られた兵との戦いの中、ルカは「守るために声を使う」と決意します。
次回、第17話「仲間を試す影」で、新たな出会いと試練が待ち受けます。