第15話 追跡の始まり
王都を出た朝の空気は、冷たくて気持ちよかった。
でも胸の中は晴れなかった。
石畳を抜けて城壁を出ると、道は広がり、森が見えてくる。
草の匂い、鳥の声。
本当なら「旅が始まったんだ」ってわくわくするはずなのに、僕はずっと落ち着かなかった。
「……静かだな」
思わず口に出すと、ミレイアが首をかしげる。
「何が?」
「声だよ。昨日まであんなに聞こえてたのに、王都を出てから急に止まったんだ」
胸元のランプを見下ろす。
炎は小さくゆれている。でも耳の奥は空っぽで、いつもの囁きはなかった。
「それっていいことじゃない?」
ミレイアが笑う。
「影が近くにいないってことかも」
「そうかもだけど……」
声がしないのは逆に不安だった。
何が近づいてるのか、何もわからない。
前を歩くエリシアはずっと黙っている。
王都を出るときに浴びた民の視線。
それがまだ重くのしかかっているのかもしれない。
クロだけは元気だった。
草むらに顔を突っ込んで、鼻をひくひくさせては、すぐ戻ってくる。
「ワン!」と元気に鳴いて、僕たちを前に進ませる。
「これから、どこまで行くの?」
僕が聞くと、エリシアは振り返らずに答えた。
「とにかく北へ。王都から離れて、影を探すの」
その声は固く、感情が混じっていなかった。
昨夜泣き崩れた姿を思い出す。まだ傷ついたままなんだろう。
何か言いたかったけど、言葉が出てこなかった。
代わりに、森の方から鳥の鳴き声が届いた。
「それにしても……」
ミレイアが周りを見回す。
「道なのに人がいない。荷車も旅人も」
そうだ。普通なら市場に向かう人がいるはずなのに、誰もいない。
不自然さに胸がざわついた。
クロが急に止まり、低くうなった。
「クロ……?」
耳を澄ますと、久しぶりに声が戻ってきた。
――刃が迫る。墓守を狙え。
冷たい囁きに心臓が跳ねる。
「……来る!」
そう言った瞬間、街道の先に黒い外套の人影が現れた。
街道の先に現れた黒い影は、じっとこちらを見ていた。
外套のフードで顔は見えない。けれど、ただの旅人じゃないことはすぐにわかった。
クロが低く「グルル……」とうなり、背中の毛を逆立てる。
その反応に、僕の喉がごくりと鳴った。
「……誰だ?」
エリシアが一歩前に出て声を張る。
王女としての強さを無理やり取り戻したみたいな声だった。
けれど返事はなかった。
代わりに、外套の影はゆっくりと数歩こちらに近づいた。
その動きがやけに静かで、不気味だった。
「ただの通りすがり……には見えないわね」
ミレイアが聖具を握りしめる。
彼女の瞳が真剣になるのを見て、僕もランプを強く握った。
そのとき、耳の奥にまた囁きが走る。
――刃が迫る。墓守を討て。
(やっぱり……! 狙われてるのは僕なんだ!)
心臓が速く打ち、手のひらに汗がにじんだ。
クロが一声「ワン!」と吠えた。
すると、森の影からさらに二人、同じ黒外套の男が現れる。
合わせて三人。完全に待ち伏せだった。
「墓守を渡せ」
低い声が響いた。
「さもなくば、ここで全員の命をもらう」
エリシアが剣に手をかける。
「無礼者! 私は王女エリシア・グラディウス。この者たちに手を出せば、王国への反逆とみなす!」
けれど、相手は鼻で笑った。
「王女? ちょうどいい。墓守と一緒に連れていけば、さらに価値が出る」
嘲りの声に、エリシアの顔が赤くなる。
ミレイアは一歩下がりながらも、聖具を掲げた。
「影ではなく……人間。でも、ただの人間じゃない。殺気が濃すぎるわ」
僕は喉がからからになった。
(影だけじゃない……人間まで僕を狙うのか……?)
黒外套たちは剣を抜いた。金属の光が朝日に冷たく光る。
その音だけで、全身が硬直した。
――墓守の血は、ここで絶たれる。
耳の奥で声が響き、背筋が凍る。
逃げ場はない。戦うしかなかった。
黒外套の三人は、ゆっくりと間合いを詰めてきた。
剣を抜く音が、やけに大きく耳に響く。
鋭い殺気が空気を重くして、喉がきゅっと詰まった。
「墓守を差し出せ」
先頭の男が低く言い放つ。
「そうすれば、王女と聖女見習いは生かしておいてやる」
「……なにを言っているの」
エリシアが一歩前へ出る。
剣を抜き、相手をにらみつけるその姿は震えていたけど、王女としての気高さを失っていなかった。
「彼を渡すくらいなら、私の命を先に取ることね!」
「王女が盾か」
男は嘲笑した。
「悪くない。だが“墓守”の命が一番価値がある。契約を終わらせるためにな」
(契約……? 墓守の命で終わる契約……?)
意味がわからない。でも、確かに僕のことを狙っている。
胸が冷たくなるのを感じた。
「ルカ、下がって!」
ミレイアが叫ぶ。聖具を掲げ、光をにじませる。
でも、相手は影じゃない。ただの人間に光の術はあまり効かない。
「どうして……」
僕の声は震えていた。
「どうして僕なんかを狙うんだ……?」
先頭の男が冷たく笑う。
「墓守だからだ。千年続く王国の呪いは、お前の血でしか断ち切れない」
ぞわりと全身が粟立った。
――墓守よ、逃げられぬ。刃はお前を選んだ。
耳の奥で声が囁く。
「やめろ!」
僕は思わず叫んだ。けれど、足はすくんで動かない。
外套の三人は同時に踏み込んできた。
剣が一斉に閃き、朝の光を反射する。
クロが吠えた。「ワンッ!」
エリシアが剣を構え、ミレイアが後ろに下がりながら光をためる。
次の瞬間、街道は戦場になった。
刃が走った。
ギラリと光る金属が目の前をかすめ、思わず体をひねる。
息が止まりそうになる。ほんの一歩遅れていたら、首が飛んでいたかもしれない。
「ルカ、下がって!」
エリシアの声。彼女はすぐさま剣を振るい、男の攻撃を弾き返した。
金属同士がぶつかる高い音が、森の中に響く。
ミレイアも叫んだ。
「光よ!」
聖具から閃光が走り、相手の目を一瞬くらませる。
でも――人間の敵には致命的な効果はない。ただの牽制だ。
(影じゃない。だから声も弱点を示してくれない……!)
胸の奥がざわつく。僕はランプを握りしめ、震える炎を掲げた。
「墓守を狙え!」
外套の一人が吠えるように叫ぶ。
三人の刃が同時にこちらへ向かってくる。
「くっ……!」
エリシアが必死に二人を受け止める。金属の衝撃で腕が震えていた。
「強い……!」
王宮の近衛でもこれほどはないだろう。相手は完全に殺すために鍛えられている。
僕は思わず声を張り上げた。
「エリシア、右! 背後にも来てる!」
その声に反応して、エリシアが振り返りざまに剣を振る。
刃が相手の外套を裂き、わずかに後退させた。
(やっぱり……! 声は影だけじゃない。敵の動きも教えてくれるんだ!)
「ミレイア、左の足元!」
僕の叫びに合わせて、ミレイアが光を放つ。
閃光が敵の足を照らし、男が目を細めて動きを止めた。
「やった……!」
だけど、敵は怯んでもすぐ立ち直る。
「子供が……口出しを!」
怒鳴り声と同時に、剣の一撃が地面をえぐった。
砂と小石がはねて頬に当たり、熱く痛む。
クロが低く唸り、ルカの前に立ちはだかった。
「ワンッ!」
黒い犬の背中が頼もしく見えた。
(影じゃなくても……僕は声で仲間を導ける。そうだ、逃げちゃだめだ!)
僕は震える足を踏み出した。
「エリシア、前! もう一人は森の影から!」
仲間を信じて、声を届ける。
その声が戦いを少しずつ変えていった。
金属音が耳をつんざき、刃が何度も火花を散らした。
エリシアが必死に剣を振るい、ミレイアが光で援護している。
だけど、敵の狙いは最初からはっきりしていた。
――僕だ。
「墓守を仕留めろ!」
外套の男の叫びが響く。
その声に合わせるように、三人の動きが一気に変わった。
エリシアを押さえ込みながら、二人が左右から僕を狙う。
残りの一人は正面から突っ込んでくる。
鋭い刃がまっすぐ僕の胸を目指して迫った。
「うわっ!」
必死に身をひねる。頬のすぐ横を剣がかすめ、髪が数本切り落とされた。
冷や汗が背中を伝う。
――墓守を殺せば契約は終わる。
耳の奥で声が囁く。冷たい響きに心臓が縮む。
(契約? 何のことだよ……!)
わからない。けれど確かに僕を狙う理由がそこにある。
剣の光が、僕の命を断ち切るために迫っている。
「ルカッ!」
エリシアが叫ぶ。必死に剣を振るい、僕と敵の間に割って入ろうとする。
だが敵は巧みにかわし、なおも僕だけを狙ってきた。
「やめろよ!」
思わず声を張り上げる。でも足がすくんで動けない。
そのとき――声が変わった。
――避けろ、右だ。
――地を蹴れ。
体が勝手に反応した。
右へ飛び、地面を蹴る。直後に鋭い刃が風を裂き、僕がいた場所を切り裂いた。
「はぁ、はぁ……」
心臓が喉から飛び出しそうになる。
「やっぱり声が……導いてくれてる……」
恐怖で震えるけど、その囁きのおかげで生き延びられたのも事実だった。
「墓守は逃げるな!」
敵が再び迫る。
(僕ばっかり狙うなよ……!)
悔しさと恐怖が混じり、手にしたランプの炎が揺れた。
クロが吠える。「ワンッ!」
黒い影が飛び出し、僕と敵の間に割って入る。
黒犬の牙が、迫る刃をくい止めた。
「グルルル……ッ!」
クロが吠えたかと思うと、黒い影みたいに飛び出した。
敵の腕にがぶりと噛みつき、外套の男が苦痛に顔をゆがめる。
「この犬ッ!」
男が腕を振り回す。でもクロは牙を離さない。
必死にしがみつき、僕から敵を引き離してくれた。
「クロ……!」
胸が熱くなった。小さな体なのに、僕を守るために迷わず飛び込んでいる。
「今だ、エリシア!」
ミレイアが叫ぶ。
「はぁっ!」
エリシアが剣を振り下ろし、男の刃を弾き飛ばす。
金属がぶつかり合い、火花が散った。
敵は一歩後退するが、もう一人が横から突っ込んでくる。
その刃がエリシアの肩を狙って――
「光よっ!」
ミレイアの聖具がまぶしい閃光を放った。
目をくらまされた男がよろめき、剣先が地面に突き刺さる。
「ぐっ……!」
クロがようやく腕から離れ、地面に着地した。
荒い息を吐きながらも、まだ敵に向かって唸っている。
「いいぞ、クロ!」
思わず叫んでしまった。
でも敵は完全には退かない。
残りの二人が息を合わせて再び襲いかかってくる。
「墓守は逃がさん!」
「ルカ、後ろだ!」
エリシアの声に、僕は体をひねる。
背後からの刃がかすめ、服の裾が切り裂かれた。
心臓が跳ねる。ほんの一瞬遅れていたら命はなかった。
「っ……!」
息をのみ、必死にランプを振りかざす。
炎が揺れ、敵の動きがほんの少しだけ鈍った。
(影じゃない……でも、この光が“何か”を嫌がってる!)
「クロ、もう一度だ!」
叫ぶと、クロが応えるように再び飛びかかる。
今度は敵の足に噛みつき、体勢を崩させた。
「行けっ!」
エリシアの剣がうなり、敵を後退させる。
ミレイアも光を重ね、敵の目を奪った。
刺客たちは舌打ちしながら距離を取った。
「……チッ。ここまでか」
そのまま森の影へと姿を消す。
残されたのは、重い息を吐く僕たちと、地面に転がった落ち葉だけだった。
「はぁ……はぁ……」
膝ががくがくして立っていられず、思わずその場にしゃがみ込む。
手にしたランプの炎が、まだ小さく揺れている。
「クロ……」
犬の頭を抱きしめる。泥と血の匂いがしたけれど、温かい体温が確かにあった。
「ありがとう……助けてくれて……」
クロは「ワン」と一声鳴いて、僕の頬を舐めた。
森の静けさが戻った。
けれど、さっきまでの戦いで乱れた呼吸はすぐには整わない。
僕たちは街道の脇に腰を下ろし、しばらくただ息を吐いていた。
「ふぅ……」
エリシアが剣を拭いながらつぶやく。
額に汗が光り、肩はまだ小さく震えていた。
「まさか、影じゃなく人間の刺客とはね」
ミレイアが低く言った。
聖具を抱きしめ、眉を寄せている。
「ただの盗賊じゃない。動きは訓練されてた。明らかに“誰か”に雇われてる」
その言葉に、僕の胸はずしんと重くなった。
(影だけじゃない……人まで僕を狙うなんて……)
「……墓守を殺せば契約は終わる」
敵の言葉が耳にこびりついていた。
意味はよくわからない。けれど、僕の命に“何かの鍵”があるのは間違いない。
「ルカ、大丈夫?」
ミレイアが心配そうに顔をのぞきこんだ。
「……わかんない。怖いよ。僕がいるせいで、みんなが狙われて……」
声が震えた。
ランプの炎を見つめる。小さな光が揺れて、頼りなく感じる。
「そんなことない!」
エリシアが強い声で言った。
「あなたがいなかったら、私たちはもう影にも刺客にも殺されていた。あなたの声が導いてくれたのよ!」
真っ直ぐな言葉に、胸が熱くなる。
けれどすぐに、心の奥から冷たい囁きが割り込んだ。
――墓守よ、選べ。逃げるか、進むか。
「……!」
耳の奥に響く声に、全身がぞわりと震える。
(選べって……僕に、選ぶ権利なんてあるのか?)
逃げれば皆が安全かもしれない。
でも、逃げたらエリシアもミレイアも、クロも……もっと危険にさらされる。
「ルカ」
エリシアがまっすぐ僕を見ていた。
その瞳はまだ揺れているけれど、強さも宿っていた。
「私たちは共に進むと決めたの。あなたも……そうでしょ?」
僕は唇をかみしめ、ランプをぎゅっと握り直した。
炎がふっと揺れ、大きくなった気がした。
「……うん。進むよ」
小さくても、確かに答えた。
クロが「ワン」と鳴いた。
その声はまるで「それでいい」と言ってくれているみたいだった。
王都を出たばかりのルカたちは、人の刺客に襲われました。
「墓守を殺せば契約は終わる」という言葉が、不穏な影を落とします。
次回、第16話「炎の村にて」で、旅の現実がさらに彼らを試します。