第13話 王女の涙
戦いが終わったはずの広場には、まだ恐怖が残っていた。
影兵は消えた。でも石畳には血がこびりつき、割れた皿や布が散らばっている。油の焦げたにおい。遠くの家からはまだ煙。
「……はぁ、はぁ……」
兵士がその場に座り込み、剣を落とした。
人々は互いに抱き合い、泣いたり、ぼんやり立ち尽くしたりしている。
僕はランプを胸に抱えた。炎は小さいけれど、まだ生きている。
でも、この小さな明かりで広場ぜんぶの暗さを追い払える気はしなかった。
「……墓守さん」
鍛冶屋の青年がかすれ声で言う。
「ありがとう。あんたがいなきゃ、俺たちは……」
母親が子を抱いたままうなずいた。
「本当に、助けてもらいました」
その言葉が胸に刺さる。
ただの墓守の僕に「ありがとう」と言ってくれる人がいる。手の震えが止まらない。
けれど、その横で――。
「皆さん、落ち着いてください!」
エリシアが声を張った。泥だらけの外套を払って立ち上がる。
王女としてではなく、一人の娘として、必死に人を励まそうとしている。
「もう影は退きました! ここは安全です。ですから――」
だが声は届かない。
「家が燃えてる!」
「水! 桶を持ってこい!」
「影はまた来るぞ!」
人々は慌てて走り回り、誰もエリシアを見ない。
彼女の声はざわめきに消えた。
エリシアの表情が一瞬ゆれる。
近くにいた僕には、その小さな震えがはっきり見えた。
「エリシア様! 後方へ!」
近衛が慌てて頭を下げる。
「でも……」
彼女は群衆を見渡した。泣く子ども。呆然とする老人。押し合う人々。
誰もが「王女」を見る目をしていない。
「……私の声は、届いていない……」
小さなつぶやき。僕にしか聞こえなかった。
胸が痛む。(エリシアは本気で守ろうとしているのに。どうして……)
言葉を探した、そのとき。
「王女なんて信用できるか! 影を呼んだのは墓守のガキだ!」
あの密偵がまだいた。血まみれのまま立ち、群衆をあおる。
「見たろ! 影はあのランプに集まってた!」
「墓守がいる限り、巻き込まれる!」
ざわ……。疑いの視線が今度は僕に向く。背中が冷える。炎が小さく揺れた。
「やめて!」
エリシアが叫ぶ。
「ルカがいなければ、皆さんはここにいなかった!」
彼女は必死だった。
けれど、不安と恐怖はその必死さすらねじ曲げる。
「王女は墓守をかばってるだけだ!」
「どっちも信用できない!」
怒号が飛び、空気がざらつく。エリシアの顔から血の気が引く。
瞳に、絶望の影。
――
広場はざわめきの塊だった。
さっきまで共に戦っていた人たちが、今は互いに疑い合っている。
「……十分です、これ以上は」
近衛がささやく。だがエリシアは首を振り、血で赤く染まった石畳のど真ん中へ。
「聞いてください!」
「私は皆さんを見捨てません。王家の名にかけて、民を守ります!」
一瞬、静まる。
すぐに別の怒声。
「口だけだ! 王家は昔から民を犠牲にした!」
「父王の重臣が影に取り込まれたんだろ! そんな言葉、信じない!」
言葉が刃になって飛ぶ。泣き声と叫びが重なり、エリシアの声は消えた。
肩が小さく震える。それでも彼女は諦めない。
「私は――!」
「墓守だ! あいつが影を呼ぶ!」
再び叫び。
「違う!」
僕は思わず返した。
「呼んでない! 声が“来る場所”を教えてくれたんだ。だから防げた!」
だが聞こうとする人はいない。
「影を聞く?」「呪いだ!」という言葉が押し寄せる。
胸の奥で炎が揺れた。(違う。けど、この声じゃ届かない)
「お願いです!」
エリシアが涙をこらえて叫ぶ。
「王家は……私は、民のためにあります。信じてください!」
切実な声。けれど、誰も「信じる」と言わない。
「帰れ!」
「もう王には頼らない!」
「墓守も連れて出ていけ!」
石が飛ぶ。近衛が盾で守る。
僕が炎を掲げると、今度は「不吉な火だ」とささやきが広がった。
影兵とは別の恐怖――人の心が作る恐怖が広場を満たしていく。
「……私の……声が……」
エリシアの瞳が震える。
「誰にも、届かない……」
胸の奥で何かが崩れる音がした。
王女の誇りも、民を守りたい心も、ぜんぶ否定されたみたいに。
僕は一歩近づいた。でも背中に触れる勇気が出ない。
耳の奥で冷たい囁き。
――影は言葉を食う。王女の声は、もう喰われた。
「やめろ……」首を振る。けれど、その言葉は胸に刺さった。
――
参道。人々は日向へ逃げ、泣き声と怒鳴り声だけが風に混じって届く。
僕とミレイア、エリシアは石段の上にいた。黒煙が街の向こうに漂っている。
エリシアは黙ったまま。両手を胸の前で握りしめ、肩が小さく震えている。
「エリシア様……」
近衛が声をかけても、返事はない。
横顔は氷のよう。でも内側はもう砕けている――そんな顔。
「さっきのは、恐怖に支配されただけだ。みんなの本心じゃない」
僕が言うと、彼女はかすれ声で返す。
「……本心よ。届かなかったの。私の声は」
「でも――」
「いいの」
「王女は、信じられなければ無力。今日はそれを突きつけられたわ」
そこで限界がきた。
エリシアは膝から崩れ落ち、石に手をついて泣き出した。
「……もう、いや……!」
王女ではなく、一人の少女の泣き声だった。
僕は立ち尽くす。(慰めたい。けど、何を言えば?)
名を呼ぶだけで精一杯だった。
「エリシア……」
「王女なのに、何もできない」
「声が届かない王女なんて、いらないのよ」
ミレイアがそっと肩に手を置く。「エリシア……」
その一言で、彼女はさらに泣いた。
どうすれば、この涙を止められる? 答えは出ない。
――
僕は固まったまま。ミレイアが口を開く。
「言葉って、光に似てると思うの」
「光……?」
「光は人を照らす。でも霧が濃いと届かない。心も同じ。恐怖や不安が濃いと、言葉は消えるの」
僕は息をのむ。(だから、声が届かなかった)
ミレイアはエリシアの肩に手を置いた。
「でも、光は消えない。弱くても残ってる。今は届かなくても、いつか届く。だから、あきらめないで」
「……本当に?」
「うん。あなたの声を信じる人がいるから」
ミレイアは僕を見る。
「ルカ、でしょ?」
「えっ……」言葉が詰まる。
「ルカは“声”に導かれてきた。でも、その声をどう使うかは、ルカの意志」
胸が熱くなる。(僕が……エリシアの声を、届かせる?)
エリシアが小さくつぶやく。
「……信じてもいいの? ルカの声を」
僕は迷った。墓守としての役目。仲間としての想い。
どちらも、同じ強さで心臓を叩いていた。
風が少し強くなった。参道の旗がはためく。
冷たい空気が涙を冷やし、エリシアの呼吸がゆっくり戻っていく。
僕は深く息を吸った。
「エリシア。信じてほしい。――僕の“声”じゃない。僕の“やり方”を」
「やり方……?」
彼女が顔を上げる。赤い目が、まっすぐ僕を見る。
「届かないなら、届く形に変える」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
「大きな広場で一度に叫んでも、恐怖のざわめきに飲まれる。だから――小さい“島”を作るんだ」
「島?」とミレイア。
「うん。三つの手を打つ。
一つ目。広場を“輪”に分ける。子ども、年寄り、けが人、店主……顔見知り同士の小さな輪。輪の真ん中に光を置く。松明でも、鏡でもいい。“輪の光”に人は寄る。そこで短く、はっきり伝える。『今、安全になる手順はこれです』って。
二つ目。“借りた声”を使う。僕や王女の声じゃなくて、その輪で一番信頼されてる人――パン屋の母さん、鍛冶屋の青年、灯油商の親父――そういう人に言ってもらう。『王女の言葉を、私が聞いた。やることは三つ』って。
三つ目。『見える印』を使う。言葉は流れる。だから印で残す。白布の結び方、塩の線、窓に貼る×印。昼間は布、夜は灯り。印は子どもにも伝わる」
言いながら、頭の中で道がつながっていくのがわかった。
声は霧に弱い。なら、光で形にする。声は疑いに弱い。なら、信頼の“借り声”で通す。
「……できる?」
エリシアが、小さく聞く。
「できるようにする」
僕はうなずいた。
「影は言葉を食う。なら、食われない“言葉の守り方”を作る。僕の役目は、聞いて伝えるだけじゃない。――届けるまで、見届ける」
ミレイアが微笑む。「それが、あなたの“新しい墓守”ね」
僕はランプを掲げた。炎が風に揺れ、でも消えない。
「まずは今夜。参道から戻る人たちを輪にする。ミレイア、祝別水を霧にして“輪の光”を強くできる? 短時間でいい」
「できる。小瓶を何本か用意する」
「鍛冶屋の君。盾板と金属皿、貸して。鏡がわりに並べる」
「あ、ああ!」青年が立ち上がる。
「パン屋さん、白布を裂いて“印”を作ってください。家の入口に結ぶ目印。『中は無事』『けが人あり』『助けが必要』――三種類にしましょう」
母親が涙を拭い、力強くうなずく。
「やるわ。すぐに」
エリシアが立ち上がった。足はまだふらつくが、瞳は揺れていない。
「私にできることは?」
答えは決まっていた。
「輪を回って、“同じ言葉を三回”だけ言ってください。短く、はっきり。
『私はここにいる』『守る手順は三つ』『必ず朝を迎える』――この三つを、笑顔で、同じ調子で。長く説明しない。あとは“借りた声”が続けます」
「……三回」
エリシアは小さく復唱した。
そして、口の端を少しだけ上げた。
「やってみる」
その笑みは弱々しい。でも確かに、光だった。
僕は耳を澄ませる。
――墓守よ。選んだな。
いつもの囁きが、今だけは背中を押してくれる気がした。
「行こう。遠回りでも、道は作れる」
ランプを高く掲げる。炎が参道を照らし、人々の顔に小さな光の輪が生まれた。
その輪は一つ、また一つと増えていく――
夜の王都に、小さな島が点々と灯り始めた。
参道に作られた「光の輪」は、ゆっくりと広がっていった。
松明や皿に映した火、裂いた白布、祝別水の霧。
それぞれは小さなものだけど、集まると夜の闇を押し返す力になった。
「こっちにけが人がいるぞ!」
「水を! 印を見ろ、×布の家だ!」
「輪を守れ! 子どもは真ん中だ!」
混乱していた人々の声が、少しずつ秩序を取り戻していく。
泣いていた子どもも、光の輪の中に入ると声をあげるのをやめた。
恐怖はまだ消えていないけど、確かに息をつける場ができていた。
僕はランプを掲げながら、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
(できた……。小さな輪でも、ちゃんと届いてる……!)
エリシアは人々の間を歩きながら、短い言葉を三度ずつ繰り返した。
「私はここにいる」
「守る手順は三つ」
「必ず朝を迎える」
その声は弱々しかったけど、少しずつ笑顔を取り戻していた。
人々が彼女に顔を向け、頷く姿が増えていく。
王女の声は――確かに、届き始めていた。
「ルカ」
エリシアがこちらを見た。
その瞳にはまだ涙の跡が残っていたけど、強さが宿っていた。
「あなたの声が、私の声を導いてくれたのね」
胸が熱くなる。
何も言えず、ただ強くうなずいた。
そのときだった。
――ゴゴゴ……
地の底から響くような音が伝わってきた。
参道の石畳がわずかに揺れる。人々が不安げに顔を見合わせた。
「な、なんだ……?」
「地震……?」
僕は背筋が冷えた。
いや、これはただの揺れじゃない。耳の奥に、あの囁きが走った。
――墓守よ、聞け。夜明けは近い。だが、影もまた芽吹く。
「……影が、まだ……」
小さくつぶやくと、ミレイアが険しい顔で頷いた。
「気配がある。王都の奥……もっと大きな影が」
エリシアが振り返り、広場の方を見た。
黒煙はまだ消えていない。むしろ、空に溶けるどころか渦を巻いていた。
「まだ……終わっていないのね」
その声は震えていたけど、もう折れてはいなかった。
東の空が、うっすらと白んできていた。
夜明けが近い。
けれど、王都に広がる影は消えず、むしろ次の戦いを告げるように濃くなっていた。
僕はランプを握りしめた。
小さな炎が揺れながら、参道に集まった人々を照らす。
(遠回りでも、守り抜く。次の影が来ても――必ず)
心にそう誓った瞬間、夜明けの鐘が低く鳴り響いた。
エリシアの声は一度は折れたけれど、ルカと共に再び歩き出しました。
しかし王都に漂う黒煙は、次の影を予兆しています。
次回、第14話「旅立ちの朝」。新しい一歩が始まります。