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第12話 影兵の襲撃

 ――カン、カン、カンッ!


 頭の奥で、うるさいくらいの鐘の音がひびいた。

 最初は自分の心臓が暴れてるのかと思った。でも違う。

 これ、遠くの鐘楼から鳴らされてる「非常の鐘」だ。


 「……っ!」

 息をのみ、僕は目を開ける。


 視界に見えたのは石の天井。梁のすき間にほこりがたまっていて、光の筋がそこを照らしていた。

 体を起こすと、右腕に痛みが走る。包帯がきつく巻かれていて、動かすたびにズキリとした。そうだ……昨日、玉座の間で影とぶつかったんだ。


 焦げた匂いがまだ服に染みついている。割れたランプのガラス片の感触まで、指先が覚えていた。


「……ルカ、起きた?」


 隣にいたのはミレイアだった。金髪が乱れていて、目の下にうっすらクマ。彼女も徹夜に近いんだろう。手には聖具を握りしめ、口をかたく結んでいる。


「鐘が……」

「城下で影が暴れてるの。市場通りと市門。複数同時……かなりまずいわ」


 ミレイアの声は落ち着いていたけど、瞳の奥は揺れていた。


 鐘は止まらない。低くて重い音が、何度も、何度も。

 その合間に、悲鳴や怒号が混じって聞こえてきた。子どもの泣き声。誰かが倒れる音。馬がいななく声。

 ぜんぶごちゃ混ぜになって、胸を圧迫する。


「国王陛下は?」僕は声をふるわせた。

「後方に避難したわ。近衛が守ってる。……でもエリシア様は――」


 その言葉で、心臓が跳ねた。


「まさか……!」

「行くって言い出したの。民のところに。止めてもきかない」


 やっぱり。昨日もそうだった。震えていたのに、玉座の前で父を守ろうとした。彼女は、王女である前にひとりの娘で……民を置いて逃げるなんてできないんだ。


 僕はランプを手に取った。新しいやつ。まだきれいで、芯も長い。

 指がすべって落としそうになるくらい、手のひらが汗で濡れている。


 そのとき――。


 ――墓守よ、立て。


 耳の奥で、声がささやいた。

 冷たいのに、心臓を直に握られるみたいな強さだった。


 ――影は民を喰う。泣き声は土に吸われる。


「……っ」

 僕は唇を噛み、立ち上がった。


「行く。ミレイア、光は足りる?」

「祝別水を薄めて霧にする。塩も少し残ってる。でも、ルカ……あなたの腕が」

「無理はする。でも、倒れない程度に」


 苦笑しながら言うと、ミレイアはあきれたように肩をすくめた。

 そこへ近衛兵が駆け込んでくる。


「王女殿下は西市門へ! 市場が混乱しています!」


 その報告に迷う理由はなかった。


「行こう!」


 僕はランプに火をともした。小さな炎が「ボッ」と立ち上がり、ガラスの中で揺れる。

 その光を見た瞬間、心の奥の恐怖が少しだけ後退した。


 ――影は濃い影を渡る。光で道を断て。導け。


 声が重なって聞こえた。

 導く……。ただ見届けるんじゃなくて。


 僕はランプを胸に抱え、廊下へ走り出した。

 石壁が冷たい風を返してきて、外の臭いを運んでくる。血と煙と、焼けた布のにおい。

 遠くで悲鳴。足音。剣のぶつかる音。


 石段を降りるたび、鐘の響きが大きくなる。

 炎が心臓の鼓動と同じリズムでゆれる。


 城門の前に出ると、そこにエリシアがいた。

 外套を羽織り、きつく結んだ髪が風にあおられている。頬は青ざめていたけど、その瞳は揺らいでいなかった。


 彼女は僕に気づき、一瞬だけ安心したように笑った。

 そして、前を見据えて言った。


「行きましょう、ルカ。民が待ってる」


 門が開く。光と叫びがどっと押し寄せる。

 王都は、もう戦場になっていた。



 西市門を抜けた瞬間、空気が変わった。

 昼のはずなのに、雲が流れて影が街全体を覆っている。まるで夕暮れが一気に落ちてきたみたいだ。


 石畳の上には荷物が散らばり、割れた陶器や転がった樽が目につく。鼻をつくのは、こげた油と血の匂い。市場の喧騒は消えていて、かわりに響いていたのは悲鳴と怒号だった。


「やめろぉ! 来るな!」

「逃げろ、影だ!」


 視線を向けた先――人の足元から、黒い影がむくりと立ち上がる。

 それは人影が厚くなっただけに見えた。でも、次の瞬間、縁が立ち上がり、腕のような突起がのびる。黒い刃を握った兵士の姿へと変わった。


「……これが“影兵”か」

 僕は息をのむ。


 黒い兵士たちは、建物の影や軒下を渡り歩きながら次々に姿を現していく。刃を振るうたび、空気が凍りつき、近くにいた男が斬られて吹き飛ばされた。壁に叩きつけられた体から鈍い音。悲鳴が広場に響いた。


「逃げろ!」

「こっちだ、早く!」


 母親が幼い子を抱えて走る。荷車を引く商人が逆方向から突っ込んでくる。避けきれずにぶつかり、二人とも転んだ。そのすぐ後ろから、影兵の刃が迫る。


「やめろっ!」

 僕はランプを振りかざした。炎の光が黒い輪郭を裂き、影兵の動きが一瞬鈍る。母親は子を抱えたまま必死に転がり、商人も彼女を支えながら退いた。


 ――影は濃い影を渡る。光で道を断て。


 耳に声がひびく。

 僕は顔を上げ、大声で叫んだ。


「鏡だ! 金属でもいい! 白い布! 光を反射させるものを持ってきて!」


 群衆がざわつく。僕を見て、不安げに立ち止まる人々。

 そのとき、後ろからエリシアの声が響いた。


「みんな、聞いて! 光をつなげて“帯”を作るの! 影の通り道を切るのよ!」


 王女の姿を見て、群衆の目が変わった。逃げるだけだった人々が、道具を探しに走る。


「これでどうだ!」

 鍛冶屋の青年が、磨きかけの盾板を抱えて飛び出してくる。

 パン屋の母親は白い布を裂いて掲げた。

 灯油商は芯だけを束にして差し出す。


「助かる!」僕は叫んで受け取った。


 影兵が移動を始める。庇の影から樽の影へ、ひらりと飛び移ろうとする。僕は耳を澄まし、黒が波打つ前触れを感じ取った。


 ――井戸の縁。そこから、這い出す。


「井戸だ!」僕は指をさした。


 鍛冶屋が盾を構え、鏡のように光を反射させる。ミレイアは祝別水を霧にして吹き、光をつかまえさせた。霧は白く輝き、帯となって井戸の縁を包む。


 「うわっ……!」

 黒い影が嫌悪するように身をよじり、別の影へ飛び移ろうとする。だが、飛び先にも白布を掲げる母親がいた。光が重なり、黒が弾かれる。


「やった……!」


 ほんの一瞬の勝利に胸が熱くなる。


 けれど、すぐに別の声が広場に広がった。

「王女は城に籠もった! 民を見捨てたんだ!」

「墓守のガキが影を呼んだんだ!」


 市場の隅で叫んでいる男。目つきが鋭く、周囲をあおっている。――カイエン派の密偵だ。


「違う!」

 エリシアは屋台の上に立ち、声を張った。

「私はここにいる! 民を見捨てたりしない!」


 けれど、その声は子どもの泣き声や悲鳴にかき消された。

 誰も、ちゃんと聞こうとしない。エリシアの目が揺れた。


 (声が届かない……!)

 胸が苦しくなる。


 そのとき、再び耳に声がささやいた。


 ――濃さが集まる。塔の影。鐘の腹に巣を作る。


 顔を上げると、市場の先に鐘楼が見えた。石の塔の中段。窓の影が濃く、内部で黒い渦が巻いている。鐘の音に合わせて影が波打ち、影を引き寄せていた。


「……あそこか!」

 僕はランプを握り直し、叫んだ。

「鐘楼に行くぞ!」


 エリシアがうなずき、ミレイアも祝別水の瓶を抱えなおす。

 市場の人々も恐怖に震えながら、少しずつ動き始めていた。


 鐘の音が響くたび、影は渦を巻く。

 その塔こそが、次の戦場だった。



 鐘楼のふもとに着いた瞬間、背筋がぞくりとした。

 塔の影が、まるで生き物みたいに揺れている。昼間のはずなのに、黒が濃すぎる。雲が流れ、光がちぎれ、影はさらに膨らんでいく。


 「うわ……なんだよ、あれ……!」

 鍛冶屋の青年が盾を抱えたまま、青ざめて立ちすくむ。


 影の縁から黒い腕が突き出る。すぐに引っ込んで、また別の場所からのびる。ひとつ、ふたつ、数えきれない。塔全体が、影兵の巣になっていた。


「……多すぎる」僕は唇をかんだ。


 でも逃げるわけにはいかない。ここを突破しなきゃ、市場ごと飲み込まれる。

 僕は声を張り上げた。


「みんな、光を並べるんだ! 鏡、盾、皿、なんでもいい! この通りに“帯”をつくれ!」


 最初は誰も動かなかった。恐怖に足を取られていた。

 けれど、エリシアが前に出て、白布を広げた。


「私もやる! だから、みんなも!」


 王女の声が風を切る。群衆がわずかにざわめき、やがて一人、また一人と動き始めた。


 鍛冶屋は盾板を塔に向けて構える。

 パン屋の母親は布を高く掲げて太陽を受けた。

 灯油商はランプ芯を並べて、反射板代わりに差し出した。


「いいぞ、その調子!」僕は叫んだ。


 ミレイアは祝別水を霧にして吹き、光を筋に変える。霧がきらめき、空気が白く染まっていく。


 「ルカ、影が動いてる!」

 彼女の声に振り返ると、塔の窓から黒い渦が飛び出そうとしていた。


 ――鐘の腹に、影の心臓。


 耳の奥で声がささやく。

 鐘の中に、赤く脈打つ核があるのが見えた気がした。


「核を狙え! 光をそこに集めるんだ!」


 僕の声に反応して、鍛冶屋が盾を傾ける。

 太陽の光が反射して、鐘楼の窓に突き刺さった。


「今だ!」


 ミレイアが聖具を掲げ、祝別水を霧にして放つ。

 光が霧を伝って鐘の中に入り、赤黒い核を照らし出した。


 「ギィィィィッ!」


 影兵の叫びが広場を揺らす。塔から飛び出しかけていた黒い腕が、ばらばらに崩れていく。


「効いてる!」

 僕は炎を掲げて走った。


 鐘の根元に塩を線状にまき、光の帯を補強する。

 その線を越えようとした影兵が、まるで壁にぶつかったみたいに弾き返された。


「やった……! 止められる!」

 母親が子を抱きしめ、涙ぐみながら叫ぶ。


 でも、影はそれだけじゃ終わらなかった。

 塔の影全体がぐらりと揺れ、黒い波が一斉にあふれだす。


「くっ……!」

 僕は炎を掲げ直した。


 ――鐘を鳴らせ。音が影を乱す。


 声が指示をくれる。

 僕は振り返って叫んだ。


「鐘を打て! 不規則に、めちゃくちゃでいい! 影は音に乱れる!」


 市場の人たちが鐘楼の綱に取りつく。

 全員で力いっぱい引いた。


 ――ゴォォン! カァァン! ゴン、ゴンッ!


 不規則な音が重なり、鐘の腹が震える。

 影がよろめき、塔の中で赤核が大きく脈打った。


「今だ、照らせぇ!」


 盾に反射した光、布に反射した光、霧に宿った光。

 すべてが束になり、鐘の赤核を貫いた。


「ギィィィアアアア!」


 耳をつんざく悲鳴。黒い渦が砕け、鐘楼の窓から黒煙が吹き出す。

 影兵たちが次々に崩れ落ち、地に染み込むように消えていった。


「……やった……!」

 誰かがつぶやいた。


 安堵の空気が一瞬広がる。

 でも僕の耳には、まだ声が残っていた。


 ――救いは一時。刃はまだ、民を狙う。


 僕は歯を食いしばった。

 戦いは、これで終わりじゃない。



 鐘楼の影が一度は砕け、広場に一瞬の静けさが戻った。

 市民たちは互いに顔を見合わせ、ようやく息をつき始める。


「助かった……のか?」

「影が、消えた……」


 そんな声が漏れた矢先だった。


「いいや、まだだ!」

 鋭い叫びが群衆に響いた。


 振り返ると、屋台の陰に立つ男。黒い外套に身を包み、目だけがぎらりと光っている。

 その声はやけに通る声で、広場全体にひびいた。


「王女は逃げた! 城に籠もり、民を見捨てたんだ!」

「影がここに来たのは……墓守の小僧のせいだ!」


 ざわり、と群衆が揺れる。

 人々の目が僕に、そしてエリシアに向けられる。


「……違う!」

 エリシアが即座に声を張り上げる。


「私は逃げてない! 今ここにいる! みんなと一緒に戦ってる!」


 けれど、彼女の声は悲鳴にかき消された。

 市場の隅でまた影兵が生まれ、人々が走り出す。


「うそだ! 王女がここにいるはずがない!」

「見ろよ、影は墓守の炎に引き寄せられてる!」


 恐怖が言葉をねじ曲げていく。誰かが放った一言が、たちまち毒みたいに広がっていく。


「……っ」

 エリシアの顔が青ざめた。唇がふるえ、言葉を続けられない。


 僕は拳を握りしめた。

 (違う……エリシアは逃げてない。こんなに必死なのに!)


 でも、声が届かない現実が突きつけられる。

 僕らの必死な訴えよりも、恐怖に駆られた叫びのほうが強い。


「ミレイア……」僕は低くつぶやいた。

「これじゃ、エリシアの声が……」


 ミレイアは苦しい表情でうなずく。

「彼女の心が折れる……」


 そのとき――。


 ――墓守よ、聞け。影は言葉を食う。


 声が、耳の奥で冷たくささやいた。


 (言葉を、食う……?)


 理解はできなかった。けど確かに、目の前で起きていることに重なっている。

 恐怖の叫びが、真実を飲み込んでいく。人々の声がねじれ、エリシアの声を食い潰している。


「王女なんか信じられるか!」

「墓守の子どもが、影を連れてきたんだ!」


 怒号が広場を満たす。

 それは影兵の刃よりも鋭く、人々の心を切り裂いていく。


「……っ!」

 エリシアは胸に手を当て、ふるえる体を必死に立たせていた。


「私は……民を、守りたいのに……」

 その声は、もはや誰にも届いていなかった。


 僕の喉が焼ける。

 (なんで……! どうして、こんなにも届かないんだ!)


 ――鐘を鳴らせ。


 再び声がした。

 振り返ると、塔の上で揺れる影の残滓が見えた。


 「まだ……いるのか!」


 塔の窓に、黒い渦がわずかに残っている。

 あれは完全には消えてなかった。


「ルカ!」

 ミレイアが叫ぶ。

「また出るわ!」


「みんな! 光をつなぎ続けろ!」

 僕は大声で指示を出した。


 市民が盾を掲げ、布を広げる。恐怖で足がすくみながらも、動こうとする人がいた。


 けれど、その数はさっきより減っていた。

 疑いの目を向け、動こうとしない者もいる。


「くそ……!」


 影は再び鐘楼から飛び出そうとしていた。

 赤い核が、脈打つように光っている。


「ルカ、もう一度……!」

 ミレイアが聖具を掲げた。


 僕は息を吸い込み、炎を高く掲げた。

「聞け! ここで逃げたら、次は家族が喰われる! 立ち上がるんだ!」


 自分でも驚くくらいの声が出た。

 群衆が一瞬、動きを止めて僕を見た。


 その刹那――。


「……ルカ」

 エリシアが僕の名を呼んだ。かすれた声で。それでも、確かに届いた。


 僕はうなずき、炎をかざして前へ出た。


 鐘の音が、再び乱打される。

 影の渦がよろめき、赤核が露わになる。


 「今だ! 光を当てろ!」


 再び盾と布が光を反射し、霧がきらめいた。

 黒い渦が悲鳴を上げ、広場にどっと風が吹いた。


 勝利の実感は、ほんの一瞬だった。


 ――救いは一時。刃はまだ、玉座を狙う。


 声が冷たく告げた。


 僕は炎をにぎりしめ、歯を食いしばった。

 戦いは、まだ終わらない。



 鐘楼の影が、まるで呼吸するみたいに脈打っていた。

 ゴォン……カァン……。

 鐘が鳴るたびに黒い渦がふくらみ、周囲の影を吸いこんで太っていく。


「まだ出るぞ!」

 僕はランプを掲げ、声を張った。


 塔の中段の窓。その奥に、赤黒い光が点滅している。まるで心臓が脈を打つみたいに。

 ――影の核。


「ルカ、あれが……!」

 ミレイアの聖具が光を反射して、核の輪郭を浮かび上がらせる。

 彼女の額には汗がにじみ、声がふるえていた。


「鐘の中に巣を作ってる……ここで断ち切らないと!」


 そのとき、影兵が鐘楼の窓から飛び出した。

 刃を振りおろし、近くの兵士に襲いかかる。


「うわあっ!」

 兵士がよろめき、剣を落とした。


「光を集中させろ!」

 僕は叫び、鍛冶屋に合図した。


「お、おう!」

 青年が盾をかかげ、太陽を反射させる。


 その光が鐘楼の窓を直撃した瞬間――。

 赤い核がびくんと震えた。


「効いてる!」

 僕は心臓が跳ねるのを感じた。


 ミレイアが祝別水を霧にして吹き出す。

 霧は白い帯となり、光をつかんで鐘の奥へ流れ込む。


「いけぇぇっ!」

 誰かの叫びと同時に、鐘の中で赤黒い閃光が弾けた。


 「ギィィィィアアア!」


 耳を裂く悲鳴が広場に響き、影兵たちが次々に崩れ落ちる。


「やった……?」

 パン屋の母親が子を抱きしめ、目を見開いた。


 けれど次の瞬間、塔全体が揺れた。

 ゴゴゴ……と重い地鳴り。鐘が勝手に鳴り始め、音が狂ったリズムで鳴り響く。


「なに……!?」

 エリシアが叫ぶ。


 塔の窓から、さらに巨大な黒い腕が突き出た。

 刃を振るい、広場に並んだ人々をなぎ払う。


「きゃああっ!」

「逃げろ!」


 群衆が四方八方に散り、光の帯が途切れていく。


「だめだ! 光を切らすな!」

 僕は必死に叫ぶ。


 だが恐怖に駆られた人々の足は止まらなかった。


「……ルカ!」

 ミレイアの声が僕を引き戻す。

「鐘を……乱打して! 音で影の形を崩すの!」


 耳の奥で、声がささやく。


 ――鐘を打て。影は音に乱れる。


「そうか……!」


 僕は振り返り、群衆に叫んだ。

「鐘を鳴らせ! 不規則に! でたらめでいい、強く叩け!」


 広場の若者たちが綱に飛びつき、力いっぱい引いた。


 ゴォォン! カァァン! ゴン、ゴゴンッ!


 バラバラなリズムで鐘が鳴る。音がぶつかり合い、塔の影がぐらりと揺れた。

 赤黒い核が再び姿を見せ、影の動きが鈍る。


「今だ、光を集めろ!」


 鍛冶屋の盾。母親の布。灯油商の芯。

 それぞれが光を受け、帯を作って核へと集中する。


 「ルカ、位置は!」

 ミレイアが叫ぶ。


 僕は耳を澄ませ、影のささやきを聞く。

 ――鐘の奥、左に寄る。


「左だ!」

 僕は指差した。


 光が一点に集中し、赤い核を突き刺す。


「ギィィィィアアアア!」


 鐘楼が悲鳴を上げ、黒い煙が爆発するように吹き出した。

 影兵たちが次々に崩れ、地面に溶けるように消えていく。


 広場に残ったのは、焼け焦げた匂いと、鐘の不規則な余韻。


「……勝ったのか……?」

 誰かが震える声でつぶやいた。


 僕はランプを強く握りしめた。

 胸の鼓動はまだ収まらない。


 ――救いは一時。刃はまだ、民を狙う。


 耳の奥で、再び声が響いた。

 勝利の喜びを打ち消すように。


「……まだ終わってない」

 僕は歯を食いしばり、炎をかざした。


 戦いは、まだ続いている――。



 鐘楼から吹き出した黒い煙は、一度は広場を覆ったものの、やがて風に流されて消えていった。

 安堵のため息が、あちこちで漏れる。


「助かったのか……?」

「もう……終わったのか……」


 誰かがそうつぶやいた、その瞬間だった。


「キャアアアッ!」


 甲高い悲鳴。


 目を向けると、パン屋の母子が、影の残滓に捕まれていた。

 黒い糸のようなものが足に絡みつき、子どもが必死に母の胸にしがみついている。


「嘘だろ……! まだ残ってたのか!」

 僕は思わず叫んだ。


 ――選べ。守るための遠回りを。


 耳の奥に声がささやく。

 体が凍りつく。


「ルカ!」

 エリシアが僕を見て叫んだ。


 迷う暇なんてなかった。

 僕はランプをにぎりしめ、母子と影のあいだに飛び込んだ。


「うおおおおっ!」


 ランプを振り払う。炎が黒糸を焼き、影が耳障りな悲鳴を上げて後退した。

 けれどその反動で、腕の傷口が開いた。


「ぐっ……!」

 熱い血が包帯を伝い、手のひらまで流れる。


「ルカ!」

 ミレイアが駆け寄り、聖具をかざした。光が走り、影をさらに押し戻す。


 母子は僕の背後に転がり込み、必死に抱き合った。

 「助かった……」と泣き声が聞こえる。


 でも、影はまだ消えていない。

 鐘楼の影の奥から、黒い残滓が次々に湧きだしてきた。


「数が……多すぎる!」

 鍛冶屋の青年が声をふるわせる。


 僕は歯を食いしばり、心臓がつぶれそうになるのを押しとどめた。

 ――声がまたささやく。


 ――追うな。守れ。遠回りでも、生きて朝を迎えさせよ。


 (遠回り……? でも……!)


 頭の中で迷いが渦巻く。

 影を追って全部を斬ることはできない。けど、ここに残って戦い続ければ、市民は逃げ遅れる。


 「……わかった」

 僕は顔を上げた。


「みんな! ここを捨てる! 市場から参道へ下がれ!」


「えっ!?」

 群衆がざわつく。


「広場を守るんじゃない! 生き延びるんだ! 光の帯を橋までつなげ! 参道の日向なら、影は入れない!」


 言葉に力を込めて叫んだ。

 僕の声が、恐怖で立ち止まっていた人たちを押した。


「……行こう!」

「子どもを連れて! 急げ!」


 人々が動き始める。鍛冶屋の青年も母子を支えて走りだした。

 灯油商が芯を抱えたまま後方へ走り、布を持った母親たちが列を作る。


 「エリシア様! 後方へ!」

 近衛兵が必死に促す。


「私は残る!」

 エリシアは首を横に振った。

「民を守るのは、王女の務めよ!」


 その声に力が宿っていた。けれど、群衆に届く前にまた影が襲いかかる。


「ルカ!」

 ミレイアの叫びと同時に、黒い腕が僕の横をかすめた。

 刃のような爪が石畳を削り、火花が散る。


「くそっ!」

 ランプを振り払うが、炎が揺れて今にも消えそうだった。


 (守る……守るんだ……! 追うんじゃなくて!)


 僕は立ち止まる市民を押し出し、塩を撒いて通路を作った。

 影が追おうとするたびに、僕は炎を前に出して道をふさぐ。


「進め! 走れ!」


 人々が叫びながら、橋へと駆けていく。

 太陽が差しこむ参道の石段が見えた。そこは影が届かない安全地帯。


 僕は最後尾に立ち、残る影をにらんだ。

 (これで……守れる。たとえ遠回りでも……!)


 腕の痛みで体が震える。血が包帯を赤く染めていく。

 けれど僕は、ランプを絶対に落とさなかった。


 ――墓守よ。その選択を刻め。


 声が、静かに告げた。



 参道の石段に人々が雪崩れ込み、ようやく足を止めた。

 太陽が正面から差し込み、石畳を白く照らす。

 そこは影の手が届かない、日向だった。


「……はぁ、はぁ……」

 母親が子を抱え、涙をぬぐいながらうずくまる。

 鍛冶屋の青年は盾を杖にして息を荒げ、灯油商は芯を落として座り込んだ。

 誰もが顔を土気色にしているけれど、全員がまだ生きていた。


 背後では、市場の広場が遠くに見える。

 割れた陶器、燃えた布、血に染まった石畳。

 黒い残滓がまだ路地にこびりついて、時おり煙のように揺れている。


「……終わったのか?」

 誰かがぽつりとつぶやいた。


 僕は首を振った。

「いや、影はまだ残ってる。広場のあちこちに“残滓”が潜んでる」


 その言葉に、人々の表情がさらにこわばる。


「でも……助かったんだろ? 生きてここまで来れたんだし……」

 母親がか細い声で言う。


「ああ。ここは光が強い。影は入ってこれない。だから……ここなら、大丈夫だ」


 僕はそう答えながら、ふっと力が抜けてしゃがみ込んだ。

 ランプを持つ手が震えている。火はまだ消えていなかったけれど、炎は弱々しく揺れている。


「ルカ……」

 ミレイアが僕の隣に座り、そっと腕を支えた。

 包帯から血がにじみ、指先まで赤く染まっていた。

 彼女の聖具から放たれる微かな光が、じんわりと痛みを和らげていく。


「ありがとう。あなたがいなければ、みんな……」


 その声に返す言葉は出なかった。

 ただ、胸の奥でひどく重い感覚が広がっていた。


 ――救いは一時。刃はまだ民を狙う。


 耳の奥に、再び声がささやく。

 冷たい声。だけど、その冷たさが真実であるように思えてしまう。


 (また……繰り返されるのか?)


 僕は参道の先、日差しの中で泣き叫ぶ子どもを見た。

 母親に抱かれているのに泣き止まない。

 どんなに安心させる声をかけても、その泣き声は止まらなかった。


「……」

 エリシアが、その子の前にひざまずいた。


「もう大丈夫。私がいるから。怖くない」


 優しい声だった。必死に、心を込めて語りかけている。

 けれど子どもは泣き続け、母親にしがみついた。


 「……っ」

 エリシアの瞳に影が落ちる。

 声が届かない。その現実が、彼女の心を容赦なく打ちのめしていた。


「殿下……」

 近衛の兵が、言葉を探すように声をかける。

 だが、エリシアは返事をしなかった。

 ただ立ち上がり、参道の石段を見下ろした。


 その横顔は、悔しさと絶望を必死に押し殺しているように見えた。


 僕は何か言いたかった。

 でも喉が乾いて、言葉にならない。


 市民の中から、かすかな声がした。


「……墓守さん……」


 顔を上げると、鍛冶屋の青年がこちらを見ていた。

 傷だらけの体で、それでも真っ直ぐに。


「ありがとう……守ってくれて……」


 小さな声だった。だけど、それは確かに僕に向けられた感謝だった。

 胸の奥で何かが熱くなり、視界が滲む。


「……っ」

 僕は歯を食いしばり、うなずいた。


 ――墓守よ。その選択が、次の夜明けをつくる。


 声が、遠くで響いた。

 その意味はわからない。けれど、耳から離れなかった。


 市場からはまだ黒い煙が立ちのぼっている。

 王都の空は曇り、太陽はかすんでいた。

 戦いは終わっていない。


 ただ、この日向にいる人々だけが――かろうじて生き延びていた。

 ルカは“墓守”として初めて民を導きました。

 しかし、エリシアの声は届かず、彼女の心には深い影が残ります。

 次回、第13話「王女の涙」で、その想いが大きく揺れ動きます。

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