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真実の光

 そして、運命の日、建国記念祭の朝が来た。


 王都は祝祭ムード一色に染まり、人々は華やかに着飾って街を行き交っている。だが、その華やかさの裏側で、国家の命運を懸けた、静かで壮絶な戦いが始まろうとしていた。

 カレンは、鏡の前に立ち、夜会用の豪奢なドレスに身を包んだ。それは、王太子妃候補としてあつらえられた、皮肉なほど美しいドレスだった。まだ治らぬ頬の傷は、化粧で巧みに隠されている。耳には、レクシスから渡されたイヤリングが、決意の証のようにきらりと光った。


 部屋を出ると、レクシスが待っていた。彼もまた、辺境伯としての正装に身を包み、いつもとは別人のように凛々しかった。

 二人は、言葉を交わさなかった。ただ、視線を交わし、互いの覚悟と信頼を確かめ合う。


「行こうか」


「ええ」


 馬車に乗り込み、王宮へと向かう。沿道は、何も知らずに歓声を上げる民衆で溢れていた。この人々の平和な日常を、自分たちの手で守り抜く。その重い使命感を胸に、二人は戦いの舞台となる王宮の門を、静かにくぐった。


 夜会のファンファーレが、高らかに鳴り響く。

 華麗なる偽りの舞台の、幕が上がった。



 王宮の大広間は、数千の蝋燭の光に照らされ、まるで昼のように明るかった。天井からは巨大なシャンデリアが眩い光を放ち、壁を飾る金銀の刺繍がそれに反射してきらめいている。着飾った貴族たちの喧噪、楽団が奏でる優雅なワルツ、そして最高級のワインと料理の香り。その全てが混じり合い、建国記念を祝うにふさわしい、絢爛豪華な空間を創り出していた。


 だが、その狂騒の中心に立つカレンの耳には、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。背筋を伸ばし、完璧な淑女の微笑みを浮かべながらも、その神経は極限まで張り詰められている。彼女の視線は、会場に点在する『星喰らいの蛇』のメンバーたちを、決して見逃すまいと絶えず巡っていた。


 カレンの姿を認め、会場のあちこちで囁きが起こる。罪人として追放されたはずの侯爵令嬢が、なぜここに。その視線は、好奇、侮蔑、そして僅かな恐怖が入り混じっていた。

 その中でも、最も強くカレンを射抜いていたのは、王太子殿下とその隣に立つ義妹セリーナ、そしてかつての友人たちの視線だった。王太子は驚愕に目を見張り、セリーナは憎悪で顔を歪ませ、友人たちはバツが悪そうに目を逸らした。


 だが、それだけだった。祝の式典に水を差すことは避けたいのか、声高に糾弾されることも、警備の者につまみ出されるようなこともなかった。


 カレンは、誰の視線からも逃げなかった。一人一人と、静かに、しかし毅然と視線を合わせ、小さく会釈してみせる。その圧倒的な存在感に、彼らはたじろぐしかなかった。


 やがて、予定の時刻が来た。侍従たちが、会場の四隅に置かれた豪奢な銀の香炉に、一斉に火を灯していく。カレンの心臓が、大きく跳ねた。


(始まる……!)


 だが、何も起こらない。香炉から立ち上るのは、鎮静効果のある白檀の、心地よい香りだけだった。レクシスの部隊が、寸分違わぬ精巧さで作り上げた偽物と、本物をすり替えることに成功したのだ。

 カレンは、結社の幹部である施療院長の顔色が変わるのを見逃さなかった。彼は近くにいた仲間に目配せをし、その目は微かな焦りと怒りに揺れている。第一の計画が失敗したことに、彼らは気づいたのだ。


(ここからよ……。彼らの、次の一手は)


 カレンは、意識をさらに集中させた。

 結社の連中は、短いやり取りの後、散会し、それぞれが何事もなかったかのように雑談の輪に戻っていく。だが、その動きには、明確な意図があった。彼らは、会場の中央、王が座す玉座へと続く道筋を、巧みに、そしてごく自然に塞いでいく。それは、万が一の事態が起きても、誰も玉座に近づけさせないための、見えない壁だった。


 そして、夜会の主役である王太子が、祝辞を述べるために立ち上がった。侍従が、黄金に輝く杯に深紅のワインを注ぎ、それを恭しく王太子に差し出す。

 その瞬間、カレンは見た。

 王太子の新たな婚約者候補として、彼の傍に寄り添っていた伯爵令嬢――結社の幹部の娘だ――が、侍従から杯を受け取るふりをして、その指に嵌められた指輪の宝石を、ワインの中に滑り込ませるのを。あまりにも一瞬の、流れるような動作。誰一人気づいていない。


(あれが、予備の計画……!)


 また毒。芸が無い。しかし最も確実な、王太子個人を狙った手段。

 カレンの全身を、氷のような悪寒が駆け抜けた。


 躊躇う時間は、一秒もなかった。

 カレンは、耳に触れた。小さなイヤリングを、強く、二度叩く。


 ――届け、レクシス!

 同時に、カレンは動いていた。淑女の優雅な振る舞いを全て捨て去り、人々の間を縫うようにして、玉座へと駆ける。


「お待ちください、殿下!」


 カレンの叫び声に、会場中の視線が一斉に彼女へと注がれる。

 王太子が、訝しげな顔でこちらを振り向いた。その手には、すでに毒の杯が掲げられている。間に合わない――!


「その杯には、毒が盛られています!」


 最後の力を振り絞って叫びながら、カレンは王太子の腕に飛びついた。ガシャン、という甲高い音と共に、黄金の杯が床に叩きつけられる。深紅の液体が、白い大理石の上に広がり、その一部が気味の悪い紫黒色に変色していくのが、誰の目にもはっきりと見えた。


 会場は、一瞬の静寂の後、パニックに包まれた。悲鳴と怒号が渦巻く。


「何をす――」


 王太子がカレンを詰問しようとした、その時だった。


「死ね!」


 毒殺に失敗した伯爵令嬢が、逆上し、ドレスの内に隠し持っていた短剣を抜いてカレンに襲いかかった。銀色の刃が、シャンデリアの光を浴びて煌めく。

 カレンは、身動きが取れなかった。

 だが、その刃が彼女に届くことはなかった。

 一陣の風のように現れた黒い影が、カレンの前に立ちはだかり、その剣が、キィン、と甲高い音を立てて短剣を弾き飛ばした。


「――レクシス!」


 辺境伯の正装をまとったレクシスだった。彼の背後からは、近衛騎士の制服を着た彼の部隊が雪崩れ込み、呆然と立ち尽くす結社のメンバーたちを、次々と制圧していく。


「全員、武器を捨てろ! 国王陛下の御名において、国家反逆罪の容疑で全員を拘束する!」


 レクシスの張りのある声が、混乱の極みにある大広間に響き渡った。


 それは、あまりにも鮮やかで、完璧な鎮圧劇だった。

 全ての犯人が捕らえられ、床に跪かされる。レクシスは、国王と、青ざめた王太子の前に進み出ると、押収した計画書と毒薬の瓶を掲げ、この夜会で実行されようとしていた、恐るべきクーデター計画の全てを、朗々と告発した。


 その場にいた全ての貴族が、言葉を失って真実に聞き入った。


 そして、全ての元凶が『星喰らいの蛇』という組織であり、カレン・ヴァルランこそが、その身を懸けて国を救った英雄であることが、白日の下に晒された。

 王太子は、血の気を失った顔で、ただ呆然とカレンを見つめていた。自分が犯した過ちの、あまりの大きさに、打ちのめされていた。


 *


 事件から、一月が過ぎた。

 王都は、あの悪夢のような夜が嘘であったかのように、穏やかな日常を取り戻していた。しかし、水面下では、大きな変化が起こっていた。

『星喰らいの蛇』は、レクシスと王宮の徹底的な調査により、その根が絶やされた。首謀者たちは法の下に裁かれ、国家を揺るがした大罪に見合うだけの罰を受けた。


 そして今日、王宮の謁見の間で、カレン・ヴァルランの名誉回復を祝う式典が、ささやかに、しかし厳かに執り行われていた。

 国王の隣に立ったカレンの前に、王太子が静かに進み出た。彼は、全ての貴族が見守る前で、カレンの前に跪いた。


「カレン嬢。……いや、カレン。私は、君という人間の本当の価値を見抜けず、偽りの言葉に惑わされ、君を深く傷つけた。私の愚かさが、この国を滅ぼしかけたのだ。どんな言葉をもってしても、この罪を償うことはできないだろう。……本当に、申し訳なかった」


 彼の声は、心からの悔恨に震えていた。

 カレンは、静かに彼を見下ろした。その瞳に、もはや憎しみの色はない。ただ、深い憐憫だけがあった。


「殿下。お顔をお上げください。あなたの謝罪、確かに受け取りました」


「……カレン。もし、許されるのなら、もう一度、私と――」


「それは、できかねます」


 カレンは、彼の言葉を、静かに、しかしはっきりと遮った。


「私が歩む道は、もはや、王太子妃となる道ではございません。どうか、あなた様も、ご自身の過ちと向き合い、この国を導く、真の王となってくださいませ」


 その言葉は、彼との完全な決別であり、そして、彼女なりの最後の激励でもあった。


 事件に関わった者たちの処遇も、全て決まった。

 アルフレッドは、司法取引が認められ、辺境の地での終身労役という判決が下った。彼は、全ての罪を受け入れ、黙ってその罰を受け入れたという。


 義妹のセリーナは、アルフレッドに利用されたことが認められ、罪には問われなかった。しかし、彼女は自らの意志で、北の修道院に入ることを決めた。自らの犯した罪の重さと、本当に向き合うために。旅立つ前、彼女はカレンに一通の手紙を残した。『姉様、ごめんなさい。そして、ありがとう』と、ただそれだけが、震える文字で綴られていた。


 父であるヴァルラン侯爵は、事件の後、すっかり変わった。彼は娘の最大の理解者となり、その活動を全面的に支えた。二人の間には、失われた時間を取り戻すかのように、穏やかで温かい絆が再び結ばれていた。


 式典が終わり、カレンは一人、侯爵家の庭園を散策していた。あの夜の激闘の痕跡はすっかり消え、美しい薔薇が、誇らしげに咲き誇っている。

 そこに、レクシスがやってきた。彼は、いつもの着古したシャツ姿で、少し照れくさそうに頭を掻いていた。


「……終わったな。何もかも」


「ええ、終わりましたね」


 二人の間に、心地よい沈黙が流れる。

 やがて、レクシスが口を開いた。


「以前、した約束を覚えているか?」


「なんだったかしら?」


「私の領地で、星を見ないか、という約束だ」


 カレンは、いたずらっぽく微笑んだ。


「ええ、もちろん。ですが、ただ星を眺めるだけでは、退屈ですわ。私、あなたの助手になりたいのです。あなたの研究を、隣でお手伝いさせてくださいませんか?」


 それは、カレンからの、逆プロポーズにも似た申し出だった。

 レクシスは、一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐに、心からの笑みを浮かべた。それは、カレンが初めて見る、彼の少年のような笑顔だった。


「……断る理由がない。いや、むしろ、こちらからお願いしたいくらいだ。君という、世界で一番優秀で、そして何より、美しい助手を、手放すつもりはない」


 彼は、カレンの手を、そっと握った。



 数日後。

 侯爵家の玄関に、一台の簡素な馬車が停まっていた。大きなトランクをいくつも積み込み、旅の準備は万端だった。

 カレンは、父と、そして侍女のアンナに別れを告げた。


「お嬢様、お元気で……!」


 アンナは、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。

 父は、何も言わず、ただ力強く娘を抱きしめた。


「いつでも、帰ってこい。ここが、お前の家だ」


「はい、お父様」


 カレンは、涙をこらえて笑顔で手を振ると、待っていたレクシスの隣に乗り込んだ。

 馬車が、ゆっくりと動き出す。侯爵家の屋敷が、父の姿が、どんどん小さくなっていく。

 カレンの胸に、一抹の寂しさと、それを遥かに上回る、未来への期待が込み上げてきた。


 彼女は、二度目の生を望まなかった。

 過去をやり直すのではなく、この一度きりの、困難に満ちた生を、自らの意志で、自らの足で歩くと決めた。

 その道のりは、血と涙に濡れていた。何度も絶望し、挫けそうになった。

 けれど、その道のりの果てに、彼女はかけがえのないものを見つけた。失われた自身の尊厳、家族との真の絆、そして、魂で結ばれた、生涯のパートナー。


 馬車の窓から、どこまでも続く青い空と、緑の地平線が見える。

 レクシスが、カレンの手を優しく握った。


「さあ、行こうか。我々の、新しい研究の始まりだ」


「ええ、レクシス」


 カレンは、彼の肩にそっと頭を寄せた。


 死の淵から始まった彼女の物語は、ここで一つの終わりを告げる。

 それは、絶望の終わりであると同時に、光り輝く、新たな人生の始まりでもあった。


 彼女が自らの手で掴み取った、たった一度きりの、愛おしい生の続きの、始まりだった。


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