前哨戦
決行の日は、不気味なほど穏やかな青空と共に訪れた。
カレンは朝から、努めて普段通りに振る舞った。身だしなみを整え、父との気まずい朝食の席につき、侍女のアンナとは庭の薔薇の手入れについて言葉を交わした。だが、その平静な仮面の下で、五感は極限まで研ぎ澄まされ、神経は張り詰めた弦のように震えていた。
「お嬢様……顔色が悪うございます。本日は、お休みになられては……」
アンナが、心配そうにカレンの顔を覗き込んだ。彼女は、カレンが今日も王立図書館へ向かうと聞かされていた。それは、カレンが一人になるための、偽りの口実だった。
「ありがとう、アンナ。でも、大丈夫よ。少し、考え事をしていただけ」
カレンは穏やかに微笑んだ。その笑みが、あまりに儚く、何かを決意した人間のそれに見えて、アンナは言いようのない不安に胸を締め付けられた。
この数週間で、カレンは別人のように変わってしまった。強く、鋭く、そして、どこか遠い場所を見つめるようになった。その瞳の奥に宿る光が、消え入りそうな蝋燭の炎のように見えて、アンナは恐ろしかった。
その頃、レクシスは王都の研究室で、信頼できる部下である護衛たちと最後の打ち合わせを行っていた。彼はもはや、埃っぽい学者の姿ではなかった。機能的な黒衣に身を包み、その腰には愛剣を下げている。その眼光は鋭く、発する言葉は簡潔で、的確だった。
「いいか、ターゲットはカレン・ヴァルラン嬢ただ一人。だが、敵は複数で、いずれも手練れだ。我々の役目は、彼女に指一本触れさせずに、敵を『生け捕り』にすること。決して殺すな。情報を引き出すまでは、死なれては困る」
「はっ!」
護衛たちの声が、低く、力強く揃う。彼らは、レクシスが辺境伯として自ら鍛え上げた、少数精鋭の部隊だった。彼らの目に浮かぶのは、主君への絶対的な忠誠と信頼だ。
「全ては、カレン嬢の双肩にかかっている。我々は、彼女の覚悟に応えるのみだ。持ち場につけ」
レクシスの命令で、護衛たちは影のように散っていく。一人残された彼は、窓の外に広がる王都を見つめ、ただ一人の女性の無事を、神ではなく、己の剣に祈った。
*
夜の帳が、王都を包み込む。
閉館まで王立図書館で時間を潰していたカレンは、陽が落ちてから帰路についた。
ヴァルラン家の敷地に入ったことを確認し、外套を脱ぐ。
侯爵家の庭園は、月光に照らされ、まるで夢の中の景色のようだった。美しく手入れされた薔薇が甘く香り、噴水の水音が静寂に響く。だが、カレンにとって、その全てが張り巡らされた蜘蛛の巣のように思えた。一歩、また一歩と、彼女は巣の中心へと進んでいく。
カレンは、月光を浴びて青白く輝くシルクのドレスを身にまとっていた。華やかな装いだが、そのドレスの裾には、彼女の最後の武器である痺れ薬の針が、幾本も巧みに隠されている。胸元のブローチには、煙幕の起爆装置となる小さな宝石がはめ込まれていた。
冷たい夜気が、肌を撫でる。遠くで、夜鳴き鳥の声が聞こえた。自分の心臓の音だけが、やけに大きく耳につく。
(怖い……)
正直な感情が、心の奥底から湧き上がってくる。死の淵を一度経験した身体が、再び訪れようとしているその気配に、本能的な恐怖を訴えていた。
だが、カレンはその恐怖を、奥歯を噛み締めてねじ伏せた。
(ここで逃げたら、私はまた、あの無力な私に戻る)
レクシスの顔が脳裏に浮かんだ。必ず、生きて戻ってくる。あの約束が、彼女の心を支える最後の砦だった。
(私は、帰らなければならない。あの人の隣で、星を見るために)
カレンは、庭園の中央に位置する、白いガゼボの前に立った。ここが、作戦の最終地点。ここならば、四方に潜むレクシスの護衛たちからも、死角なく見通せるはずだ。
その時だった。
背後の茂みが、不自然に、がさり、と揺れた。
来た。
カレンは振り返らない。全身の神経を、背後の一点に集中させる。
複数の気配。殺気。じりじりと、確実に距離を詰められている。一人、二人……五人か。
次の瞬間、黒装束をまとった影たちが、音もなくカレンを取り囲んだ。月光に照らされた刃が、鈍くきらめく。
その先頭に立つ子爵家の次男、アルフレッドは、歪んだ笑みを浮かべていた。
「ごきげんよう、カレン嬢。こんな美しい夜に、たった一人で月見とは、随分と寂しいご身分になられたものですな」
「……あなたこそ。恋人と夜会を楽しむこともせず、男ばかりで夜の庭をうろつくとは、感心しない趣味ですこと、アルフレッド様」
カレンは、ゆっくりと振り返った。その瞳には恐怖の色はなく、ただ、氷のような静かな怒りが燃えていた。その毅然とした態度に、アルフレッドの眉がぴくりと動く。
「その減らず口も、今夜までだ。貴様が我々の計画に気づいていることは、調べがついている。大人しく、ここで死んでもらおうか」
「計画? 王太子殿下を操り、この国を乗っ取ろうという、壮大な計画のことかしら」
カレンの言葉に、アルフレッドの顔色が変わった。
「なっ……なぜそれを!?」
「なぜですって? あなた方が、あまりにも無能だったから。それだけのことですわ」
挑発。それは、彼らの冷静さを奪い、隙を作るための、カレンの武器だった。案の定、逆上したアルフレッドが叫ぶ。
「殺せ! その女を、八つ裂きにしてしまえ!」
暗殺者たちが、一斉に襲いかかってきた。
その瞬間、カレンは胸のブローチを強く握りしめた。パン、と乾いた音が響き、足元から純白の煙が爆発的に広がる。
「ぐわっ! なんだこれは!?」
「目がぁっ!」
強力な催涙効果を持つ煙が、暗殺者たちの視界と呼吸を奪う。
だが、相手も手練れだった。数人が煙の中から、なおもカレンを目がけて突進してくる。そのうちの一人の刃が、カレンの頬を掠めた。熱い痛みが走る。
(まだ来ないの、レクシス……!)
心の中で叫んだ、その時。一人の暗殺者の腕が、カレンの髪を掴んだ。
「捕らえたぞ!」
絶体絶命。
しかし、カレンは諦めなかった。淑女として叩き込まれたダンスのステップのように、流れるような動きで身を翻すと、ドレスの裾に隠した針を抜き取り、男の首筋に突き立てた。
「ぐっ……!?」
男は短い悲鳴を上げ、痺れてその場に崩れ落ちた。
だが、それも束の間。別の影が、背後からカレンの体に腕を回し、動きを封じた。冷たい刃が、喉元に突きつけられる。
「終わりだな、カレン・ヴァルラン」
アルフレッドが、煙の向こうから、勝利を確信した声で言った。
カレンの脳裏に、死の淵で見た光景が蘇った。もう、これまでか。
そう思った、その時だった。
「――そこまでだ!」
夜の静寂を切り裂く、鋭い声。
煙幕が生み出す白い闇の中から、一条の閃光のように、レクシスの剣が煌めいた。カレンを捕らえていた暗殺者の腕が、鮮血と共に宙を舞う。
解放されたカレンの体を、背後から現れたレクシスが力強く支えた。
「遅い、と怒るか?」
耳元で囁かれた声に、カレンは安堵で全身の力が抜けていくのを感じた。
「……ええ。お説教は、後でたっぷりさせていただきますわ」
それを合図にしたかのように、四方から現れた護衛たちが、残りの暗殺者たちに襲いかかった。庭園は、一瞬にして剣戟の響きと怒号が渦巻く戦場と化す。
「グライフ辺境伯!? なぜ貴様がここに!」
狼狽するアルフレッドに、レクシスは剣を向けた。
「愚問だな。君のような、国の害虫を駆除しに来たまでだ」
二人の男の一騎打ちが始まる。アルフレッドの剣は大振りで荒々しいが、レクシスの剣は、無駄がなく、流麗で、それでいて恐ろしく精密だった。数合打ち合っただけで、実力差は火を見るより明らかだった。
キン、と甲高い音を立てて、アルフレッドの剣が弾き飛ばされる。レクシスの切っ先が、彼の喉元で寸止めされた。
「……私の、負けだ」
アルフレッドは、膝から崩れ落ちた。
他の暗殺者たちも、すでに護衛たちによって全員が無力化されていた。
戦いが終わり、庭園に再び静寂が戻る。だが、それは先程までの幻想的な静けさではなく、血と鉄の匂いが混じった、生々しい沈黙だった。
レクシスは、真っ先にカレンの元へ駆け寄った。彼はカレンの頬を流れる一筋の血に気づくと、眉を寄せ、その傷にそっと指で触れた。
「……すまない。私が、もっと早く動いていれば」
「いいえ。これは、私が戦ったという、名誉の負傷ですわ」
カレンは、凛として答えた。
次の瞬間、レクシスは言葉もなく、カレンを強く、強く抱きしめた。その腕の力が、彼がどれほど恐怖していたかを物語っていた。
「……本当に、心臓に悪い。もう二度とごめんだ」
彼の胸に顔を埋めながら、カレンは呟いた。
「ええ、私もです」
二人はしばらく、互いの無事と温もりを確かめ合うように、固く抱き合っていた。
作戦は、成功した。だが、本当の戦いは、ここから始まる。捕らえた男から、全ての真実を引き出すまでは。