知と知の連携
その日から、カレンとレクシスの秘密の協力関係が始まった。カレンはアンナを使って集めた街の情報を、レクシスは王宮の古文書や記録を。二人の知識と情報が組み合わさることで、陰謀の全体像は、驚くべき速さで明らかになっていった。
『星喰らいの蛇』は、王国内の様々な場所に根を張っていた。貴族、騎士、学者、そして宮廷魔術師の中にまで、協力者がいることが判明した。彼らは、王国の転覆を狙っているわけではない。むしろ、王国を内側から支配し、自分たちの意のままに操ることを目的としているようだった。
そして、カレンが断罪された事件は、彼らが王太子を傀儡として操るための、最初の布石だったのだ。聡明で、求められればという前提付だが、王太子に意見や提案をすることもあったカレンを排除し、代わりに自分たちの息のかかった令嬢を新たな婚約者に据える。そのために、没落した子爵家の怨恨を利用したのだ。
真実を知るほどに、敵の巨大さと計画の周到さに、カレンは何度も身震いした。しかし、隣にはレクシスがいた。彼が冷静に情報を分析し、次の手を考えてくれる。一人ではないという事実が、カレンの心を強く支えていた。
「どうやら、敵の本丸は、近々開かれる『建国記念祭』で、何かを仕掛けてくるつもりのようだな」
ある夜、研究室で、レクシスが地図を広げながら言った。
「王太子殿下と、新たな婚約者候補の令嬢が、正式にお披露目される場。そこで、彼らは自分たちの力を誇示する決定的な何かを起こすつもりだろう」
「それを、止めなければ……」
「ああ。だが、証拠がまだ不十分だ。我々が今動いても、妄言として一蹴されるだけだろう。奴らの計画の、決定的な証拠を掴む必要がある」
建国記念祭まで、あと一週間。
残された時間は、あまりにも少なかった。運命の歯車が、最後の舞台へ向けて、軋みながら回り始めていた。
レクシスの研究室の空気は、日に日に重く、張り詰めていった。窓の外の喧騒とは裏腹に、室内には羊皮紙をめくる音と、時折交わされる短い言葉、そして焦燥のにじむため息だけが満ちていた。壁には王都の地図や複雑な家系図、結社の構成員と思われる人物リストがびっしりと貼られ、無数の赤い糸がそれらを結んでいる。だが、その糸はあと一歩のところで、敵の心臓部である計画の物証には届かずにいた。
「これも違うか……」
レクシスが、徹夜で読み解いていた古いギルドの取引記録から顔を上げた。その目の下には、もとより顔色の良くない彼ですら隠しきれない深い隈が刻まれている。カレンも、三日近くまともに眠っていなかった。思考は鈍り、集中力は途切れがちになる。それでも、二人は手を休めなかった。時間だけが、刻一刻と容赦なく過ぎていく。
「レクシス、少し休んでください。せめて、これを」
カレンは、彼が好む鎮静効果のあるカモミールとミントをブレンドしたハーブティーを淹れ、彼の前に差し出した。その指先が、自分でも気づかぬうちに微かに震えている。
「……すまない」
レクシスは素直にカップを受け取った。カレンの心遣いが、ささくれだった神経に染み渡る。だが、その彼女の顔色もまた、蝋のように青白かった。
「君こそ、眠っていないだろう。このままでは、好機が訪れた時に動けなくなる」
「分かっています。ですが、いても立ってもいられなくて……」
このままでは、間に合わない。
その言葉を、二人は口に出さずに、痛いほど共有していた。王宮にいるであろう結社の協力者たちは、巧みに情報を統制し警戒を強めている。我々が動く前に、彼らは計画を前倒しするか、あるいは全く別の方法に切り替える可能性すらあった。
膠着した状況を破ったのは、カレンの一言だった。
彼女は、数時間黙って地図の一点を睨みつけていたが、やがて顔を上げ、静かに、しかし揺るぎない声で言った。
「レクシス。もう、道は一つしか残されていません」
「……何が言いたい」
彼の問いに、カレンはまっすぐにその理知的な瞳を見つめ返した。
「私を、囮にお使いなさい」
その瞬間、研究室の空気が凍りついた。レクシスは、まるで信じられない言葉を聞いたかのように、目を見開いた。
「……正気か、カレン」
声は、怒りを抑えたように低く、硬い。
「今、君が何を言ったか、自分で分かっているのか。彼らは、ただのならず者ではない。躊躇いもなく人の命を奪う、危険な暗殺者を抱えているんだぞ」
「ええ、存じ上げています。だからこそ、です」
カレンは冷静に続けた。
「彼らが最も恐れ、そして最も排除したいと願っている障害は、この私です。私が生きている限り、彼らの計画には常に綻びがつきまとう。追い詰められている今、彼らは必ず、その綻びを性急に閉じようとするはず。つまり、私を直接、消しにくる。そこに、私たちの唯一の勝機があるのです」
それは、あまりにも危険で、無謀な賭けだった。成功する保証などどこにもない。失敗すれば、カレンは命を落とす。
「駄目だ。許可できない」
レクシスの拒絶は、即座で、断固としたものだった。
「成功率が低すぎる。君という切り札を、そんな不確かな賭けに使うことなど、私には到底、容認できない」
「切り札だからこそ、使うのです! 使わなければ、このまま時間切れで、みすみす相手の勝利を許すことになります。それは、あなたも望んでいないはず」
「私が望んでいないのは、君を失うことだ!」
レクシスの叫びが、部屋に響いた。それは、冷静な学者の彼らしからぬ、感情の迸りだった。彼は自分の失言に気づいたように唇を噛み、乱暴に髪をかきむしった。
「……すまない。だが、この作戦だけは、承服しかねる」
「なぜです。私の覚悟を、信じていただけないのですか?」
「信じているさ!」
レクシスは、カレンの肩を掴んだ。その瞳は、苦悩と葛藤に揺れている。
「君がどれほどの覚悟でここにいるか、誰よりも理解しているつもりだ。信じているからこそ、死なせたくない。君を危険に晒すくらいなら、私一人で……」
「一人で何ができるというのですか!」
カレンもまた、声を荒げた。
「あなたは辺境伯で、私は罪人の烙印を押された侯爵令嬢。私が囮にならなければ、敵は決して姿を現さない。あなたは、私の覚悟だけでなく、私の力も、利用価値も、認めてくださらないのですね」
互いを想うが故の言葉が、鋭い棘となって相手を傷つける。二人の間には、初めて、深くて冷たい溝が生まれたかのように見えた。
カレンは、彼の腕を振り払うと、窓辺に寄り、背を向けた。
「……私は、死の淵で誓ったのです。二度と、誰かに守られるだけの存在にはならない、と。誰かの都合で人生を決められるのは、もうこりごりだと。私の人生は、私のもの。この命をどう使おうと、それは、私が決めることです」
彼女は、あの光との対話を思い出していた。二度目の生を拒絶した、あの瞬間の、魂の叫びを。
「あの時、私は安易な道を選ばなかった。苦しくても、惨めでも、この一度きりの現実と向き合うと決めた。この戦いは、その覚悟の証明なのです。ここで私が危険から逃げ、あなたの背中に隠れてしまえば、私は結局、何も変われない。また、誰かに依存するだけの、無力なカレン・ヴァルランに戻ってしまう……。それだけは、死んでも嫌なのです」
静かだが、心の底から絞り出すようなカレンの告白に、レクシスは言葉を失った。
彼女が背負っているものの重さ。彼女がその細い肩で支えようとしている、尊厳の重さ。それを、自分は本当の意味で理解していなかったのかもしれない。彼女を危険から遠ざけることが、彼女の魂そのものを否定することに繋がりかねないのだと、ようやく気付かされた。
長い沈黙の後、レクシスは深いため息をつき、カレンの隣に立った。
「……分かった。君の覚悟、君の魂、全てを受け入れよう」
彼の声には、もう抵抗の色はなかった。あるのは、共に地獄へ落ちることも厭わないという、共犯者のような響きだった。
「だが、約束しろ。決して無茶はしないと。そして、必ず、生きて私の元へ戻ってくると」
カレンが振り返ると、彼の瞳には、カレンへの信頼と、そして深い心配の色が浮かんでいた。
「ええ、約束します。私は、まだあなたと解き明かしたい謎がたくさんありますから」
カレンは、初めて彼に向かって、心からの微笑みを見せた。それは、これから死地へ向かう者とは思えないほど、穏やかで、美しい微笑みだった。
その瞬間から、研究室の空気は一変した。
絶望的な停滞感は消え、危険な作戦へ向かう、鋭利な緊張感と活気が漲った。
二人は、侯爵家の庭園の精密な地図を広げ、計画を練り始めた。
「敵が最も警戒するのは、私の護衛でしょう。だから、護衛は極力遠くに配置し、私が完全に一人であると誤認させる必要がある」
「だが、それではいざという時に間に合わん。最低でも四人、この茂みと、あそこの木陰に潜ませる。合図は、君が使う煙幕の光だ。あれには、特殊な鉱石の粉末を混ぜておこう。我々のゴーグル越しにしか見えない、特殊な光を放つように」
「さすがですわね。では、私は催涙効果のある煙幕の他に、もう一つ。毒草の根を煮詰めて作った、即効性の痺れ薬を染み込ませた針を、ドレスの裾に隠しておきます。万が一、接近された場合の、最後の切り札に」
「承知した。失敗は許されない。敵を捕らえ、尋問し、物証のありかを聞き出すまでが、この作戦の全てだ」
彼らの会話には、もはや迷いはない。一人の戦略家と、一人の実行者が、互いの能力を最大限に信頼し、緻密な作戦を組み立てていく。その姿は、まるで長年コンビを組んできた熟練の兵士のようでもあった。
作戦決行の前夜。
全ての準備を終えた研究室で、二人は静かにハーブティーを飲んでいた。嵐の前の静けさ、という言葉が、これほど似合う状況もないだろう。
「怖いか?」
レクシスが、静かに尋ねた。
「ええ、少し」
カレンは、素直に頷いた。
「でも、不思議と心は落ち着いています。やるべきことが、はっきりしているからかもしれません。……あなたは?」
「私は、君を失うのが怖い。それだけだ」
彼は、そう言うと、カレンの手をそっと握った。その手は、温かかった。
「カレン。もし、全てが無事に終わったら……。私の領地へ、来ないか。ここよりずっと静かで、退屈な場所だが、星だけは、どこよりも綺麗に見える」
それは、不器用な彼の、精一杯の誘いであり、未来への約束だった。
カレンは、握られた手に、そっと力を込めて応えた。
「……ええ。ぜひ、その星を、あなたと眺めてみたいです」
明日、何が起こるか分からない。けれど、この温かい約束がある限り、自分は必ず生きて帰れる。カレンは、そう強く信じた。
朝が、もうすぐそこまで迫っていた。