真理を求める目
翌日、カレンは質素だが品のあるドレスを身にまとい、顔を隠すように深いフードのついたマントを羽織って、数週間ぶりに屋敷の外へ出た。馬車に揺られながら見る王都の景色は、何も変わらない。けれど、カレンの目には、すべてが以前とは違って映っていた。
王立図書館は、荘厳な石造りの建物だった。中に入ると、インクと古い紙の匂いがカレンを迎える。護衛を入り口で待たせ、カレンは一人、目的の古文書が収められている第二書庫へと向かった。
しかし、司書に文献の閲覧を申請すると、無情な言葉が返ってきた。
「申し訳ございません。その文献は現在、グライフ辺境伯様が研究のため、長期で借り受けられております」
「グライフ、辺境伯……?」
聞いたことのない名だ。辺境伯といえば、王都からは離れた土地を治める、古くからの家柄のはず。
カレンが問いただせば、腹心に領地経営を任せ、自身は王都の研究室へ定期的に滞在している人物だと、司書は言いづらそうにしながらも教えてくれた。
掻い摘んで聞くだけで変わり者だと分かる。道理で社交界で見聞きしたことのないわけだった。
「その方に、お会いすることはできませんか? どうしても、確認したいことが……」
「それはできかねます。辺境伯は、ご自身の研究室に籠られると、滅多に人とはお会いになりませんので」
万策尽きたか、とカレンが唇を噛んだ、その時だった。
「――私が、グライフだが」
背後からかけられた、低く、落ち着いた声。
振り返ると、そこに一人の男が立っていた。歳は二十代後半だろうか。着古したシンプルなシャツとズボンという、貴族らしからぬ質素な身なり。無造作に伸ばされた黒髪の下から、切れ長の理知的な瞳が、カレンを静かに見つめていた。その手には、まさしくカレンが探していた、あの古文書が抱えられていた。
「君が、この本に用があるのか。ヴァルラン侯爵令嬢」
男――グライフは、カレンの顔を知っているようだった。しかし、その声にも、瞳にも、スキャンダルに塗れた令嬢を見るような好奇や侮蔑の色はない。ただ、純粋な知的好奇心だけが、そこにはあった。
「……いかにも。あなた様が、グライフ辺境伯でしたか」
カレンは警戒を解かずに、貴族の令嬢としての完璧なカーテシーを見せた。
「なぜ、この本を? これは、ただの歴史書ではない。素人が興味本位で読むようなものではないはずだが」
グライフ辺境伯の問いは、カレンの本質を試すようだった。
カレンは一瞬、言葉に詰まった。この男に、どこまで話すべきか。だが、彼の真っ直ぐな瞳を見ているうちに、駆け引きは無意味だと悟った。この男は、人の本質を見抜く。
「私は、素人ではございません。そして、これは興味本位でもありません。私の、そして我が家の、全てが懸かっているのです」
カレンは、核心には触れずに、しかし固い決意を滲ませて答えた。
グライフ辺境伯は、ふむ、と小さく息を漏らし、カレンの顔と、腕の中の古文書を交互に見た。そして、予期せぬ言葉を口にした。
「面白い。……いいだろう。私の研究室に来なさい。この本について、君と話がしてみたい」
レクシス・グライフ辺境伯の研究室は、王立図書館の最上階の、忘れ去られたような一角にあった。埃っぽい廊下の突き当たりにある、何の飾り気もない樫の扉。彼が鍵を開けて招き入れると、カレンの目の前に、混沌と秩序が同居する不思議な空間が広がった。
壁という壁は、天井まで届く本棚で埋め尽くされ、床には読みかけの書物や羊皮紙の巻物が、危うげな塔となっていくつも聳え立っている。机の上には、天体儀や奇妙な形の鉱石、年代物のルーペなどが雑然と置かれているが、そのどれもが丁寧に手入れされていることが見て取れた。空気は、インクと古い紙、そして微かにハーブティーの香りがした。権力や富の匂いが一切しない、純粋な知性の城。カレンは、息苦しい侯爵邸とは全く違うその空気に、僅かな安堵を覚えた。
「適当なところに座ってくれ。……と言っても、座れる場所があるかどうか」
グライフ辺境伯はそう言って、椅子の上に山と積まれた本をこともなげに床へ下ろした。
カレンは勧められた椅子に腰掛け、まっすぐに彼を見つめた。
「グライフ辺境伯。なぜ、私をここに?」
「レクシスでいい。堅苦しいのは性に合わん」
彼はカレンの向かいに座ると、問題の古文書を机に広げた。
「君の目だ。君はあの時、この本をただの物として見ていなかった。その奥にある情報を、渇望する目をしていた。醜聞の渦中にいる令嬢が、なぜ、滅びた王家の秘術に関する高度な暗号文献を求める? 普通に考えれば、答えは一つだ」
「……復讐、だと?」
カレンが静かに言うと、レクシスは首を横に振った。
「いや、違うな。復讐に燃える人間の目は、もっと濁っている。君の目は、氷のように冷たいが、澄み切っている。君は、復讐ではなく、真実を求めている。そうだろう?」
見透かされている。カレンは息を呑んだ。この男は、初対面の自分を、噂や偏見の篩を通さずに、その本質だけを見抜こうとしている。
「……あなたには、関係のないことです」
「関係なくはない」
レクシスは、古文書のある一節を指差した。そこには、複雑な文様が描かれている。
「この文様――『星喰らいの蛇』と呼ばれる結社の印だ。彼らは、歴史の裏側で、古代の魔術や禁忌の知識を収集し、己の力としてきた。私は長年、彼らの活動を追っている。君がこの本を求める理由が、もしこの結社と関係があるのなら、それは大いに関係がある」
星喰らいの蛇。その言葉に、カレンの脳裏で全ての点が繋がった。
義妹セリーナに秘術を授けた、子爵家の次男。彼が所属しているに違いない。ヴァルラン家のインクの情報を盗み出し、完璧な偽造書簡を作り上げたのも、組織力があれば可能だろう。彼らは、なぜヴァルラン家を? いや、狙いはヴァルラン家そのものではないのかもしれない。王太子妃となるはずだった、カレン自身か。
「……彼らは、何が目的なのですか」
カレンの声は、微かに震えていた。もはや、隠し立ては無意味だった。
「さあな。権力か、富か、あるいは、単なる知的好奇心か。だが、彼らは目的のためなら手段を選ばない。一国の王家すら、内側から崩壊させたという記録もある」
レクシスは、そこで言葉を切り、カレンの目をじっと見つめた。
「侯爵令嬢カレン。君は、とてつもなく厄介で、危険な相手に手を出そうとしている。今からでも、全てを忘れて身を引くのが賢明だ。君が断罪された一件も、おそらく彼らが裏で糸を引いているのだろう。君一人の力で、どうにかなる相手ではない」
彼の言葉は、事実だった。ただの個人的な怨恨ではなかった。その背後には、歴史の闇に潜む巨大な組織がいた。カレンは、蟻が巨象に挑むような、無謀な戦いを始めようとしていたのだ。
一瞬、全身の血が凍るような恐怖が、カレンを襲った。もし、あの時、生まれ変わりの誘いを受けていたら。こんな恐ろしい真実など知らずに、別の、もっと安全な人生をやり直せたのかもしれない。危険な道だと分かっていた。だが、これほどとは。
(私は、間違っていたの……?)
自分の選択が、あまりにも無謀で、愚かなものに思えた。レクシスをこれ以上巻き込むわけにはいかない。何より、自分自身が、この底知れぬ闇に飲み込まれてしまいそうだった。
俯き、唇を固く結ぶカレンの様子を、レクシスは静かに観察していた。やがて、カレンは顔を上げ、震える声で言った。
「……ご忠告、感謝いたします。どうやら、私には過ぎた望みだったようです。今日のことは、他言無用でお願いできますでしょうか」
立ち上がり、研究室を去ろうとするカレンの背中に、レクシスの静かな声が投げかけられた。
「それでいいのか?」
カレンの足が止まる。
「君は、真実を目の前にして、踵を返すのか。他人に作られた偽りの罪を、甘んじて受け入れるのか。君が最初に私に見せた、あの氷の刃のような瞳は、偽物だったのか」
彼の言葉が、カレンの胸に突き刺さる。
違う。偽物などではない。あの決意は、本物だった。
では、なぜ今、自分は逃げ出そうとしている?
怖いからだ。負けるのが、死ぬのが、怖いからだ。
(……いいえ、本当にそれだけ?)
カレンは、自らの心の奥底を深く見つめた。
死の淵で、二度目の生を拒んだ、あの瞬間のことを思い出す。それは、単なる逃避ではなかった。苦しみを繰り返したくない、というだけではなかった。
あの決断は、他者に依存し、誰かの期待に応えるためだけに生きてきた過去の自分への、決別の誓いだったのだ。
侯爵令嬢として、王太子妃候補として、誰かが敷いたレールの上を歩くだけだった自分。その結果が、あの無様な死だった。
だから、自分の意志で、自分の足で、この困難な現実を歩くと決めたのだ。たとえそれが茨の道であろうとも。この痛みも、恐怖も、全て自分で選んだ道の一部なのだ。
この困難から逃げることは、再び過去の自分に戻ることを意味する。誰かのせいにして、運命を呪い、無力なまま朽ちていく自分に。
それだけは、絶対に嫌だった。
「……いいえ」
カレンは、ゆっくりと振り返った。彼女の瞳からは、先程までの迷いが消え失せ、再び、静かで燃えるような光が宿っていた。
「私は、逃げません。たとえ相手が何者であろうと、私が選んだこの道を進むだけです。私の人生は、もう誰にも決めさせない」
その言葉は、レクシスに言ったものではなかった。カレン自身の魂に向けた、再度の誓いだった。
カレンの覚悟に満ちた表情を見て、レクシスは満足そうに口の端を上げた。それは、彼が初めて見せた、笑みと呼べるものだった。
「よろしい。それでこそ、私の目に狂いはなかったということだ」
彼は立ち上がると、カレンの前に立った。
「ならば、取引をしよう。君が持つ、事件の内部情報。それを私に提供してほしい。代わりに、私は『星喰らいの蛇』に関する私の知識と、王宮内で使える多少の権限を、君に貸そう」
「……なぜ、そこまでしてくださるのですか。あなたに、何の得が?」
カレンの問いに、レクシスは心底楽しそうに答えた。
「得しかない。君という助手と、何より、退屈な日常を破壊してくれる、極上の謎が手に入るのだからな」
彼の瞳には、打算も同情もなかった。ただ、真理を探究する者だけが持つ、純粋な輝きがあった。
カレンは、この男なら信じられるかもしれない、と、殺されかけてから初めて思った。
利害や爵位で繋がる関係ではない。知的好奇心と、真実の探求という、ただ一点で結ばれた、対等な協力者。孤独な戦いだと思っていた道に、初めて、共に歩んでくれるかもしれない存在が現れたのだ。
「……よろしくお願いいたします、レクシス。私のことは、カレンとお呼びください」
カレンが差し出した手を、レクシスは力強く握り返した。
「ああ、よろしく頼む、カレン。我々の、反撃を始めよう」
二人の間に、確かな絆が生まれた瞬間だった。
それは、甘い恋の始まりなどではない。絶望の淵から這い上がった令嬢と、孤高の学者が交わした、真実を暴くための、危険で、そして胸の躍るような契約だった。




