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断罪の淵

 夜風が、開け放たれた窓から、血の匂いを運んできた。侯爵令嬢カレンは、冷え切った床に横たわり、天井の染みをぼんやりと見つめていた。

 視界は霞み、四肢にはすでに感覚がない。口から溢れ出た液体は、甘ったるい鉄の香りを放ち、喉の奥を焼くように熱い。毒だ。誰が、なぜ。最早、それを知る術も、意味も、カレンには残されていなかった。


 数刻前、カレンは「断罪」を受けていた。王太子殿下との婚約破棄。

 罪状は、殿下への呪詛、夜会での令嬢への度重なる嫌がらせ、そして侯爵家の秘密情報の漏洩。どれもこれも、カレンには身に覚えのないことばかりだった。

 けれど、王太子殿下の冷たい視線、証言台に立つ義妹と元友人たちの悲痛な訴え、そして何よりも、カレン自身も信じがたい証拠の数々が、すべてを物語っていた。


 父は顔を覆い、母は気絶し、屋敷の使用人たちは凍り付いたように立ち尽くしていた。誰一人として、カレンの無実を信じようとはしなかった。いや、信じることができなかったのだろう。完璧なまでに用意された、周到な罠。それに気づいた時には、すでに侯爵家は崩壊寸前で、カレン自身の名誉は地の底に叩きつけられていた。


「この期に及んで、まだ嘘を吐くか! 貴族にあるまじき行い、もはや弁明の余地はない!」


 王太子殿下の怒声が、広間に響き渡る。カレンは膝から崩れ落ちた。弁明の余地がないのではない。弁明を、する機会すら与えられなかったのだ。喉は張り付き、言葉が紡げない。必死に懇願しようと手を伸ばせば、それは反抗と見なされ、さらに「罪」は重なった。


「カレン・ヴァルラン。貴様には、侯爵家から追放の上、修道院への幽閉を命じる。ヴァルラン家の名誉のために、これ以上の醜態は許されない!」


 父の声は、震えていた。しかし、その震えは、カレンを庇うためのものではない。家族の名誉、家の存続。それらを守るためならば、たった一人の娘の命など、塵芥に等しいとでも言いたげな、冷たい響きだった。


 そして――ああ、自ら決めておきながら、幽閉というのは不確実だと感じたのかもしれない。ここで過ごす最後の夜と覚悟した自分の部屋で、カレンは食事に毒を盛られた。

 侯爵家が手配したのだろう。そうするしかなかったのだと、今となっては理解できる。自分という(やまい)を取り除くことで、家は生き延びられると、彼らは判断したのだ。


 毒は、静かに、しかし確実に身体を蝕んでいく。肺が焼けるように熱く、心臓が不規則なリズムを刻む。呼吸が苦しい。指先一本動かすことすらままならない。

 カレンの脳裏に、かつての幸福な記憶が蘇る。幼い頃、両親に囲まれ、庭園で無邪気に笑っていた自分。初めて社交界に出た時の、胸の高鳴り。王太子殿下との、希望に満ちた婚約の日。すべてが、今は色褪せた幻影のように思える。


 なぜ、こうなってしまったのだろう? カレンは、これまで誰にも逆らわず、ただひたすらに、侯爵令嬢としてあるべき姿を追い求めてきた。

 淑女教育に励み、勉学に勤しみ、社交界では模範的な態度を心がけた。王太子妃としてふさわしい人間になろうと、努力を惜しまなかった。それなのに。


(何がいけなかったの? 私、何か間違っていた?)


 答えは、死の淵に横たわるカレンには、見つけられなかった。ただ、後悔だけが、暗い水底のように淀んでいく。

 もっと早く、真実に気づいていれば。もっと、自分の意見を主張していれば。もっと、大切なものに目を向けていれば。


「……もう、嫌だ」


 苦し紛れの息の下で、カレンは呟いた。何もかも。すべてが、嫌だった。この人生も、この世界も、そして、こんなにも無力な自分も。



 その時だった。



 眩い光が、カレンの視界を覆った。薄れゆく意識の奥底で、暖かく、それでいて厳かな声が、カレンの心に直接響いてくる。



 『――そなたの魂は、穢れなき輝きを秘めている。しかし、その生はあまりにも不条理に満ちていた。

 望むならば、時を巻き戻し、再び生をやり直す機会を与えよう。誕生へと戻り、新たな未来を紡ぐのだ』



 その声は、甘い蜜のようにカレンを誘惑した。


 再び、人生をやり直せる? もう一度、生まれたときまで戻れるの?


 もしそうならば、今度こそ、間違いを犯さずに、幸せな未来を掴めるかもしれない。裏切り者を排除し、陰謀を暴き、自分を貶めた者たちに報復することもできるかもしれない。いいえ、もっと別の選択肢だって……。


(もう一度……)


 思考の片隅で、微かな希望が芽生える。けれど、その希望は、すぐに冷たい氷に覆われた。


(本当に、それが正しいことなの?)


 もし、過去に戻ったとして、本当にすべてをやり直せるのだろうか。一度盤面を真っ更にしたからといって、同じ過ちを繰り返さないと、誰が言えるだろう。

 また、あの苦しみを味わうのではないか。あの絶望を、もう一度経験するのではないか。


 カレンは、これまで何度も何度も、自分の無力さを呪ってきた。誰かに頼り、誰かに従い、誰かの期待に応えることばかりに終始してきた。

 それが、侯爵令嬢として、王太子妃として、あるべき姿だと教えられてきたから。しかし、その結果が、今この瞬間、死の淵に横たわる自分なのだ。


 過去に戻ったところで、また同じように他者に依存し、他者の価値観の中で生きるだけならば、結局、何も変わらないのではないか。



 『さあ、選ぶがいい。過去へ還り、はじまりからやり直すか――』



 声が、再びカレンを促す。温かく、慈愛に満ちたその声は、まるで楽園への誘いのように響いた。けれど、カレンの心には、ある一つの確固たる想いが芽生え始めていた。


(違う……違うわ。私は、もう誰にも頼らない。過去を繰り返すのではなく、今、この瞬間から、この手で未来を切り拓きたい)


 人生を、他者の手によって翻弄されるのは、もう嫌だ。やり直す人生など、望まない。もし、今この場所から、もう一度始めることができるのならば。この、一度きりの生を、自分の意志で、自分の力で、変えてみせる。たとえ、それがどんなに困難な道だとしても。


(私の人生は、私のものだわ。誰かの都合の良いように、決めつけられてたまるものですか!)


 カレンの胸に、かつてないほどの強い意志が宿った。それは、過去への執着でも、未来への逃避でもない。今、この瞬間を、自身の力で変えようとする、純粋なまでの決意だった。


「――私は、二度目の生を、望みません……!」


 枯れた喉から、かすれた声が漏れ出た。しかし、その言葉には、かつてないほどの力が宿っていた。光が、一瞬にして消え失せる。



 『――よろしい。であるならば足掻くが良い。その生ある限り……』



 案ずるような声が響くなか、カレンの意識は、暗闇の底へと沈んでいった。



 *



 どれほどの時が流れたのか。

 死という名の静寂ではなく、全身を苛む激痛が、カレンの意識を現実に引き戻した。

 喉の奥が焼け付くように熱く、内臓が捻じ切れるように痛む。けれど、それは紛れもなく生きている証だった。


(私……まだ……生きている……?)


 ゆっくりと瞼を開けば、見慣れた自室の天井がぼんやりと映る。ここはヴァルラン侯爵家の、カレンの部屋だ。


 なぜ。

 理由は判然としなかった。盛られた毒の量が、致死量に僅かに満たなかったのか。あるいは肉体が、毒への僅かな耐性を持っていたのか。どちらにせよ、それは些細な偶然の産物でしかない。

 だが、その偶然が、カレンに二度目ではない、たった一度の生の続きを与えてくれた。


「……っ」


 身を起こそうとして、激しい咳と共に再び血を吐いた。絹の寝間着が、どす黒い染みで汚れていく。床に零れた血は、すでに乾き始めていた。

 カレンは、震える手でベッドサイドの姿見を引き寄せた。そこに映っていたのは、死人のように青白い顔をした、頬の痩けこけた女だった。

 唇は切れ、髪は乱れ、虚ろな瞳だけが爛々と異様な光を放っている。


 だが、それだけ(・・・・)だ。この毒がこれ以上自身を苛むことがないことが、不思議とカレンには分かった。


 これが、今の自分。これが、すべての始まり。


(ここから始めるのよ)


 死の淵で誓った決意が、胸の奥で熱を帯びる。もう、誰かの言いなりになるのは終わりだ。


 守られるだけの弱い令嬢は、昨夜死んだ。


 その時、控えめなノックと共に、侍女のアンナが盆を手に部屋へ入ってきた。カレンの幼い頃から仕える、気立ての良い侍女だ。彼女は、身を起こしているカレンの姿を認めると、悲鳴を上げて盆を取り落とした。ガシャン、と陶器の割れる甲高い音が響く。


「お嬢様!? ち、血が!! どこか具合が!?」


「アンナ」


 カレンが発した声は、自分でも驚くほど低く、静かだった。アンナは、怯えたように肩を震わせる。


「騒がないで。人が来たら面倒だわ」


「は、はい……。しかし、お身体は……すぐに医師を!」


「必要ないわ。それより、聞きたいことがあるの」


 カレンの瞳には、かつての穏やかな光はない。射抜くような鋭さに、アンナは息を呑んだ。


「父はどこにいるの?」


「旦那様は……書斎に籠られたきりで……」


 そう、とカレンは短く応じた。父は、娘が毒に苦しんで死にかけているというのに、書斎に籠って顔も見せなかった。それは、死を望んでいた何よりの証拠だ。

 カレンはアンナの目を見据えた。


「アンナ。貴方は、私が王太子殿下を呪ったと、本気で信じているの?」


 その問いは、これまでカレンが決して口にしなかった類のものだった。疑うこと、問いただすこと。それは、淑女の美徳に反すると教えられてきたからだ。

 アンナは狼狽え、視線を彷徨わせた。


「そ、それは……旦那様も、王宮の方々も、皆様がそう仰って……」


「そう。皆が言うから、貴方もそう思うのね」


 カレンは、ふ、と自嘲的な笑みを浮かべた。これが現実。これが自分の立ち位置。誰一人、自分の言葉を信じようとはしない。ならば、信じさせるしかないのだ。行動で、結果で。


「わかったわ。もういい。下がってちょうだい。割れた食器も、そのままで構わないわ」


「しかし、お食事を……」


「いらないと言っているの。それとも、私の命令が聞けないのかしら?」


 氷のように冷たい声に、アンナは真っ青になって部屋を飛び出していった。

 一人きりになった部屋で、カレンはゆっくりと立ち上がった。足が震え、視界がぐらつく。だが、倒れるわけにはいかなかった。


 壁を伝い、よろめきながら向かったのは、父の書斎だった。

 ノックもせず、重い扉を押し開ける。そこにいたヴァルラン侯爵は、山積みの書類を前に頭を抱えていた。カレンの姿を認めると、彼は幽霊でも見たかのように目を見開いた。


「カレン……! な、なぜここに……部屋でおとなしくしていなさい!」


「お言葉ですが、お父様。あなたの娘が、なぜこうして歩いているのか、お気になりませんこと?」


 皮肉を込めた言葉に、侯爵の顔が怒りで歪む。


「無礼者! 誰に向かってその口の利き方を……」


「では、お尋ねします。私の食事に毒を盛ったのは、誰の指示ですか?」


 カレンは、真っ直ぐに父の目を見つめて言った。その瞳には、もはや怯えも悲しみもない。ただ、真実を求める鋼の意志だけがあった。

 侯爵はぐっと言葉に詰まり、視線を逸らした。


「……何を言うか。疲れて、悪い夢でも見たのだろう」


「夢、ですって? この痛みも、吐き出した血も、全てが夢だと?」


 カレンは一歩、父ににじり寄った。その気迫に、侯爵は思わず椅子から腰を浮かせかける。


「ヴァルラン家の名誉のため、と仰いましたわね。家の存続のためならば、娘一人、喜んで差し出すと。……ええ、理解できますわ。冷徹で、合理的なご判断ですこと」


 静かな声だったが、その一言一句が、侯爵の罪悪感を的確に抉っていく。


「ち、違う! 私は、お前を……!」


「お黙りなさい!」


 カレンの一喝が、書斎の空気を震わせた。これまで、父に逆らうことなど一度もなかった娘の、初めての反抗だった。

 侯爵は、言葉を失って娘を見つめた。そこにいるのは、もはや彼の知る、か弱く従順なカレンではなかった。絶望の淵から蘇った、復讐の悪鬼のようだった。


「これ以上、見え透いた嘘で私を愚弄するのはおやめなさい。私は、死にませんでした。……いいえ、死なせてもらえなかった。だから、ここから始めます」


「……何を、始めるというのだ」


「決まっていますわ。私を陥れた者たちを白日の下に晒し、私の無実を証明し、地に堕ちたヴァルラン家の名誉を、この手で回復させてみせます」


「馬鹿なことを言うな! 証拠も何もないのだぞ! 下手に動けば、それこそヴァルラン家は取り潰しだ!」


「ええ、そうでしょうね。お父様は、そうやってこれからも、見えない敵に怯え、真実から目を逸らし、ただ家が存続することだけを祈って生きていけばよろしいわ」


 カレンは、冷たく言い放った。


「ですが、私は違います。ヴァルラン家の名誉は、私が取り戻します。……けれど、それはお父様のためではありません。私自身の、尊厳のために」


 踵を返し、書斎を出ようとするカレンの背中に、侯爵が震える声で問いかけた。


「……どうやって。味方も、金も、力も、今のお前には何もないのだぞ」


 カレンは、ドアノブに手をかけたまま、振り返らずに答えた。


「ええ、何もありませんわ。あるのは、この一度きりの命と、貴族令嬢として叩き込まれた知識だけ」


 それで十分だ。カレンは両の拳を強く握りしめた。

 扉が、静かに閉められた。残された侯爵は、ただ呆然と、娘が立っていた空間を見つめることしかできなかった。


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