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こぼれる想い(4)


(──優しい顔、だと?)


 そんなふうに言われたのは初めてのことで。

 ヴィルジールは無表情の下で、エヴァンの言葉の意味を考えた。


 それはどんな表情なのだろうか。鏡を見ようとは思わなかったが、自分がそのような顔をしていたとしたら──それは彼女のせいだろう、と思う。


 陽だまりのように笑うルーチェを見ていると、穏やかな気持ちになって。悲しそうにしていると、その理由を探りたくなって。幸せそうにしていると、そのままでいて欲しいと願ってしまう。


 ルーチェという存在は、不思議だ。


「──皇帝陛下の御成ですッ!」


 薄水色の大理石の床に敷かれている、青色の長細いカーペットの上を突き進む。短い階段を上ると、皇帝だけが使用することを許されている玉座がある。


 ヴィルジールは青いマントを翻し、堂々たる佇まいでそれに座った。


 階段の下では国の要職に就いている貴族たちがずらりと並んでいる。その内の一人が、スッと手を挙げて前に進み出た。


「──畏れ多くも、陛下に進言させて頂いてもよろしいでしょうか」


 許す、とヴィルジールが返すと、男はおずおずと顔を上げた。


「陛下は今年で即位十年目を迎えられましたが、未だに妃が一人もおりません。跡継ぎのこともありますし、良家の娘を何人か迎えられては如何でしょうか」


 年に一度、必ず持ち上げられる縁談話に、ヴィルジールは薄らと溜め息を吐いた。


「いらん。跡継ぎはいつかセシルの子を後継に迎えればいいだろう」


「そのセシル王子殿下も、独身ではありませんか」


 男は片手でグッと拳を作りながらヴィルジールを見上げる。そのポーズが何を示しているのかが分からず、ヴィルジールは黙って脚を組んだ。


 男の言っていることは理解している。それは即位してから毎年必ず、誰かしらが進言していることだ。早く妃を迎え、世継ぎを──と。


「即位された時は、まだ国が落ち着いていないからと…しかしその翌年は、やるべきことがあるからと。その翌年も、そのまた翌年も、国政を理由に断られ…」


 男は涙ながらに訴え始める。同情を誘うようなその口調につられたのか、周囲の貴族たちも頷き始めた。


「もう国は平和になったのです。ヴィルジール皇帝陛下、貴方様のお陰で。飢える子供もいなくなりました。字が書けない子も今ではおりません。だからもう、そろそろ良いのではありませんか?」


「ワシもそう思いますぞ。そろそろ孫の──ゴホン、世継ぎの顔を老いぼれに見せてくだされ」


 孫の顔を、と言いかけたのはエヴァンの祖父であるセデンだった。真っ白な髭を弄りながら、穏やかに微笑んでいる。


 ヴィルジールは目を逸らし、今度は重い溜め息を吐いた。


 彼らの言い分も気持ちも分かるが、皇帝の妃というものに幸福な像をヴィルジールは抱けないのだ。


 ヴィルジールの母は他の妃に毒殺され、セシルを産んだ妃は心を病んでいた。我が子こそが皇帝に相応しい、と争っていた妃たちの姿をヴィルジールは見てきた。その中で、無関係な人間が巻き込まれ、多くの人間が死んだ。


 跡継ぎの問題は理解しているが、皇帝の妃というものは必ず不幸になる。結果を分かっていて、迎えようとは思えないのだ。



 朝議が終わり、エヴァンとその祖父であるセデンだけが残ると、ヴィルジールは胸元のタイを緩めながら立ち上がった。風に当たるためにテラスに行くと、後をついてきたエヴァンがぐぐっと伸びをしながら気持ちよさそうにしている。


「陛下。ルーチェ様を妃に迎えられてはどうです?」


「……妃はいらない」


「ルーチェ様がお傍にいるのは、嫌ではないのですね?」


 返事の代わりに頷くと、エヴァンはそれはそれは嬉しそうに笑った。何がそんなに嬉しいのだろうか。


 ヴィルジールは少し冷たい風に目を細めながら、秋の果物を頬張っていた今朝のルーチェの顔を思い返した。


 ルーチェにはイージスの聖女として、やるべきことがある。聖王を捜し、国を滅ぼした竜を封じる手立てを考え、喪われた国のために報いるという役目が。


 聖王は聖女であったルーチェにとって、比翼の片割れだとノエルは言っていた。そんな存在である人と再会し、やるべき事を終えたら──ここには戻ってこないだろう、と思う。


 ヴィルジールはルーチェの“イージスの聖女”としての役目を分かっている一方で、こうも考えていた。このままルーチェとして、この国で穏やかに一生を終えてくれたらと。


 自分の目が届くところで、笑ってくれていたら。あの幸福そうな微笑みを見たら、そんなふうにも考えてしまうのだ。


「……ねぇ、ジル」


 斜め後ろにいるエヴァンが、子供の頃のように呼んできた。即位してからは初めてのことで、流石のヴィルジールも眉を跳ね上げる。


 エヴァンは一歩、ヴィルジールとの距離を詰めると、隣に並び立った。


「皇帝というものは国のために在るひとつの生き物のようなものだと、私の祖父はよく言っていましたよね」


「……ああ」


「でも、貴方はヴィルジールというひとりの人間でもあるのですよ」


 エヴァンの焦げ茶色の瞳が、ヴィルジールへと真っ直ぐに向けられる。


「私は宰相として、貴方と共に在ると誓ったあの日から、この国のために、民のために、そして貴方のために──いつだって最善の道を選んできました。でも、私はヴィルジールの友人であるただのエヴァンとして、こうも思っているんです」


 エヴァンはこの上なく優しい微笑みを浮かべると、ヴィルジールの左腕に手を添えた。


「私は貴方に、倖せになって欲しいです」


 ヴィルジールは軽く目を見張ったまま、エヴァンを見つめ返した。


 冗談や屁理屈ばかり言って、いつもふざけていたというのに、そんなふうに思ってくれていたのかと。


 だが、次の瞬間。エヴァンはもう片方の手もヴィルジールの腕に添えると、ガッシリと掴んだ。


「それから、これを機に勤務形態の見直しもお願いします。私の!」


「───は?」


「即位から十年、朝から晩まで休みなく働き、時には徹夜!そのまま朝日を浴びることもしばしば! ここ数日はルーチェ様のお陰か、残業はなくなりましたけれども! 私としては他の文官達と同様に、五日に一度休みを頂きたく──」


 思いまして、というエヴァンの続きの言葉は、ヴィルジールの迫力に呑み込まれて消えた。


「………エヴァン」


「は、はーい。シゴト、シゴトに行きましょうか…」


 エヴァンは冷気が身体を這い上がっていくのを感じながら、サササ、とヴィルジールから距離を取った。


 だが、ヴィルジールの手にいつもの氷の刃はなかった。凍てつくような眼差しも、足元に氷もない。


 ヴィルジールは怒ってはいないようだった。

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