体育祭。
体育祭ほど辛いものはない。
特にワンオペだと、それは、想像を絶する。前日ともなると、弁当の食材買付、仕込みからゼッケンの縫い付け、体操服の洗濯と乾燥、家族の夕食づくり、お風呂、寝かしつけ、と、とにかくやることが目白押しである。
そして、翌朝から試練はいきなりやってくる。
早起きが苦手な私から見ると憎たらしいほど、翌朝校門の前にはすでに百人ほどの先客が開門を待っているではないか!
肩を落とし、しばらく周囲の人々の会話に何気なく耳を傾けると、ある人は、開門の二時間前から並んで待っていたという。
信じられない。いったい、どれほど効率のよい一日を過ごせば、彼らのように涼しげな顔をして列の好位置をキープ出来るものなのだろうか。キャンプ用のお洒落なカートを片手に、サングラスをし、リゾート気分で門の前に佇む若夫婦の姿などを見ると、思わず自らと引き比べ、落ち込んでしまう。
だが、ここで負けるわけにはいかない。
本番は、体育祭の席取り、場所とりだ。
これらは、徴兵制のようなもので、戦いたくない、と言っても戦わざるを得ない。走って席取りをしないで、と先生が注意するにもかかわらず、父兄はいつの間にか土埃を挙げながら超早足で父兄席スペースに駆けつけ、レジャーシートで互いの場所を確保する。隣の父兄とはギクシャクすることこのうえない。 なぜなら味方であり、敵であるからだ。お互いに作り笑いをして挨拶を交わしながら、頭の中は好位置を確保することで一杯で、ひとたびキープすれば、飛ばされぬよう、シートの四隅に荷物を置くか、即座に楔を打ち込む。日頃からノホホンとしている私は、この一瞬でほぼ一年分のアドレナリンを放出する。
体育祭が始まる前からこのような状況なのに、さらに極限のストレスを感じるのがビデオ撮影である。
観覧席の前に背の高い男性などが前にいようものなら、もう、何も見えないし、わずかな隙間から録ろうにも、前の父兄たちが興奮して右に左に動くせいで、ろくに子どもたちの顔も撮れない。ベストショットなど夢のまた夢である。ようやく「良い表情」と思ったら、人の手や膝が映り込んでいた、なんて日常茶飯事だ。そもそも、日頃からカメラやビデオに慣れているユーザーならまだしも、ほぼ素人が撮影するのだから、奇跡のような一枚が混じっているであろうことを期待するしかないのだ。
子どもの活躍は目に焼き付けるのが一番、ファインダーなど覗いていてはナンセンス。
確かにそのような父兄もいる。しかし、私には、そう自信満々言い切れる度胸はない。
ところで、 私は、このあまりに理不尽な席取りに腹を立て、一度、二㍍ほどの脚立を購入し、家族席の後ろに堂々と、そして悠々と、戦国武将のようにステップの頂上に座り、望遠レンズで写真家もさぞや、と思えるようなショットを撮りたい、と真剣に考えた。だが、体育祭の翌週にはその怒りも収まり、いつの間にか次の体育祭がやってくるのである。
怒涛のような席取りが収まり、子どもたちの出番が終わると、ようやく心にゆとりが持てる。それからはグラウンドをぐるぐると巡りながらのファッション観察だ。
運動会では、バトルモードとも呼べるほど、ブランドのシフォンワンピースを着込み、ビーチハットを被り、サングラスで極めているママたちも少なくない。もちろん、カジュアルな方々が大半なのだが、ユニクロのオーバーサイズTシャツにイージーパンツの身からすると、羨望の目で見るしかない。どうすれば、そのような心の余裕が出来るのだろうか。
ある人生の先輩が言っていた。
「人間、おしゃれしたい気持ちがあるうちが花だよ」
身につまされる言葉ではある。ただ、体育祭だけはその範疇から除外してほしいものだ。
さて、午前中の競技が一段落すると、その後は家族団らんの昼食となる。
手塩をかけたお弁当を各自食することになるのだが、ここにも家族の考え方や背景が色濃く反映され、たいへん興味深い。
もちろん、手がかかっていようがいまいが、どの家族にとっても其々が最高のお弁当である。しかし、ときには正月のおせち料理もさぞや、と思わせるような漆の重箱に詰められた極彩色の料理を見ると、心にさざなみが立つ。
と、縷縷、さんざん嫌味なことばかり述べ立てたが、やはり、体育祭では元気な子どもたちの姿に触れ、自らも活力をもらい、ともにグラウンドで食事をしながら健闘を称えるのが親たちの特権である。
競技の順位や、どの色が勝ったなど、親にとっては二の次で、懸命に走る我が子に、つい涙してしまう。
何でもそうだが、楽なことで印象に残る思い出というのは少ない。苦労があるからこそ、その後の楽しみもあるのだと思う。
「子育てなどあっと言う間よ」
先輩たちが語るその言葉を私もいつかは口にすることになるのだろう。