海の怪物
目の前には大海原が広がっていて、何ものも遮るものはなかった。天気は最高に良い。一艘の大型船が航行していた。
「船長! 前方に何か大きなものがあります!」
突然、望遠鏡を覗いていた乗組員が叫んだ。
「大岩か?」
「いいえ、違います!」
「では大きなクジラか?」
「いいえ、違います」
「それでは、敵の船か?」
「違います!」
「では一体なんだ?」
乗組員は答えない。
「おい! 一体なんだ!! 答えぬか!! この腰抜けがっ!!」
船長は立派な髭をひくひくさせ、唾を撒き散らしながら怒鳴った。すると乗組員は呟いた。
「何もない"孤独"という怪物です」
船長ははっとした。
そして顔が青ざめた。
大海に取り残されたものにとって恐ろしいものとは、唯一"孤独"なのだと。
我に帰った途端に、乗組員も船もみんな泡のように消え去った。ただ一人の男が船の残骸にしがみついて、海面を漂っていたのである。
何故だ、何故だ。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
男はちっぽけな頭を一生懸命に働かせてみたが、全くといっていいほど何の考えも出てこなかった。
ふと彼は自分の手の甲を見た。思っても見ない程しわくちゃになっている。
!!!
もう一度しみじみと自分の手を見て、握ったり開いたりをしたが、やはり自分の手に間違いなかった。
長い間、水に浸かっていたからだろう。
そう思った。
遠くの水平線に黒っぽいものが見えた。船に違いない。きっと助けにきてくれたのかもしれない。
希望が見えた。
黒いものはだんだんこちらへ近づいてくると、その姿かたちが分かった。
船ではない。
黒い靄だ。
何かが変だ。
靄の中にさらに海が見えた。それも荒れ狂った海が。稲光がして大雨も降っている。よく見るとその中に、一艘の見慣れた船を見つけた。
私の船。
大型船だったその船は、靄の中ではミニチュアサイズになっている。今にも転覆しそうな勢いで左右に大きく揺れていた。
太陽の光が燦々と照らされた海面に突如として存在した荒れた海。男は夢想家の如く眺めていた。
船の甲板で複数の乗組員が何やら揉めている。こんな時には喧嘩でもあるまいと思って見ていると、一人の男が乗組員に小突かれて船の突端にまで追いやられている。危うく落ちそうだ。
裏切り者!
どこからともなく声がした。
靄の中から声が聞こえる。
裏切り者! よくも俺たちを騙したな!
お前は船長なんかじゃない。これは奴隷船だ。
楽園のようなアイランドで悠々自適に暮らせるなんて言っていたが、本当は俺たちを死の島へ売る気だな?
それなら俺たちはこの荒海で死のう!
奴隷になるくらいなら、愛する海で死のう!
その代わりお前が先に行け!
俺たちを騙した罪だ!
何人かの乗組員が船の床板を叩き壊すと、それで船長の男を突き飛ばした。
待っていたとばかりに大口を開けた真っ暗な海が小さな男を飲み込んだのである。
これは一体なんだ?
何を見せられているのであろうか?
次第に心臓の鼓動が弱くなっていく。男の頭がようやく働き始めた時には手遅れだった。どこからともなく流れてきた人の骨が周囲にプカプカ浮いていたのである。
男はせせら笑った。
とうとう着いてしまったのだから。
奴隷船が向かうはずだった死のアイランドに。
***
私が男の最後の叫びを聞いた時には、地平線に美しい夕日が沈みかけていた。
綺麗だ……。
???
一羽の鳥が物凄い勢いでこちらへ向かって飛んでくると気付いた時には、もう遅かった。
鳥に見えただけのそれが。