第1話
重々しい雰囲気が、あたりに漂っている。
俺は、とある城の一室、おそらく会議室であろう部屋の中、椅子に座って相手を待っていた。
城といっても、豪華できらびやかなものとはかけ離れた環境だ。部屋の外からは何者かの唸り声が響き、獣臭さも感じられる。ここに来るまでに見た白い物体。あれが人間の骨でないことを祈るほかない。
人間を襲い、食らう。力こそすべての世界。この城は、とある魔物の城なのだ。
そんな空間に、人間である俺が存在しているという異常。誰よりも俺自身が、その以上を肌で感じている。
「どうやら緊張なさっているようですが、ここまで来たなら覚悟を決めてください。」
不意に、後ろから声がかけられる。俺に同行してくれた、女性の声だ。
スーツ姿に眼鏡、凛とした佇まい。いかにも、仕事ができますといった風の女性だ。この物々しい雰囲気の中、唯一俺の味方をしてくれるであろう存在。正直、こういったタイプの女性には苦手意識を感じるが、今この瞬間だけは、もっとも心強く、安心できる存在である。頭の角と尻尾さえなければ、もっと安心できたのだが。
俺の返事を待たずに、彼女は続ける。
「覚悟を決めなければ、あなたはこのまま死ぬだけです。あなたの命は、魔王様が握っていることを忘れないでください。まあ、このまま相手の気を害して殺されるのも一興ですが。」
……前言撤回。どうやら、ここに味方はいないようだ。
なぜこのような事態になっているのか。どのような経緯を経て、今俺がここにいるのか。
目的の相手が来るまでの間、少し思い返すことにする。
これが、最後の回想とならないことを祈りながら。
日比野 正。36歳。男性。
職業、サラリーマン。
日々の仕事は、資料を作り、商談を行い、契約を取り付けること。
相手の話を聞き、相手が何について悩んでいるのか、何を必要としているのか、それに対して自分たちが何をしてやれるのか、自分たちが持っているものと、相手の求めているものは何か。それらを考え、調べ、まとめ、再び話し、それを繰り返す。
楽な仕事ではない。資料を作るのに夜を明かしたこともあるし、相手から散々なことを言われることもある。けれどそんな中で、相手が納得いく成果を上げ、満足そうな顔をして帰っていくのを見て、ひそかにガッツポーズをとる。
そんな、ひそかな幸せを噛みしめながら、再び仕事に戻る。そこそこの地位につき、上司からいびられ、部下の面倒を見て、ひたすらに仕事に打ち込む。
自分の自己紹介をする上では、この程度しか語ることはない。大した趣味はなく、休みはただ寝て過ごす毎日。そんなうだつの上がらない自分に嫌気がさしたのか、家族は俺を置いてどこかに行ってしまった。
このまま仕事に追われ、一生を終えるのであろう。そんなことをなんとなく考えていたある日のこと。
気が付くと、目の前に魔王が現れた。
正確には、俺が魔王のいる空間に移動したのだということにあとから気が付いたのだが、当時の俺はそんなことを考える余裕もなかった。
いつも通りの日々を終え、今後のプロジェクトのことをなんとなしに考えながら家に帰っている途中。夜にもかかわらず急に回りが明るくなり、思わずそのまぶしさに目を閉じ、再び目を開けたとき、魔王が目の前にいたのだ。
座っている状態でもなお見上げるほどの大きさ。漆黒のローブを身にまとい、顔はどくろの仮面でおおわれている。一目見て、RPGでいうところの魔王だと感じたし、実際にその通りだと後から知ることになる。そのすぐそばには、角の生えた魔族(?)の女性が控えていた。その冷たい瞳からは、何も感じない。ただ興味のないものを見る目だ。
「人間どもが……」
唐突に魔王が語りだした。どうやら言語は通じているようだ。なんで通じているのかはわからないが。
「我を倒すために、どうやら異世界から人間を召喚する儀式とやらを行っていると聞いた。自分たちの力ではどうしようもないから、別の世界の人間を頼ろうとは、他人任せも甚だしいが……。」
独り言のようにつぶやくが、内容はこちらにも聞こえてくる。聞こえては来るが、内容が頭に入ってこない異世界?召喚?
……これがうわさに聞く、異世界転生?
「発想自体は興味深い。いったいどのようなものが召喚されるか、ぜひとも見てみたい。そう思って、わが能力<<スキル>>を持って召喚してみたが……。」
そこでひとたび、沈黙が訪れる。いまだに頭の整理が追い付いていないが、少しでも現状を理解しよう、そうやって頭をフル回転させていた。
が、それをかき消すかのように、魔王は口を開いた。
文字通り口を開き、部屋内に響き渡るほどに声を上げ、笑い出した。
「ぐははははは!なんとも愉快なものだ!召喚されるのは、何の力もスキルもない、ただのひ弱な人間ではないか!こんなものを召喚して我に対抗しようなど、笑う以外にどうすればよいというのだ!」
そういってしばらくの間、魔王の笑い声が部屋中にこだました。この部屋の中には、魔王とそばに控える女性、そして自分しかいない。遮るものもなく響き渡るその声には、愉快だという割には呆れや怒りといった感情が混ざっているようにも感じた。
こんな召喚しかできない人間への呆れと、こんな召喚で自分をどうかできると驕っている人間への怒り。
あくまでも直観ではあるものの、魔王が人間に対してどのように考えているかを少しだけ理解した。
この魔王にとって、人間という種族は脅威でも何物でもない。うっとうしい虫程度にしか思っていないのではないか。
そうなると、目の前にいる虫は、どうなるか……?
そこまで考えを巡らせたあたりで、魔王の笑い声は収まった。再び沈黙に包まれるが、やがて、魔王は再び口を開いた。
「腹が減ったな」
そのあと何を言ったのか、正直あまり覚えていない。
正直自分は、自分の命に関してあまりにも無頓着だった。ただ何となく生きて、なんとなく死ぬ。もし仮に自分の命が失われることがあっても、自分はそれを自然に受け入れるだろう。なんとなくそんな風に考えていた。
だが、実際のところ違ったようだ。命の危機を感じた自分は、とにかく必死に命乞いをしていたように思う。自分は何者か、自分はなぜ生きたいのか、自分はどのように役に立てるか……自分でもみっともない、情けないと思えるような命乞いを、思つく限りにただ必死に喚き散らしていた。
魔王はただただそれを見ていた。仮面越しからもわかる、呆れ、哀れみ、苛立ち、無関心。
魔王が指をトンと一度、ひじ掛けに打ち付けた。その動きだけで、俺はわめくのをやめ、固まってしまった。
それと同じくらいの動作で、彼は俺を殺すことができる。ありありと自分の死を想像することができた。
再び静寂は訪れる。1秒後には自分は灰になっているかもしれない。それとも、そんなことを考えている間に俺は死んで、死んだことも自覚できないままにその場にいるのかもしれない。
静寂はほんの数秒だったように思うが、一生分もの時間がたったようにも感じられた。
そんな静寂を破ったのは、俺でも魔王でもなく、何かの鳴き声だった。
部屋の外から、鳴き声が聞こえる。それと同時に、何やら地響きが聞こえてくるのも感じられた。
「……ふん、また面倒なのが来たな。」
そういうと魔王は、自らの席から腰を上げた。改めてその巨大さに驚愕する。ゆうに3mは超えるだろうか。
魔王は俺の横をそのまま通り過ぎ、部屋の外へと出ていこうとする。
「魔王様」
魔王のそばに控えていた魔族の女性が、そう呼びかけた。
「このものはいかがなされますか?今この場で私が殺しておいても?」
そういって、俺の方を見つめてくる。殺意は感じられない。否、彼らにとって虫のような存在なのであれば、殺意を抱く方がおかしな話なのだが。
「そんなもののために、いらぬ体力を使うな。それより、お前も準備をしろ。今の我だけでは奴らの処理をするのは少々面倒だからな。」
魔王はそのように答えると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
魔族の女性は俺のことを一瞥した後、そのまま俺のことを置いて、部屋を出て行ってしまった。
部屋には、俺一人が取り残された。
部屋自体はしんと静まり返っているが、部屋の外、いや、この建物の外から、何か音が響いてくる。人間ではない何かの雄たけび、爆発音、地響き—。察するにこれは、戦闘音なのだろうか。
何が起こっているかわからないが。どうやら、助かったようだ。
そういって、胸をなでおろす。
なでおろした後で気が付く。俺はこの後、どうすればいいのだ?
いつまでもここにいるわけにもいかない。魔王たちが帰ってきたら、間違いなく殺されてしまう。
かといって、ここを出てどこに行く?まったく知らない土地、全く知らない世界だ。行く当てが全くないのだ。
さらに言うなら、今は外ではおそらく先頭の真っ最中だ。少なくとも建物から外に出るわけにはいかない。
でもここにいてもやばいのは変わらないわけで……。
「と、とりあえず、この部屋から出てみるか……?」
もしかしたら、この建物の中で隠れられる場所があるかもしれない。そこで隠れて、今後どうするかを改めて考えよう。
そう考え、部屋の扉に向かう。
その重厚な扉には、何やら紋章のようなものが彫り込まれている。これは、何か魔術の類なのだろうか?そういった知識は全くないから何もわからないが、とりあえず開けることはできそうだ。
重そうな扉を、思い切り引いてみる。どうやら人間の力でも開けられる重さのようで、少しずつ、外の様子が見えてきた。
目が合った
扉の外には、今まさにこの部屋をのぞき込もうとした何かが、そこにいた。
先ほどの魔王と同等の巨大さを持つ、一つ目の魔物の目がこちらをとらえていたのだ。
一つ目の魔物は、その巨大な口をにやりとゆがませ、次の瞬間、巨大な咆哮を上げた。
衝撃波、というものを初めて体感した瞬間だった。
俺の体は音の壁によって後方の壁にたたきつけられた。
驚いたり、自明を上げたりする間もなく、そのまま俺は、意識を失ってしまったのだった。
どれほどの時間が経過したのだろうか。
俺の意識は、少しずつ戻ってきたのだろうか。どうにもふわふわした感覚だ。
頭はぼんやりしたままだが、うっすらと明けた視界には、見覚えのある景色が飛び込んでくる。
やわらかいソファの感触。真っ白い天井に、ほのかに灯る電灯。
ああ、そうか、ここは俺の家だと直感する。
なるほど、先ほどまで、どうやら俺は、悪い夢を見ていたようだ。
そのまま体をゆっくり起こし、あたりを見回す。質素ながら使い古された机に、お気に入りの絨毯、少し大きめの棚に、過去の旅行で買ってきたお土産の数々。間違いなく、我が家のリビングだ。
ふと、香ばしいにおいが鼻をつく。これは、キッチンからか……?
そうか、昼寝をしてしまった俺に代わって、誰かが料理をしてくれているのか。なんともありがたいことだ。
立ち上がって、キッチンに足を向ける。お礼の一言でも言ってやらないと。
俺のために頑張ってくれているんだから。
いつも一人で頑張っている俺のために。
……一人で頑張っている?
そうだ、俺、いつも一人だよな?
実家を離れ、一人暮らしのはずだ。
誰が俺の代わりに、料理をしてくれているんだ?
そんな疑問をよそに、キッチンへと近づいた。やわらかで優しいにおいが、俺のことを包んでくれる。
そこに立っていたのは―
「いい加減目を覚まさんか。」
ぞわりと、背筋が凝ってしまいそうなほどの低音が、俺の意識を覚醒させた。
石造りの堅い床の感触。あたりに漂う獣臭。洞窟にでもいるかのような、じめじめした空気感。
そして、それらをかき消してしまうほどの、強大すぎる存在。
俺が目を覚ますと、目の前には、漆黒の衣をまとう魔王が、目の前に立っていた。
あまりにも現実離れしているその存在が、逆にこれが今の俺の現実だと、否応なくそう思わせてきた。
「……目を、覚ましたようだな。」
そう、再び魔王は口にする。
あたりを見回してみると、この部屋には俺と、魔王しかいない。
すなわち、これは、俺に対する問いかけである。
俺のことを虫のように殺せる存在からの、問いかけ。
誤った答えを出せば、それはすなわち……。
「………………お」
俺が選んだ言葉は。
「お、おはよう、ございます……。」
あいさつ、だった。
日常や仕事で常日頃から行っている挨拶。危機的状況だと理解しながらも、これしか頭に思い浮かばなかった。
「……」
しばし、沈黙が流れる。これは、正解なのだろうか?それとも、俺のさらなる反応を待っているのだろうか?このまま黙っていた方が正解なのか?挨拶以上に話すべきこと?下手なことを言ったらその場で死ぬ?
仮面の奥の瞳は、俺にどのような感情を向けている?
「……お前は確か、我に言ったな。必ず役に立って見せる、だから殺さないでほしい、と。」
魔王が、再びそう問うてくる。
……そのようなことを言ったのだろうか、あまり記憶にないが、おそらく必死に命乞いをしている間に、そのようなことも言っていたのだろう。
俺は、必死に首を縦にする。情けないが、そうでもしないと助からない。
「……ならば、我がお前に使命を下そう。」
「お前の能力を持って、一つの戦争を、終わらせてみよ。」
魔王から俺に課せられたあまりにも無理難題なこの使命。
これが、魔界の中で「交渉人」として生きることになる、俺の初めての使命になるのだが。
この時の俺は、まだ知る由もなかった。