ある男の寂しい美徳の話。
こういう中途半端な奴はどこへ行っても嫌われるとか
「あいつのこういうところが気に食わん」と
見下して自分の二足歩行を安定させようとした彼らの
害ある気持ちと、それに加害した言葉というものを、
私はいつか負かしてやるんだと
一人で顔を真っ赤にして
業務スーパーの先頭で
「脆いやつです」という膨れ上がった代名詞をおでこに貼って
今日も心の返却を待っている
私は地元の小さな公民館のようなところで絵の講師をやっている。
と言っても、規模的な話、本当に小さく、片手で収まるほどの人数しかいない。
生徒層はだいたい40代、50代といったところで、
最大のニュースと言ったら、最近小学五年生の林君が入会した程度である。
一人周りと席を空けて座っている林君に関して言うと、彼は本当に腹立たしい少年だ。
一言で表すと、「なにもない」のである。彼の絵にはまるで伸びしろがないのだ。
彼には若さゆえか一人神童のような雰囲気を漂わせていた。
難癖をつけようと思えばいくらでもつけることができるだろう。
私はそれをしないが。
安直に言葉にするなら「上手」である。しかし、私は彼の絵にいつも心をえぐられ、頭の中では言葉にならない
「ああ」という理解と諦めが際限なく走り回っていたのも事実であった。
多分、彼は持っているという人間ではないと思う。絵の世界で選ばれ評価されるのは、そこにたどり着くような人生設計ができ、飛び込んでいける根性と環境が必要不可欠だからである。
彼にそれができると思っているわけでもない。
だが、多分、おそらく、彼にも無理だ。いや、本音を言うならば、無理であってほしい。
私のように。
私も幼いころからずっと絵をかいていた。淡々と、日々を供養していくように、何かぶつけていくように。
誰かは言うのだ。私が何もできないということを。ただ一人で感情をこめて、新しい画風の奴を見下し、
ほんとに、ずっと一人で生きているなって
気付いたころには、描きたかったものも私の元から離れていった。
誰かに勝つために、新しいを生む、赤くて派手なものが、芸術といわれるものだ、それが正しいのだと、その価値観にすがるように、私は一人で「芸術」という観念に溺れてしまった。
案外脆かったのである。人一倍自分の信念を持ち続けようと進んでいる間に、出来上ったモノは、作り物ではなく、何か違うもの、
悪魔のような、ひねくれた報われない孤独の宗教を称える、かなり芸術の定義と引きはがされてしまった、
私個人だけの「成功者のぞき見防止フィルター」へとなり替わっていたのである。
話はかなり脱線してしまったが、私に埋め込まれたストッパーが、彼を見て尊敬とともに
私と同じように失敗をたどれなんて考えを破棄しきれていない事実があるのだった
しかしすべては私の頭の中で起きていること。
一人でから回っている、無邪気な動機で無邪気にスタートを切った奴らとはまるで異なる、無邪気な人の羽を毟る「負けモノ」だと感じている
すべてを言い訳にしてきた私からすると、林君のようなきれいなタイプ、万人受けしそうな「一般人も理解できる悲哀」のエキスを織り込んだ絵を描く人間は、
自分の今までに加害する物質という説明で事足りる。
時間は戻ることはない。汚い視線で私の何かが現れる。
いつか自分の破滅なんてもんを、月明かりの下でシニカルに俯瞰するもう一人の自分に、美徳を感じてしまうだけなのだ。
これが、失敗すら歩めなかった、怠惰に何かに打ち込んできたくせに、自分をなすものが少ないがために自分の周囲のモノを死守し空回り変な美徳を持ち続けることになる私の紹介だ
もし反応が少しでもあれば話を広げていくつもりです。
未熟で途中書きなぐりながら、これは何なんだろうと考えていました。
お目通し、ありがとうございます。