おひさしぶりです、クレドさま
春が来た。
真っ白な世界を穿って雪割草が覗いていたと思ったら、続いてセイヨウミヤコグサやすみれが咲き初める。
雪は溶けて流れ、小さな流れを作る。
その流れの水は一見清冽で、森をよく知らない連中はうまいうまいと言って口にするのだが、森に出入りする人間はそれを黙って見ている。
イノシシのヌタ場が上流のほうにあるのを知っているのだ。
もちろん、クレドもそれを知っている。
小屋の裏の水場は、昔ここに領主の狩場があった名残だった。小さな崖の斜面に露出した水脈に、スズの管を挿してここまで引いたもので、寄生虫や動物の糞尿による汚染の心配はなく安心だ。
ただ、冬は管が凍り付き、使えなくなる。
冬の間、ずっと雪を溶かしたまずい水で暮らしてきたクレドには、この湧き水は春の訪れの味だった。
クレドは生業を持っていなかった。
十四歳ともなれば、少年とはいえ成人の日も近い。
村へ下りて人々の憐憫を買い、畑仕事や家畜の世話の手伝いができたのだろうが、クレドにはそういう才覚はなかったし、村人のほうも彼が畑に立ち入ったり牛馬に触るのを激しく嫌った。
身寄りのない少年、孤独、そういう言葉がやたらと似合わない不遜さ。
何か見透かすような目つき。
静かに侵蝕するような奇妙な雰囲気。
そういったものが、素朴な村人たちに不気味さを感じさせている。
魔とつながりがあるものが農地へ入れば不作となり、家畜に触れれば不妊となるという言い伝えを皆信じ込み、クレドが村へやって来て買い物をする時も、目を見合わせようとはしない。かといって、呪われるのも怖いのでこの不吉な雰囲気のあるガキの要求はほどほどのところで呑み、代金は教会からもらった聖水の器に受け取って、しばらく浸してからやっと財布にしまう。
クレドはクレドで、それは異常なことだと認識していない。
王都で暮らした幼い日々、母親とともに軟禁されていた。窓から見る往来は賑やかで、たまに祭りのパレードや、家畜のようにぞろぞろと奴隷を連れて歩く商人や、朝貢の行列なども見えたが、遠い世界のことだった。食事や衣類の世話をする数人の奉公人とたまにやってくる父親以外には人としての接触をしていない。母親と逃亡生活が始まっても、人と接するのは生きるために必要な最低限の買い物程度だった。それも母が彼と他人のと間に壁のように立ちはだかってのことで、二年前の母親の死で、やっと一念発起して自分で人に話しかけることができるようになった。彼にとっては好意的な笑顔を作って、人と話すことだけで精一杯なのだ。
鳥が鳴いている。
少し前まで人里に下りて囀っていたが、春が深まって森へ戻ってきたようだ。営巣して、卵を産む季節の到来だ。
クレドの仮寓である小屋の前は少し開け、心持ち見下ろせる傾斜がゆるく、起伏を描きながら長く続いている。
そこが柔らかな若草で覆われ、黄色や白や紫の花がつつましく咲いていた。
森では見られないはずのウマゴヤシやクローバーも群生を作っている。それもここに森番がいて領主がオオカミ狩りをしていた頃の、馬の忘れ形見だった。
クレドは小屋の前のデッキに粗朶や薪の束を運び込み、干していた。小屋の裏の軒下にいつも置いていたが、陽がよく当たるデッキに置いておくとよく乾いて火が付きやすくなる。
彼は ブーツを履いた足を無造作に投げ出して、その薪の山に寄りかかって座っていた。
申し訳程度のぺらぺらした皮を表紙につけて紐で綴った、粗末な作りの本を読んでいる。ちょうど手元まで軒の陰がかかる頃合いで紙が陽光を弾かず、具合がよい。
彼が手にしているのは、母親が寝食を惜しんで知識を書き記した亜麻紙を閉じたものだった。
クレドの記憶にある母は、いつも文章を書き記しているか、何かへんてこな空想のをやたらと真剣に説明しているかで、その手はいつもインクで汚れていた。
そうして生まれた母の文章は、おそらくクレド以外の誰にも読めなかった。
ところどころペンが引っかかってインクが激しく滲んでいるところもあるが、それは問題ではない。
まず言語が違う。
どの語系とも違う奇妙な言葉でそれは書き綴られている。母からみっちりと、彼女の生まれ故郷の言葉を仕込まれたはずのクレドにすら、何を意味しているのかちんぷんかんぷんなところが多い。息子に伝えたいという強い意志がこもっていることは確かで、母親はところどころに注釈や奇妙奇天烈な図を挿している。しかし、悲しいことに、彼女の息子には理解できる気がしない。
最期の最期まで母はペンを離さず、ただ彼のためだけにこの膨大な冊数に及ぶ知識の集積を記し、わからなくてもいいからすべてを読めと言い遺して死んでいったのだった。
――私がわからないと言ったら、母上は悲しい顔をなさっていたな……
何度も読んできた、赤い顔料で重要と記されたページ。
そこにあるのは人の頭の内部に、小さなアリのようなものが無数にたかっている絵だ。そのアリに似たものの拡大図が横に書かれていて、木ねじに昆虫の脚が付いたように見える。注記には「ファージによる増殖、共生融合」「第一世代長子への母系完全転移を認めた」と読めるが、まったく意味がわからない。
わからないなりに、何か惹かれるものを感じる。
母はこの世に生きるという能力は欠落していたが、息子のことは己が身以上に愛していた。だから、彼に伝えたかったものはおそらく彼の人生に資するものに違いない。
ひとしきり読むと、彼はあくびを一つした。
実にいい陽気の昼下がりだった。
肩にかけたショールの毛羽があるかないかの微風に揺れ、柔らかく光が憩う。
濃い睫毛を縁に生やした、肉の薄い瞼が目に覆いかぶさってくる。
――ああ、春はやっぱりいいな……
クレドは完全に寝入ってしまった。
小屋の前の、緩やかな傾斜。
そこに一本通る小道にはやっと羽化した小さな蝶がまばらに飛び交い、春の精霊でもスキップしていそうだ。
その起伏のある小道にもこもこと、少し汚れた白っぽいものが覗いた。
ガチャガチャと耳障りな、金属の触れ合う音もする。
それはだんだんと近づいてきた。
白っぽいものが斜面を登ってくる様子は、ごつごつした巨大なアミガサタケがにょきにょきと生えてくるのに似ていた。
がらがら、かちゃんがちゃん。
カウベルどころではないやかましさと同時に、それはとうとう全貌を現した。
やってきたのは、豊かな青灰色の髪をふわふわと長く垂らした子供だった。
五歳くらいの女児に見える。
植物のあくがしみになっている白い大きな布は、馬車の覆い布のようだ。そこに何かを一杯に詰め込んで包み、肩に背負っている。
その包みの大きさときたら!
背負っている子供の優に四、五倍はある。
腰にも、ブリキのバケツややかんなどをくくりつけ、がらがらと鳴らしている。
それを、この子供は重労働の陰もなく、物見遊山のような軽い足取りでにこにこ運んでいる。
身に着けているのは、村の子たちが下着として付けている白いシュミーズと短いドロワーズで、まだ季節的に早すぎる。
しかし、服装的ないでたちよりも気にしたほうがよいところがあった。
この子の頭には、尖った大きな、ラシャのように分厚い耳がある。
小さな尻を覆うドロワーズの後ろにはスリットがあり、そこからふさふさとしたした尻尾が覗いている。
どう見ても、人間の形態をとっている、幼い人狼のメス個体だった。
「おひさしぶりです、クレドさま」
彼女がデッキの床束の下から明るく挨拶しても、、小屋の主は全く目を覚ます様子がなかった。