第9話 イレイザー
ある日、悟空は六人の義兄弟を招いて大宴会を催し、したたかに酔っ払ってしまった。松の木陰でうたた寝していると、語りかけてくる者がいる。
「孫悟空だな。こっちにこい」
目の前に立っていたのは肌の真っ青な一本角の鬼と、真っ赤な二本角の鬼である。二人は寝ぼけ眼の悟空に捕縄をかけるとぐいぐいと引っ張りはじめた。ベロンベロンに酔っている悟空は引きずられるままにされていた。
やがて、岸壁が見えてきた。そこには馬鹿みたいに沢山の鋲がうたれ、ガビガビに錆びた巨大な鉄の門がはまっている。門扉の上にはこれまた鉄の板がはまり、“幽冥界”と大書きされていた。
「うぉい!どういう事だ!」
「うわ!起きた!」
酔いの醒めた悟空は二人の鬼を睨みつける。
「幽冥界ってのは、閻魔大王のいるところじゃねえか!」
「いかにも。あなたの寿命は尽きたのだ。閻魔大王の前で生前の罪状を洗いざらい吐くように。なお、黙秘権はない」
「俺様は先生のとこで……ゲフンゲフン……いや、独力で悟りを開き、三界や五行の軛から逃れたのだ!死ぬわけないだろ」
赤鬼が懐から紙を出す。そこには「死亡通知 孫悟空」と書かれていた。
末尾には閻魔大王の職印が押されている。
「こういうわけですので、諦めてください」
青鬼がぐいぐい捕縄を引っ張る。
悟空は唸り声とともに捕縄を引きちぎり、耳から如意棒を取り出した。
ひと振りすると如意棒はお椀程の太さになった。
悟空は青鬼の頭上から如意棒を振り下ろす。
両手足を残して青鬼はぐちゃぐちゃの肉塊になってしまった。
赤鬼は悲鳴を上げて逃げ出した。
悟空が如意棒をひと薙ぎすると、赤鬼の上半身が血煙とともに消し飛び、脚だけが数十歩走ってからどうと倒れた。
悟空は幽冥界に押し入るや、如意棒を縦横無尽に振り回し、目につく燈籠やら石塔やらを片っ端から粉々に打ち壊した。
赤青の大小の鬼たちはこの回転する暴力装置に怯えて逃げ惑うばかり、責苦にあっていた亡者たちは獄吏たちがいなくなったので歓喜の声を上げて入り口に殺到している。
やがて城に突入し、赤い敷物の敷かれた大広間に出た。
玉座に座っているのは、冕冠を被り、金糸の刺繍に彩られた黒い袍をまとう、朱色の顔の男である。
「無礼者め!牛頭鬼、馬頭鬼、とっとと片付けんか!」
身の丈三丈はあろうかという大鬼が二人、片方は牛の頭で
巨大な金槌を持ち、もう一方は馬の頭で極太の金砕棒を持っている。
悟空は、すかさず如意棒で馬頭鬼の顔をついた。
顔をかばったその手ごと如意棒は馬頭鬼の側頭部を貫通する。
如意棒を振りぬいて後方にぶん回すと、金槌を振り下ろさんとしていた牛頭鬼の首が打ち飛ばされた。
冕冠の男、閻魔大王は、朱い顔を青くして、この猿の怪物を見ている。
悟空は怒鳴る。
「無礼はどっちだ。死なない身体になったはずのこの俺様に捕り方なんぞ寄越しやがって」
「と、捕り方共が間違えたのでございましょう。よく叱っておきます」
悟空は如意棒でドンと床を突く。
「下っ端に罪を押し付けるんじゃあない!俺様が直接間違いを正してやるから、住民台帳をとっとと持ってきやがれ」
獄卒達が慌てて“生死簿”を持ってくる。これは生きとし生ける者の寿命や死因が書かれている、地獄の秘文書なのだった。
悟空は魚類、両生類、爬虫類、鳥類の頁などをペラペラめくっていき、ついに哺乳類の欄に霊長類を見つけた。
人間の欄に悟空の名前はなく、猿の中のマカカ属とやらの欄にこう書いてあった。
「孫悟空、齢三百四十二歳、急性酒精中毒にて卒す」
悟空は獄卒に筆と墨を持ってこさせると、その名前を消した。
ついでに花果山にいる猿の名前も全部消してしまった。
「ああ、とんでもない化物が不死身になってしまった」
頭を抱える閻魔大王を尻目に、意気揚々と城から出た悟空。
浮かれていたためか、叢に脚を取られてこけてしまった。
「大王様、大王様」
気がつくと悟空は松の木の下で家老の白猿に揺さぶられていた。
「お、おお……夢だったか」
「大いびきをかかれていると思ったら突然呼吸が止まり、慌てましたよ。睡眠時無呼吸なんちゃらで亡くなったかと」
この一件、夢にあって夢にあらず。
この日から花果山の猿は木から落ちたり海に流されたりしても、夢の通りに死ななくなってしまったのである。
悟空達が永遠の春を謳歌している頃、閻魔大王は仏法界にこの件を相談しに行っていたのだが、それはひとまず置いておく。
地獄に行ったとなれば後はまあ天国に行くしかない。そのいきさつについては次回に譲る事とする。