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第5話 さよならだけが猿生だ

 あの日の夜以来、須菩提祖師は悟空へ深夜に修行を施すようになった。修行の内容は主に呼吸法により、大気との一体化を目指すものであった。一年あまり経って、ある日の夜、祖師は悟空に言った。


「基礎は終わった。さあ、飛んでごらん」


悟空は目を瞑り、風と融け合う自身の姿を思い描いた。

悟空の脚はやがて地を離れ、はるか宙空に浮き上がった。手足をじたばたさせながら悟空は叫ぶ。


「やった、出来ました!これが師匠の仰っていた騰雲とううんの術ですね!」


祖師は腹を抱えて笑い転げる。


「ハハハハ、馬鹿を言え。そんな不格好な騰雲の術があってたまるか。どれ、見本を見せてやる。降りてこい」


悟空が素潜りの下手くそな童子のような有り様で地上に降りてきた。

悟空が腰を降ろすと、祖師は見えない階段を登るようにまず右足を上げた。

すると小さな雲が右足の下に現れた。左足を上げるとそちらにも小さな雲。

もう一段右足を上げると、雲の階段が出来上がり、三段目に両足を乗せると階段は水平の雲のうてなになった。

雨一つ降らなさそうな、穏やかな雲である。

祖師が山の向こうを見やると、雲はその方向に祖師を乗せて飛んでいき、一瞬で見えなくなった。

その後、数十秒すると元の位置に戻ってくるのであった。


「これが騰雲術じゃ。これを極めれば朝は北海に遊び、

夕は蒼梧に帰る……つまり、一日に地上を一周できるというわけじゃな。やってみい」


悟空も真似をしてみるものの、脚の下に雲が出来ず踏み外して落ちたり、雲の階段同士がくっつかず、とにかく上手くいかないのであった。


「これは、階段を登るという動作がお前にとって不自然だ、という事であろうの」


祖師の言葉に悟空は悔しそうに言う。


「確かに普段は跳んで段を飛ばしながら登ります」


「お前の慣れている動作をやってみい」


悟空は弟子入りをした最初の日のように、バク宙をした。

すると落ちてきた悟空の脚は地につかず、雲の上に乗っているのだった。

その雲は祖師の乗るものと違って、荒々しく逆巻いている。


「ほう、雲に乗るのに觔斗とんぼがえりとはお前らしいの。觔斗雲きんとうんの術、とでも言ったところか」


悟空は觔斗雲に乗ったまま地平線の彼方を睨んだ。

觔斗雲はぐんぐん進んでいく。

見たこともない険しい霊峰、どこまでも広がる大洋、赤く聳える巨大な一枚岩、黄金の絨毯のような砂漠。

そして、再び須菩提祖師の道観に戻ってきた。


「すごい、これが空の道の極意なのですね」


「ふん、こんなのは触りじゃ、触り。“三災”を避ける術を持たねば、こんな術もいつかは死とともに失われるのじゃからな」


悟空は雲から觔斗して降りる。


「三災とはなんですか」


「雲に乗る程の術者であれば、自身の魂を自らの意志で肉体につなぎとめる事ができる。しかし、天の摂理はそれを許さない。五百年後には天雷てんらいがお前を打ち砕く。それを避けたとしても、更に五百年後にはお前はひとりでに発火して燃えかすになる。これは陰火いんかといって、消そうにも消せぬ火じゃ。それを上手くやり過ごしても、更に五百年後、贔風ひふうと呼ばれる恐ろしい風がお前の身体を一番小さな単位になるまで分解してしまう」


「ま、まさか、そんな恐ろしい事だけ教えて、避ける術は教えてくれない、なんてことはないですよね?」


祖師は白髭をしごきながら言う。


「毒を食らわばなんとやら、というからの。身体の構造をいちから作り変えて、別の物質や生物に変化する術を学ばねばならん。七十二般ななじゅうにはん変化へんげの術を身につけて、三災の目を欺くのじゃ。わかっとるじゃろうが、これも他の弟子どもには明かしてはならぬぞ」


「ハイハイ、他言無用ですね。わかっちょります」


こうして、悟空は新たな術の習得にとりかかるのだった。



 三年の月日が流れた。ある日の午後、兄弟子達の一群が悟空の行く手を遮り、問いただすのであった。


「やい、エテ公!お前、最近夜中に祖師様のところに行ってこそこそ何やってやがるんだ」


かわやに起きたとき、お前が裏道を通って祖師様のところに行くのを見たやつがいるんだ」


悟空ははじめのらりくらりと誤魔化していたが、次第にある気持ちに襲われた。

見せたい、という衝動だった。

七十二般の変化の術は、もう極めたと言っても過言ではないのだ。祖師には他の弟子たちに見せてはならぬと固く口止めされていたが、自慢する相手が欲しいというのは前々から自覚しているところだった。

第一、こんなボンクラどもにへいこらするのはいい加減飽き飽きしていたのだ。


「よござんす、兄弟子にいさま方。わたくしが師匠に何を習ったか。いっぺんだけお見せしましょう」


悟空は道観の庭に出ると、その中心の砂地に立って叫んだ。


変化へんげ!」


たちまち悟空の姿は消え失せ、そこには代わりに樹齢百年はあろうかという巨大な松の木が聳え立っていた。

兄弟子達はたまげて腰を抜かしたり、小便を漏らしたりして、大騒ぎしている。

その様子を見て、悟空は術を解き、瞬きする間に元の姿に戻った。その口許には得意の笑みが張り付いている。


「七十二般の変化の術をご存知ない?はぁ、これなら、兄弟子方は既に習われましたかな?觔斗雲!」


悟空は宙返りすると例の雲に乗り、山の彼方まで言って一瞬で戻ってくるのだった。


「サル野郎め、上手くやったなぁ!こんな術があれば、配達の仕事で稼ぎ放題じゃないか」


「悟空様!今までの非礼をわびます故、この凡人にもその術を教えてください」


道観てら中が大騒ぎとなり、悟空は笑いが止まらなかった。


「馬鹿モン!何をやっている!」


須菩提祖師が奥から顔を出して一喝すると、あたりは鎮まりかえった。

悟空の姿は消えていた。祖師はつかつかと人だかりに向かっていき、一人の道士の耳を掴んだ。


「耳に毛が残っとるぞ。何をやっているのか、と聞いておる」


道士の姿から元に戻った悟空は口をもぐもぐさせていた。


「こっちにこい!その他の者は解散!散れ!散れ!」


祖師は自室に悟空を座らせた。


「なんと浅はかな事をしてくれた。あんな秘術を見せびらかせば、誰もがお前に教えろと迫ってくるだろう。お前だって人が自分の知らないことを知っていたら、そうするじゃろうが?見せてしまった以上、教えなければお前は恨まれ、いずれ命を狙われる。では、教えるとすればどうか。儂は見込みのない者には教えないようにしていた。あやつらは秘術を会得できず、やはりお前を恨んで殺そうとするだろうな。お前は消しようのない、いさかいの火種をまいてしまったのじゃ」


「むざむざ殺されたりしませんよ。師匠だって、わたくしの腕前を知ってるでしょう」


須菩提祖師が教えてくれたのは騰雲や変化の術だけではなかった。祖師は様々な武芸に通じ、特に杖術は神業であった。

悟空はその薫陶を受け、その多くを吸収したと自負していた。

祖師は冷然と言った。


「じゃあ、何か。あいつらを殺すわけか」


「それは……」


「お前の馬鹿力であいつらをひき肉団子みたいにするのは、そりゃ簡単じゃろうな」


祖師は押し黙る悟空を前にため息をついた。


「……お前は何もわかっとりゃせん。空の道も表面をなぞっただけじゃ。なまじ器用なばっかりに飛んだり化けたり出来るようになってしまったがな。儂が諍いを戒めるのは、それがあるべき他者とのえにしを捻じ曲げてしまうからじゃ。ねじ曲がった縁は殺生せっしょうという形で弾け飛ぶ。空は縁によってはじめて意味を持つのだと、あれ程言ったじゃろうが」


「それじゃあ、なんで武芸なんか教えてくれたんですか?あれは諍いに勝つための技ではないのですか」


「闘わねばならぬときはある。それは大切な縁を守るための闘いじゃ。それでも殺生は極力避けねばならんがの。……その、ピンと来てない顔よ。残念じゃ、本当に」


悟空はがばと伏して、頭を床に擦りつけた。


「どうか、どうか、お許しください。このような事は二度といたしません」


祖師の顔は苦虫を噛み潰したようだ。


「出て行け。今すぐにな。お前は、破門じゃ」


「そんな、俺は、師匠に何のご恩返しもしていない!嫌です!嫌だ!」


祖師は悟空の顔を掴んで、静かに言った。


「恩も義理もない。ただ、出て行け。ここをこれ以上掻き乱すな」


深夜、悟空が荷物をまとめて門扉を開くと、背後から声がした。祖師だった。


「お前のようなやんちゃ坊主は、どこにいっても揉め事を起こすんだろうな。だがな、仙術でそれを片付けても、儂の名前を出すでないぞ。儂の名を出したら、どこにいようとも、ちゃんとわかる。どこまでも追いかけていってコナゴナにしてやるからな」


「この悟空、口が腐れ落ちようとも、師匠の名は出しません」


祖師は、顎をくいくい動かして行けと促す。

悟空は雲に乗る気も起きず、とぼとぼと当て所なく歩き出した。

何度か振り返る。

その度に祖師の姿が小さくなっていく。

祖師の姿は豆粒程に小さくなった。

しかし、それでも悟空の超常の耳は、祖師がひとりごちたその声を拾ってしまうのだった。


「楽しかったぞ。悟空」


悟空は溢れ出る涙を振り切るように宙を舞い、雲に乗ってその場を離れるのであった。


須菩提祖師の道観を追われた悟空が次に向かうのはどこか、それは次回に譲ることとする。

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