第43話 黒風大王
悟空が黒風山に降り立って山道を歩いていると、白い着物を着た怪しい道士が前方を進んでいる。
悟空は思い切って声をかけてみることにした。
「やあ、あんたも黒風道士に呼ばれたのかい」
振り向いた道士の目は異様な真紅の瞳を持っていた。
赤い目が舐め回すように悟空を見る。
「お前は見ない顔だが……猿の妖怪か。 そうそう、黒風道士……黒風大王が新しい見事な袈裟を手に入れたというでな。 山頂の黒風洞で開かれる品評会に行くところだ。 あんたもそうなのかい」
「いいや、俺さまはその黒風大王とやらをぶっ殺して、袈裟を取り返すために来たのさ」
「なんだと」
白衣の道士は白い大蛇に変じて悟空に飛びかかって来たが、彼の牙が届くよりも速く悟空の如意棒がその頭を粉砕した。
悟空は大蛇の着ていた白い着物を羽織ると、変化、と唱える。
すると悟空の姿はたちまち白蛇道士の姿へと変じるのであった。
◇
山頂には確かに黒風洞という看板のかかった洞窟があった。
洞窟の周りには良く手入れされた松や竹、すももや桃の木が植わり、可愛らしい花畑もあり、およそ化物の根城とは思えない。
洞窟の入り口には何やら漢詩まで刻まれている。
「泥棒のくせして丁寧な暮らししやがって! ぶちのめしてやる」
黒風洞の中に入ると何匹かの妖怪に囲まれて、鎧兜を身につけた巨大な熊が上座に座っている。
「やあやあ白蛇道士、よくぞ来てくれましたな」
「ハハッ、黒風大王さまが言うのだからよほど見事な袈裟なのだろうと、楽しみにして参りました」
黒風大王は笑って指をパチリと鳴らす。
すると奥から小妖怪が三蔵の袈裟を持ってやってきた。
「どうです。 この見事な錦襴の袈裟! 素晴らしいでしょう」
「いやぁ、実に素晴らしい。 どこでパクったのです」
白蛇道士に化けた悟空がそう言うと、黒風大王は背後にかかった黒房の槍をつかんで立ち上がった。
「パクっただって……きさま、白蛇道士ではないな!?」
「そうとも。 この俺は偉大なる取経僧、三蔵法師さまの一番弟子、孫悟空さまだ。 お師匠さまの袈裟を返しやがれ、盗人グマめ」
悟空は正体を現して、如意棒を一振りする。
周囲の妖怪たちはその一撃で肉味噌みたいになってしまった。
しかし、黒風大王は黒房の槍でその衝撃を弾くのであった。
悟空はにやりと笑う。
「お、やるじゃねえか。 でも、俺はお前のようなヒヨッコが知り得ないような大昔に天界を荒らした大妖怪さまだ。 降参するならいまのうちだぜ」
「あー、知ってる知ってる。 あんたぁ、お釈迦さまに懲らしめられたっちゃう馬方の猿野郎だな。 命乞いして仏教徒になったのかい」
「てめぇ、そんなに死にたいならすぐに冥土に送ってやるぜ」
悟空が如意棒を振り下ろせば、黒風大王は黒房の槍でこれを受け流す。
黒風大王が熊の爪で引っ掻けば、悟空の尻尾がこれを弾く。
撃ち合うこと数十合、はじめに息が上がったのは黒風大王のほうだった。
「悟空とやら、クマーはお腹が空いて、目が回ってきた。 ここは一つ、お昼ご飯を食べてから再戦と行こうじゃないか」
「はぁ? 何を言い出しやがる、この悟空様は何百年もの間まともな食事も出来ずに……」
「隙ありッ」
突如として黒風大王の熊の掌が巨大化し、悟空を洞窟の外まで突き飛ばしてしまった。
洞窟の岩戸は魔法の品と見えて、勝手に閉まるとシンと静まり返る。
「この、腐れグマ、開けやがれってんだ」
岩戸は引いても押してもびくともしない。
悟空は相手に聞こえるようにわざと大きな声で言った。
「はぁー、しょうがない。 しばらく日を空けてから出直すか」
悟空はそう言った後、少しだけ洞窟から離れ、変化の術で道端の雑木の一本に化けるのだった。
◇
何時間かして、木に化けた悟空の前を洞窟から出てきた小妖怪が通り過ぎる。
その妖怪は大事そうに小箱を抱えている。
悟空は変化を解いて如意棒を取り出すと、その妖怪をぽかりとやった。
ぽかりと言っても悟空は怪力無双なので、あわれ妖怪は挽肉のようになってしまった。
小箱の中身を改めると、それは手紙であった。
ーー観音院の金池住職殿へ
ご無沙汰しております。
黒風道士です。
先日の火事は災難でしたね。
所用があり、助けにも行かれず申し訳ありませんでした。
住職殿のことなのでもちろんご無事とは思いますが、また状況が落ち着きましたら仏衣会や仙丹の試飲会など催したいと思っています。
ご返信いただければ幸いです。
黒風道士 拝ーー
悟空はそれを読むとポンと手を打った。
「なるほど、あの熊野郎は住職が死んだことを知らないのか。 しめたぞ」
悟空はたちまち観音院の住職の姿に変じた。
そして、如意棒にも術をかけて仙丹に変化させると、再び黒風洞に向かった。
「黒風道士どの、金池が、住職が参りましたぞい」
悟空がしわがれ声でそう言うと、岩戸が開き、黒風大王が出てきた。
「ご無事で何よりです、住職。 しかし、手紙を出してから随分早かったですね」
「ちょうどこの仙丹を持参して近況を報告しに参ったところでな。 使いのものとは先ほど出くわしたので、路銀を渡して休憩するように伝えましたぞ」
「それはかたじけない。 ささ、中にどうぞ」
二人は中でしばらく歓談し、偽住職の悟空は盛り上がってきたところで仙丹を差し出した。
「これはほんのお気持ちですじゃ。 どうぞ、お飲みくだされ」
「本当はわたしがお見舞いの品でも渡すべきところを、申し訳ありませんなぁ」
黒風大王はパクりと仙丹を飲み込んだ。
悟空は叫ぶ。
「変化よ解けろ。 伸びろ、如意棒ッ」
黒風大王は腹の中で伸びる如意棒に悲鳴を上げてその場に倒れて、悶え始めた。
悟空は自身の変化も解いて、高笑いする。
「ファー、伸びろ如意棒、どんどん伸びろ」
「や、やめてくれ、死んでしまうクマー」
「そうだな。 死ね」
「おやめなさい」
優しい声に振り向くと、洞窟の入り口に観世音菩薩と恵岸行者が立っていた。
「あら、観世音菩薩さま。 こいつがお師匠の袈裟を盗んだのでぶっ殺そうというところなんです。 邪魔しないでください」
観世音菩薩はため息をつく。
「なんでもかんでも殺そうとするんじゃない。 黒風大王、おまえがあの日、観音院にいたのは何故なのかね」
黒風大王はげほげほ咳き込みながら返す。
「それは、友人の金池住職が火事で危ないかもしれないと思って、助けに行っていたのです」
観世音菩薩は悟空のほうに再び視線をやる。
「ほれ、この通り、この妖魔には善性が垣間見える。 殺すには及ばんよ」
「ケッ、悪党が悪党を助けることのどこが善性なんだか……」
「輪っかを締め付ける呪文は私も唱えられるぞよ」
「なんでもありません。 いやぁ、立派なクマだなぁ、痛めつけて悪かったよ、キミ」
観世音菩薩は黒風大王に首輪をかけた。
「こいつは私が連れていく。 ちょうど、私の住む落伽山に番人が欲しかったところなのさ。 この熊は庭仕事も得意なようだし、ぴったりだよ」
恵岸行者も歯を見せて笑い、黒風大王の肩を叩く。
「実際、山の手入れは骨が折れてな。 頼んだぞ、新人くん」
この黒風大王が観世音菩薩の図像にしばしば描かれる熊、いわゆる守山大神となったのは、もはや言うまでもないことである。
さて、袈裟を取り戻した悟空が三蔵のもとに戻ると、三蔵はさっそうと白馬玉龍にまたがり言った。
「ご苦労だったな。 さあ、出発しよう」
「人使い……猿使いが荒いッ」





