第42話 こんな袈裟には釣られクマー
美しい女菩薩が雲に乗り、空を渡る。
しかしその雲はどんよりとした灰色の雲で、女菩薩の顔も退廃的でどこか病的な美をたたえていた。
雲の周りをやかましく飛び回るのは灰色の巨大な鸚鵡である。
「ご主人さま、波旬菩薩さま。 例の取経僧を見つけましたぜ」
波旬菩薩は薄い笑みを浮かべた。
「小手調べといこう。 祝禍、お前が行って、からかってやりなさい」
祝禍と呼ばれた鸚鵡は、地表に向けて急降下していった。
山間に建てられた大きな寺の境内に、砂塵を巻き上げて祝禍は降り立った。
境内を掃除していた小坊主が砂煙の中の怪鳥を見つけて腰を抜かす。
「わ、鳥のお化け」
「そうだよ」
祝禍は小坊主を一飲みにすると咀嚼する。
怪鳥の身体は徐々に縮み、羽は消え、腕を生じ、喰われた小坊主そっくりとなった。
◇
三蔵と悟空は春めいてきたあたりの景色に心をぽかぽかさせながら進んでいく。
悟空が遠くの山肌を指差して言った。
「お師匠さま、あれ。 山の間にちょこちょこと何か建ってますぜ」
三蔵の目にもかろうじて見えるそれは、複数の建物の集合体であった。
「御殿や楼閣……にしては山奥にすぎるな。 ということは僧房かもしれない。 行ってみよう」
辿り着くまでにまた半日ほどかかったが、着いてみるとそれは立派な僧院であった。
正門には「観音院」の文字がでかでかと書いてある。
「観世音菩薩様を祀る寺院とは、これも仏様の御導きでしょう」
観音院の門をくぐると、中にいた僧侶や小坊主たちは歓待してくれた。
住職に挨拶を、と言う三蔵を僧侶たちは押しとどめる。
「住職は大変なご高齢でして、あまり動くと身体に障りますので」
「それは仕方ありませんな。 残念ですが」
「なにせ、御歳二百七十歳でございますからな」
そういうわけで、やたら金きらの豪華な観音像を拝んだり、立派な器で精進料理などを頂いてたのだが、かの住職は小坊主に支えられて姿を現した。
背は曲がり、顔は皺とシミだらけで目は落ち窪んでいるが、ぎらぎらの派手な袈裟を身につけていた。
「唐の国からわざわざ参られたとあっては、ご挨拶をせぬわけにはいかんと思ってのう」
「これはこれは院主さま。 お世話になっております、三蔵と申します。 こちらから挨拶に出向くべきところ申し訳ございません」
住職はちらりと三蔵の手元を見た。
「……器」
「器? ああ、見事なものでございますね。 このような品は唐土でも滅多にお目にかかれますまい」
住職は途端にふぁふぁふぁと歯の抜けた口で笑い始めた。
「そうじゃろう、そうじゃろう。 それらは儂の趣味でな、生涯をかけて集めた名品ですじゃ」
住職は今度はわざとらしく自分の袈裟の襟を何度もさわったりし始めた。
「えーと、その袈裟は素晴らしいですね。 どういった来歴のものなんですか」
「さすが都会の方はお目が高いのう。 これは一年分のお布施を投じて西域から贖ったもので……」
住職が口角から泡を散らしながら袈裟の自慢をするのを、悟空は心底つまらなそうに眺めていた。
「へっ、どこに目をつけてるんだか。 袈裟ならお師匠さまの着ている物のほうがずっと良い品じゃんか」
ボソッと悟空は言ってしまった。
「なんじゃと、そんな訳は」
住職は身を乗り出して、三蔵の袈裟をジロジロと見て、やがて突然ひっくり返った。
「あんた、この袈裟、このとんでもない袈裟はどこで手に入れなさった」
「院主さま、大丈夫ですか! お怪我は!」
「儂は袈裟のことを聞いておるッ」
「これは観世音菩薩さまから賜ったのでございます。 つまり天上の品です」
住職はそれを聞くとわなわなと震え出し、突っ伏して号泣しはじめた。
「それじゃあ、手に入らんということか! 儂の人生を傾けて蒐集した袈裟は、その袈裟に比べたらボロ布にすぎん。 儂の人生は無駄じゃった無駄じゃった」
住職は小坊主に支えられながら奥に消えていった。
「悟空、私もあの住職の自慢話には少々嫌気がさしていた。 しかし、お世話になっているのに、あんなことをしてはいかんぞ」
「へへっ、わかりましたよ。 サーセン」
◇
部屋に戻った住職は再び泣き崩れていた。
その傍に、住職お気に入りの小坊主が寄ってきた。
「住職さま、どうしてそんなに泣いているのです」
「儂は、あの旅の僧が持ってきた袈裟が手に入らんから、泣いておるのじゃ」
小坊主は年齢に似つかわしくない邪悪な笑みを浮かべた。
「そんなことはありません。 奪い取ってしまえば、住職さまの手に入るじゃありませんか」
「なんと、しかしそんな手があるのか」
小坊主は住職の耳元で囁いた。
「夜中に火事を起こすのです。 そうすればあの僧も寝巻きのまま飛び出すはず。 その隙をついてあの袈裟を掠め取り、あとは袈裟は焼けてしまったと知らぬ存ぜぬを決め込めばいいのです」
住職の目は熱を帯びた。
「完璧な策じゃ。 そうしようそうしよう」
小坊主は住職の部屋を退出すると、境内に出た。
その身体はたちまち膨張し、羽毛を生じ、羽をはやし、祝禍の姿に戻って夜空に飛び立った。
◇
夜も更けた頃、三蔵は枕元においた九環の錫杖が突如鳴り騒いだために驚いて跳ね起きた。
見れば障子の外は紅蓮の業火に包まれているではないか。
三蔵は寝巻きのまま、錫杖だけを持って飛び出した。
悟空も起きてきて、三蔵の肩を掴んだ。
「お師匠、ご無事でしたか! ……あれ、袈裟は」
「う、忘れてきた。 しかし、そんなことより、人命の救助が先だ」
「それもそうですね、お任せあれ」
悟空は燃え落ちる僧房の中を駆け回り僧侶たちを助けて回った。
そんな折、この焼ける僧院を空に浮かぶ黒雲に立って眺める一匹の妖魔があった。
「住職さんやーい。 火事とは災難だねー。 この黒風大王が、同じ袈裟蒐集家のよしみで助けにきたぞーい」
黒風大王は黒熊が直立して鎧兜を着込んだような風体の妖魔であった。
黒雲はふよふよと僧院にちかづいていき、やがて一つの部屋に行き当たった。
「住職ぅ、無事かーい」
その部屋に住職の姿はなく、代わりに輝きを放つ錦襴の袈裟、三蔵の袈裟があった。
「この袈裟、どえらい品じゃないか! うう……こ、こんな袈裟! この黒風大王さまはこんな袈裟には釣られクマー」
そう言いながら黒風大王ははっしと錦襴の袈裟を掴み、友人であった住職を助けるという当初の目的も忘れて、闇夜へと消えていった。
住職はといえば、曲がった背中をおして遅れて客間に入ってきた。
「ない、ない……袈裟が、ないッ」
◇
僧院の火事は夜明けにようやく鎮火した。
建物は九割方焼け落ちてしまい、後には悟空が助け出したために無事だった僧侶たちと、煤けた若干の家財だけが残された。
ほうけた用に座り込んでいる住職に三蔵は声をかけた。
「ご住職、どうかお気を落とさずに」
「袈裟ぁ、袈裟ぁ。 火付けまでしたのに、あの袈裟は手に入らなんだか」
「えっ、いまなんと」
住職はふらふらと立ち上がると、突然焼け残った寺の外壁に頭を打ちつけた。
三蔵たちが止める間も無く、住職は頭から脳漿を垂れ流して死んでしまった。
悟空は住職の突然の自殺にも動じていない。
「しかし妙ですね、お師匠さま。 あの袈裟は天界の品、そう簡単に焼けてしまうことはない。 あと、火事の時は人助けに忙しくって確かめられなかったが、妖魔の気配がありました。 おい、そこのあんた思い当たるようなことはないか」
呼びかけられた僧侶は答える。
「妖魔かどうかはわかりませんが、住職のご友人にやたらに顔中毛むくじゃらの黒風道士なる怪しげな道士がおりました。 日頃から互いの手に入れた袈裟を自慢したり、長寿の仙薬をもらったりする仲であったと記憶します。 その道士は黒風山に住んでいるとか申しておりましたが……」
悟空はポンと手をたたく。
「ははぁ、そいつの正体はこの間の社の守り人が言っていた黒熊の妖魔に違いない。 さてはそいつが袈裟を火事場泥棒しやがったんだな。 いっちょ、黒風山とやらに殴り込みをかけてきやすぜ」
悟空は言うが早いか蜻蛉返りを打つと、觔斗雲に乗って飛び出した。





