第37話 鎮山の親分
唐から連れてきた従者二人を失った三蔵法師は、馬一頭だけを頼りに街道を進んで行った。
しかし、大蛇は出るわ、狼は吠えるわ、おまけに先刻から虎が一頭後を着けてきている。
ついに馬が怯えてへなへなと座り込んでしまった。
虎は好奇とばかりに三蔵法師に飛びかかってきた。
三蔵法師これにて一巻の終わり、南無阿弥陀仏、というまさにその時!
「ヤーッ!」
見れば虎の背中に刺又が突き刺さっている。
虎の背後の草むらから、ごそごそと人が出てきた。
男は豹皮の帽子を被り、熊の皮の外衣を羽織り、獅蛮の帯を巻いて、鹿皮の靴を履いていた。
ギョロ目を動かして、腰に提げた弓に手をかけている。
三蔵法師は男を見て手を合わせた。
「ど、どうかお助けください」
男は人懐っこい笑みを浮かべた。
「なに、あんたには何もしないさ。俺は姓は劉、字は伯欽ちゅうもんで、猟師をやっている。このあたりでは、鎮山の親分ってあだ名のほうがよく通るがね」
三蔵法師はほっと胸を撫で下ろした。
「私は名を陳玄奘、三蔵法師と号しております。大唐帝国の皇帝陛下のご下命を受けて、天竺まで経典を取りに旅をしている途中です。部下は危難にあい、命を落としてしまいましたので、こうして一人で進んでいるのです」
劉伯欽は感嘆の声をあげた。
「お坊さんは唐の人だったのか。この辺りはどこの国の領土ともハッキリしない曖昧な土地だが、俺も俺の死んだ親父も唐の出身さ。同郷のよしみで、おれの家に案内するよ。あばら屋だが、野宿よりはマシってもんさ。この虎野郎もご馳走してやるよ」
◇
山を越えた先に、あばら屋というには立派な山荘があった。
「おう、みんな帰ったぞ。珍しくお客さんもいるぞ」
劉伯欽が大声を出すと、門を開けて数人の若い猟師が現れた。
「この虎は、いつものように皮を剥いで、肉は台所に回しておけ」
劉伯欽が指示を出すと、子分たちは虎を運んでいった。
山荘の中は結構広く、庭にはなんと鹿が歩いていた。
「あの鹿達は親分さんが飼っていらっしゃるんですか」
「おうよ。天気が悪くて狩りに出られないときは、あれを〆るのさ」
三蔵法師が客間に通されてお茶を飲んでいると、老婆とガッシリとした体型の中年女が出てきた。
「お坊さん、うちのお袋と嫁さんだ」
三蔵は立ち上がると劉伯欽の母親に頭を下げた。
「御母堂、どうぞ上座にいらしてください」
「お坊さんはご苦労なすってここに来たのだろうから、おくつろぎなすってください」
二人の席の譲り合いに劉伯欽が割って入る。
「おふくろ、このお坊さんは本当にご苦労なさったんだ。なんでも唐の皇帝から直々のご命令で、天竺にお経の本を取りに行く長い長い旅の途中なんだとさ。明日、街道までお送りするよ」
すると、劉伯欽の母親はパッと顔を輝かせた。
「皇帝さまとお会いになるようならそれはそれは立派なお坊様なのでしょう。お坊様、どうか、亡くなった夫にお経をあげてくれませんかのう。ここは山奥で、僧侶の一人もおらんので、まともな供養ができとらんのです。この老婆の一生で一度の大事なたのみ事でございます」
三蔵法師はその頼みを神明な面持ちで聞いていた。
「そういうことであれば、明日、拙僧が僭越ながらお経を読ませていただきます」
劉伯欽の母親は大喜びして三蔵を拝すると奥に消えていった。
日が暮れて、夕食の時間になると何やら獣くさい臭いが屋敷中に充満した。
「あんたぁ、出来たよう」
劉伯欽の妻が鍋を持ってきた。
三蔵と劉伯欽の前にでんと置かれた鍋から、その臭いが濃厚に立ち昇っていた。
「親分さん、これは……」
「我が家特製の虎鍋だよ」
うまいうまいと言いながら、劉伯欽は虎の肉を頬張る。
「お坊さん、どうした。たんと食いねぇ」
三蔵は気まずい顔をする。
「親分さん、申し訳ないが、僧侶は殺生した動物の肉を食べられない決まりなのです」
「しかし、うちにはこんな料理しかないぞ。それは困ったな」
「私のような者は何日かお斎を頂かなくても耐えられるように修行しておりますから……」
その時、ぐぅぅぅ、という音が鳴った。
「いや、めっちゃおなか鳴っとるやないですか。悪いことは言わんので今日ばかりは虎鍋をお食べなさってください」
「いや、いくら苦しくても戒めを破るわけにはいきません」
その時、奥から劉伯欽の母親が現れた。
「そんなこともあろうかとね、ちゃんと作っておきましたよ。精進料理」
お盆にはホカホカの粟飯と木耳と筍を炒めた料理、それに楡の葉を使ったお茶が乗っていた。
三蔵は深々と拝謝すると手を合わせて何やら唱え、その後に食事に手をつけた。
「お坊さんは料理にもお経をあげなさるのか」
「ははは、今のはお斎を頂くときに唱える真言ですよ」
「仏道の世界ってのはややこしいんですなぁ。勉強になるなぁ」
◇
翌日、準備を整えた三蔵は木魚を叩きつつ、一心にお経を読み続けた。
その真剣な様は、劉伯欽一家の心を強く打った。
お経を読み終わると既に夕方だった。
劉伯欽の母親は涙を流して感謝し、もう一泊して翌日出発することとなった。
あくる朝、劉伯欽と子分の猟師二人に付き添われて三蔵は出発した。
半日ほど進むと、子分の二人が足を止めた。
子分のうちの一人が山道の脇の石柱を指差して言った。
「親分、ここらが限界でさぁ」
劉伯欽は子分に対して苦々しげに返す。
「確かにここから先は危ねぇがよ。お世話になったお坊様をこんな山ん中で放り出すわけにはいかねぇだろうが」
三蔵も何事かと両者の顔を見比べる。
子分は三蔵に気づくと、その顔を見て申し訳なさそうに言った。
「お坊さん、親分はこう言っちゃいるが、この先はあなた一人で行っておくんなせぇ。ここは両界山と言って、こっから先は韃靼の領土なんだ。それに……」
その時、突風が吹いて、山中から何かの唸り声が聞こえた。
続いて暗雲が垂れ込め、重々しい声が響いた。
「この山に立ち入る者は誰だ……我が眠りを妨げるものは誰だ」
三蔵が劉伯欽を振り返ると、彼は突風に帽子が飛ばされないよう抑えながら語る。
「この山には、漢を乗っ取った王莽の時代に大暴れしたっていう、伝説の猿の妖魔が封じられているんでさ」
三蔵はガタガタ震えながらも山に向かって手を合わせ、お経を唱え始めた。
すると、突風が止んだ。
続いて、ファー、という気の抜けた声がした。
「俺のお師匠さまが来た! お師匠さまがついに来たぞ!」
妖魔の声はなんだか嬉しげなのであった。





