第36話 災難
長安を出た三蔵法師の一行は西へ西へと進んでいく。
彼らは行く先々で歓待されたが、それは唐の国内だからというところが大きい。
遂に一行は河州衛という街についたが、ここを越えるといよいよ唐の法律の及ばない地域である。
しかし、三蔵は臆するどころか取経への情熱に目を輝かせていた。
河州衛についた翌日の早朝、というよりも未明には、鶏の鳴くより早く目覚めてお供の者たちを急かしつける。
「さあ、出発、出発だ」
お供の二人は寝ぼけ眼を擦っている。
「法師様、まだ足元が暗い時間です。危ないですよ」
「天竺までの道のりは遠いのだ。こんなところで道草を食っているわけにはいかん」
月明かりを頼りに進むこと数十里、遂に道が消え、山の中に入った。
先に行けば行くほど草の丈は高くなり、前は見えなくなって行く。
「あっ」
と、一行が声を上げたときには、既に馬ごと穴の中に落ちていた。
◇
「この穴はいったい。人間の掘ったものなのだろうか」
三蔵が腰をさすりながら上を見上げると、赤く光る無数の目がこちらを覗いていた。
「いんやぁ、俺たちの掘ったものさ」
触覚やら角の生えた小柄な人間じみた化け物の一群が、一行を縛り上げると棲み家らしき洞窟へとひこずって行った。
岩屋の奥には全身に縞模様の入っている牙を生やした大男がでんとすわっていた。
妖怪たちは三蔵一行を大男の前に転がした。
「寅将軍、人間が罠にかかりました」
寅将軍と呼ばれた大男は吠えるように笑った。
「ちょうど良かった。これから友達が訪ねてくるところだったのだ」
その時、洞窟の入り口に二つの大きな影が入ってきた。
「やぁ、寅さん。景気はどうだね」
「寅将軍よ、壮健そうでなによりだ」
二人、というよりも二匹の妖怪はそれぞれ真っ黒でもふもふしたやつと、長い角が白い額に生えたやつであった。
「熊山君、特処士。よく来てくれたなぁ。まあ、座ってくれ」
二匹の妖怪は毛皮の敷物にどっかりと腰をおろす。
寅将軍は二人に酒を勧めて話しかける。
「最近はどうだね、ご両人」
熊山君は身体についたシラミを取りながら返す。
「まあ、ぼちぼちってとこさね」
特処士も角を撫でながら言う。
「そのときしだいってとこかな」
二匹はなんだかそわそわした様子で、同時に切り出した。
「それよりも」
二匹は後ろに縛られている三蔵とお供の二人に目をやった。
熊山君が言う。
「この人間たちはどこで捕まえたんだい」
寅将軍は笑う。
「いやぁ、自分たちのほうから勝手に来てくれたのさ」
特処士が舌なめずりをしながら言う。
「どうか、ひとつごちそうしてくれないかな」
「どうぞどうぞ。もちろん、そのつもりで取っておいたんだ」
三蔵は震えながらも着ている袈裟がほのかに光ったのを感じた。
すると熊山君がなんだか調子の外れた声で言った。
「三人は一度に食い切れないな。その二人を先に食べて、坊主は取っておこう」
寅将軍は髭をこすりながら言う。
「そうですか。ならばそうしましょう」
寅将軍がパチリと指を鳴らすと、小妖怪達がやってきて包丁でぐさりと二人の従者の首を突き刺した。
小妖怪達は事切れた二人から内臓を取り出し、その身体をバラバラに捌いてしまった。
頭と心臓と肝臓を客の皿に並べ、寅将軍は手足を食し、残りの内臓や肋周りの肉は小妖怪達が分け合った。
バリバリとがっつく音の中で、三蔵はいまにも失神してしまいそうなくらい恐怖に怯えていた。
しかし、夜も白み始めると熊山君はげっぷをして言った。
「いやぁ、今日はすっかりご馳走になってしまったな」
特処士も立ち上がる。
「このお礼はいずれ。そろそろお暇させてもらうよ」
二匹の妖怪は三蔵に手を出すことなく帰っていった。
小妖怪たちも引っ込んでいき、寅将軍も座ったまま大いびきをかきはじめた。
三蔵が朦朧としながらも惨劇の跡を眺めていると、不意に杖を持った老人が目の前に現れた。
老人が杖を掲げると三蔵を縛っていた縄がはらりとほどけた。
「こ、これは」
「シーッ、話は後じゃ。ずらかるぞい」
老人に導かれるまま洞窟を脱し、近くの小川に辿り着く。
その辺りには三蔵の馬と荷物が木に縛られて残されていた。
「ご老人、なんと御礼を申したらよいか。私は大唐皇帝の命を受けて取経のために天竺を目指している三蔵という者です。二人の従者は洞窟にいた虎の化け物と、よくわからない二体の妖怪に食われてしまいました。ご老人の助けがなかったら私も食われていたでしょう」
老人はほっほっほっと笑って言う。
「ここは双叉嶺といって、化け物の住処じゃ。あの黒いもふもふしたやつは熊山君といって熊の妖怪じゃ。角のやつは特処士といって野牛の化生したものじゃな。二匹とも大飯食らいで知られておる。なぜ食われなかったのか不思議じゃのう」
そう言いながら、老人は三蔵の身なりを見てポンと手を叩く。
「なるほど、そなたの袈裟には法力が宿っておるようじゃの。それのおかげかもしれん。……それに、妖怪は清浄な物を苦手とする。そなたの心が清かったために、無意識に箸が遠のいたのかもしれんな。いずれにせよ、街道を外れるとこのような危険が増える。次からは気をつけるのじゃぞ」
老人が再び高笑いすると空から丹頂鶴が舞い降りてきた。
老人はその鶴に飛び乗ると天高く駆けて消えてしまった。
空からはヒラヒラと竹簡が落ちてきて、こう書かれていた。
我は西天太白金星なり
来たりて一命を救えり
進めば必ず神助あらん
艱難に経を憎むなかれ
三蔵はあれは太白金星の仙人だったのだと驚嘆し、また西天の方角を伏し拝んだ。
そして、小川のほとりに石を重ねて従者二人の墓を作ると経をあげた。
そして経を読み終わると再び西へと歩き出すのであった。





