第35話 三蔵法師
いよいよ水陸大会が始まると、例の怪しい坊主二人は錦襴の袈裟と九環の錫杖を携えて、会場の化生寺へと向かった。
長安の街では女性達がわいわいと噂しあっていた。
「あの若いお坊さん、まるで役者みたいな顔だったね」
「かっこいいを通り越して、綺麗っていうか」
「玄奘さまって言うらしいわ」
「坊主なんかやめて、あたしと結婚してくれないかしらね」
二人の怪僧は噂話をする女性たちをかきわけて化生寺へとたどり着いた。
「ほう、これはなかなか」
「規模から言えば祇園精舎にも劣らないが……」
二人は天朝の大国に相応しい大伽藍に足を踏み入れた。
◇
堂内では左右に立ち並ぶ巨大な仏像と、全国から集められた僧侶、そして皇帝の李世民をはじめとする要人たちがみなで南無阿弥陀仏を唱えている。
高く設えられた壇上では眉目秀麗の若き僧侶、玄奘が遂に経を読みはじめた。
皆、その歌うような美声とありがたい経文に耳を傾けている。
たった二人をのぞいて。
「もし、玄奘どの。先ほどから聴いていると、どれもが上座部の教えに聞こえる。大乗の教えは読まんのかね」
二人組の怪僧のうち、背の高い僧侶が玄奘に詰め寄った。
皇帝の李世民はその様子を見て、怒気をはらんだ声で言った。
「こら、袈裟と錫杖のために参加を許したが、法会を台無しにするつもりなら出て行ってもらうぞ」
しかし、玄奘がそれを制する。
「お待ちください、陛下。この方達は、興味深いことを言っています。……御僧、上座部とか大乗というのはなんのことです。私が知っているのは今読んだようなものばかりです」
背の低い坊主が進み出た。
「お釈迦様の教えには、出家者に向けた上座部の教えと、広く衆生に向けた大乗の教えがあるのだ」
玄奘は目を輝かせた。
「御僧はその経典をお持ちなのか?是非、読ませていただきたい」
二人の怪僧の姿がぼやけていき、まばゆい光を放った。
人々が目を白黒させていると、堂内の宙空に瑞雲に乗った女性と屈強な法師が現れていた。
「私は観世音菩薩、この者は我が弟子の恵岸行者である。遍く衆生を救う大乗の経典は、遠く十万八千里の先、天竺は大雷音寺の三蔵に収められている。この中に、人々を救うために取経の旅に出ようという有徳の僧侶はおらぬかえ」
真の菩薩が顕現したものだから、僧侶たちはひとまず平伏した。
しかし、平伏しつつも彼らは左右の仲間を見ながらぶつぶつと言い合う。
「十万八千里だと?本当にそんな遠くまで行けるのか。一年二年の旅ではないぞ」
「いや問題は距離ではない。天竺までの地域は、砂漠あり山岳あり、命がいくつあっても足りないと聞くぞ」
「自然の脅威はもちろんだが、匪賊や害虫、怪しげな妖魔さえ出るという。とても無理だ」
萎れている僧侶達の中で、玄奘その人が決然とした態度で進み出た。
「私のような薄徳の僧侶でも志願できるのならば、どうかお任せいただきたい」
玄奘の言葉を聴き、観世音菩薩は微笑んだ。
「そなたを取経の僧として認める。この錦襴の袈裟と九環の錫杖を授けよう。期待しておるぞ」
観世音菩薩達の姿は消え、そこには袈裟と錫杖が残された。
◇
玄奘が取経の旅に出る朝がやってきた。
お供をする屈強な兵士が二人と、名馬、そして長旅に使う荷物。
玄奘は観世音菩薩に賜った袈裟を着て、錫杖をついて歩み出した。
沿道からは沢山の見物人が激励の言葉をかけてくれる。
玄奘は面映い気持ちになりながらも、しっかりとした足取りで進んでいく。
遂に長安の城門まで差し掛かると、そこには皇帝たる李世民の姿があった。
慌てて玄奘は跪いた。
「陛下おん自らお見送りくださるとは。恐縮です」
李世民は玄奘の手を取って立たせる。
「お前のような勇気の持ち主は戦場でも中々いなかった。こんな凄いやつの門出に立ち会えて、朕のほうが恐縮しているくらいだ」
李世民は懐から包みを取り出した。
「これはささやかながら、餞別の品だ。さあ、ここで開けてくれ」
玄奘が包みを開くと、袈裟と意匠を合わせた立派な毘盧帽ーー冠に似た形をした僧侶の被る帽子ーーであった。
「大切に使い、また被って戻ってきます」
「実によく似合っておる。時に、観世音菩薩さまは三蔵に経典が収められていると言っていたな。三蔵の経典を求める法師、すなわち三蔵法師、と号するのはどうかな。昨日寝ずに考えたのだ。どうだ、その名を使ってくれまいか」
玄奘はくすぐったいような気持ちになった。
「そのように号します」
李世民の顔がパッと明るくなった。
「それとな。もう一つ」
李世民は三蔵に盃を持たせ、酒を注いだ。
「短い付き合いではあるが、朕はお前を弟のように思っている。これは、義兄弟の契りの酒だ」
「それはしかし、皇帝陛下の義弟などというのは……それに私は僧侶でありますし、酒は」
「そう言わず受け取ってくれ」
そう言うと李世民は地面の土をひとつまみして盃にいれた。
首を傾げる三蔵に李世民は続ける。
「この酒の味は万が一忘れても、故郷のことを絶対に忘れないように入れたのだ。必ず戻ってくるのだぞ、弟よ」
三蔵は頷くと、盃の酒を一気に飲み干した。
「皆の者、我が弟の三蔵法師がいよいよ出発するぞ」
見物人達は三蔵法師、三蔵法師と歓呼の声を上げた。
三蔵は城門近くに生えていた松の木に触れて言った。
「皆さん、私の旅が何年かかるか私自身もわかりませんが、この松の木の枝が東を向いた時に帰ってきます。必ず、三蔵の経典を持って帰ります。それでは、さようなら」
三蔵法師はこうして取経の旅に出たのであった。





