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第31話 地獄へ

 李世民はしばらくすると叫びながら起き上がった。


「幽霊が!幽霊が!」


居並ぶ功臣たちが彼をなんとか宥め、典医が診察をした。

典医はしばらくすると寝所の外に出て、功臣たちに暗い表情で語った。


「原因はわかりませんが、心の臓が急に弱っております。一月ともちますまい」


功臣たちは色を失った。


 「夢の中で龍の怨霊が現れてな、前門のところから“俺の命を返せ"と迫ってくるのだ。卿らとともに、戦場を駆け回ってきたが、このような怪異を見たのは初めてだ」


寝台でそう語る李世民に、武勇に優れた秦叔宝しんしゅくほうが返す。


「国の創業に当たっては、われわれは万を超える人を殺しました。いまさら、怨霊など恐れることがありましょうか」


「そうは言うがな、いるもんはいるし、怖いものは怖いのだ」


秦叔宝は、自分と同じく剛勇で知られる尉遅敬徳うっちけいとくに目配せをした。


「では、陛下のもとに怨霊が行かないように、拙者と敬徳が前門を警護いたします」


こうして二人は鎧兜に身を固め、尉遅敬徳は鉄鞭てつべん、秦叔宝は鉄鐧てつかんーーどちらも剣に似た形状の打撃武器であるーーを手にして前門を固めたのであった。

その夜、李世民の眠りは安らかであったから、二人の武威は悪霊にも知れ渡っているのだ、と大変な評判になった。

尉遅敬徳と秦叔宝の二人が後世には門神となり、家々にその絵姿が祀られるようになった背景には、こういう出来事があったのである。

しかし、平穏は長く続かなかった。

数日後には、李世民は今度は後門から怨霊が迫ってきたと騒ぎ出した。

今度は魏徴が後門を守ったが、李世民は幽霊が天井に張り付いていた、床下から脚を引っ張られた、などと訴えて次第に衰弱していった。

宮廷ではもし李世民が崩御したらその後はどうするかという議論がなされるようになった。

いよいよ最期が近いとなった時、病床の李世民の龍衣をつかんで魏徴が言った。


「陛下のお耳に入れたいことがございます」


李世民は弱々しく答える。


「もはや何を聞いても無駄に思えるが」


魏徴は首を振る。


「これは死後の話でございます。最近、私は夢の中で崔珏さいかくに会いました」


「誰?」


「おっと、陛下は面識のない者でしたな。崔珏というのは、先帝にお仕えして礼部侍郎をやっていた男で、私の親友でしたがもう死にました。その者が夢に出て、今は死者の世界で鄷都判官ほうとほうがんをしているのだと言っていたのです」


鄷都判官とは人間の生き死にを定める生死簿を管理する役職、と信じられている。


「わたくし魏徴は、陛下の死をなんとか取り消してもらえるように崔珏への手紙をしたためました。あちらに行ったら必ず渡してください」


世人にとっては俄には信じがたい話だったが、龍の幽霊などというよくわからないものに悩まされている李世民としてはすんなり受け止めることが出来た。

李世民はその手紙を懐に入れると、間も無く卒した。

宮中は悲しみに包まれ、李世民の亡骸はもがりのために白虎殿に移された。


 李世民は薄暗い野原のなかで目覚めた。

周囲には枯れかけたすすきの他に何もない。

あてどなく歩いていると、頭が牛のような巨人が現れた。

その姿を見て、李世民はようやく自分は死後の世界に来たのだ、と了解した。


「お前は新たな死者だな。こっちへこい」


言うが早いか牛頭鬼は李世民の身体を掴んでずんずんと歩き出した。


「おいっ、離せ、離さんか。朕は大唐帝国の皇帝であるぞ」


「死んじまったら皇帝も乞食も区別はねえ」


牛頭鬼は李世民の言葉を笑いとばして、先に進んでいく。

李世民の眼下に、烏紗うさの帽と犀角さいかくの帯をみにつけた髭ぼうぼうの男が現れた。


「そこの牛頭鬼よ、その者は新たな死者かな」


男は問うた。


「へえ、崔判官、その通りで」


牛頭鬼は李世民を雑に地面に放った。

髭の男は目を丸くして言った。


「やや、その出立ちは、大唐帝国の皇帝陛下ではござらんか」


李世民は土を払いながら立ち上がった。


「いかにも、朕が大唐帝国の第二代皇帝である。いま崔判官と呼ばれたあなたは、崔珏どのではないかな」


こうして、李世民は早くも目当ての人物に巡り会うことができた。

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