第30話 太宗李世民と龍
大唐帝国の皇帝である李世民は、寝室で今日の雨のこと、そして不吉な赤い光のことを考えていた。
李世民は各地から届けられる膨大な報告のその全てに目を通す。
その中に、今日の夕方から急に降り出した雨で数人の漁師が沖に流され亡くなってしまったのだ、というものがあった。
もう少し早く降り始めたり、もっと強い雨だったならば、漁師達はあるいは早めに漁を切り上げるなどの判断が出来たかもしれない。
間の悪いこともあるものだ、と思う。
その後の赤い光はあの雨と一続きの現象なのだろうか、それとも。
そんなことをつらつらと考えながら眠りについた。
靄の中を李世民が歩いていると、眉目秀麗の若者が向こうからやってきた。
若者は跪いた。
「大唐国の皇帝陛下!どうか私の命を救ってください」
「お前は何者だ」
「私は涇河に住まう龍王でございます。私は、賭けに夢中になるあまり雨の予定を曲げてしまいました。そのため、天上の玉帝陛下の怒りを買ったのです」
李世民は今日の夕方の雨のことを考えた。
この龍が予定通りに雨を降らせなかったことで、運命の狂った者もいる。
玉帝の怒りはそのためかもしれない。
「朕も“人中の龍"と呼ばれた男だ。同じ龍のよしみで助けてやろう。して、何をすればお前は助かるのだ」
「私は、明日には玉帝の命により魏徴の手によって処刑されることになっています」
「朕の家臣の、あの魏徴か」
「そうです。明日いっぱい、陛下の命で魏徴を足止めしてほしいのです」
魏徴は李世民の腹心で、腹心となるまでには色々あったが、李世民は彼を第一の忠臣と考えている。
「わかった。魏徴のことならば、朕がなんとかすることが出来よう」
「約束通り私を助けてくれたならば、御恩返しをいたします」
そこで李世民の目は覚めたが、まるで現実にあったことのようにこの夢の事を覚えていた。
朝の政を聞く時間となった。
李世民は孔雀の屏風に彩られた廊下を通り、麒麟殿へと出る。
彼が姿を見せると、人々が万歳を唱える声が響いた。
万歳どころか百歳まで生きた皇帝もろくろくいないのにな、と李世民は内心で苦笑した。
彼が朝臣を見渡すと、建国の功臣たち、すなわち長孫無忌・房玄齢・高士廉・尉遅敬徳といった者達の中に魏徴の姿だけがなかった。
李世民は功臣のひとり徐世勣を側に呼び寄せて切り出した。
「実はおかしな夢を見たのだが……」
徐世勣は李世民の話を聞くと、ぽつぽつと話し始めた。
「陛下は荘子の残した“胡蝶の夢"という話をご存知ですかな」
「老荘のたぐいは読まんな」
「それはこの様な話です。“私は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。胡蝶は夢の中でひらひらと楽しく舞っていた。私であることは念頭になかった。しかし、目覚めてみれば私であって胡蝶ではない。私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て私となっているのか、いずれが本当か私にはわからない"」
「つまり、あれが夢だこれが現実だとはっきり切り分けられるものではない、ということか」
理解の早い李世民に、徐世勣は微笑んだ。
「その通りでございます。夢が気になるのであれば、夢での約束通りに魏徴を一日おそばに止めおくがよろしいかと」
◇
李世民からの呼び出しがかかり、風邪気味のために家で寝ていた魏徴は慌てて支度をして出仕した。
「ご老体を呼び立ててすまんのう」
李世民はそう言いつつも政治に軍事にと魏徴と熱い議論を交わして過ごし、遂には午後になった。
「そうだ。久しぶりにどうだ、一局」
李世民はそう言うと、宦官達に碁盤を運ばせてきた。
李世民と魏徴の囲碁の腕は互角だったが、魏徴は微熱によって長考が多くなり、ついに彼は居眠りをはじめた。
李世民は老いた魏徴を見て、過去のことを振り返った。
魏徴はもともと敵方の軍師であり、降伏してからは李世民の兄である李建成の教育係となった。
兄の李建成と李世民が対立するようになると、魏徴は兄へしきりに世民の排除を吹き込んだ。
李世民が兄を打倒すると、捕縛された魏徴は敢然と言い放った。
「李建成様が私の策を容れてくださったなら、このように悲惨なことにはならなかった」
この気骨が気に入って、李世民は魏徴を助命し、取り立てた。
魏徴は助命の恩を気にして萎縮することはなく、李世民に過ちがあれば直に諫言をしてはばからなかった。
そんな魏徴もずいぶん小さく、背中も丸まってきた。
李世民は魏徴の背にそっと毛布をかけてやった。
うたた寝している魏徴を李世民が眺めていると、何やら庭園の方で悲鳴があがった。
「騒がしいな。何事か」
李世民が問うと、功臣のひとり秦叔宝が血のしたたる何かを持ってやってきた。
「こんなものが庭に落ちてきたのでございます」
それは龍の生首であった。
折しも、魏徴が目を覚ました。
「は、陛下これはとんだご無礼を……この首は、夢の、なぜここに」
「魏徴、夢の中で何があったのだ」
「わたくし、夢の中で天上の皇帝に命ぜられて、一匹の龍を斬首したのでございます」
李世民は青くなった。
龍の目がカッと見開き、李世民を見据えて言った。
「約束を違えたな」
李世民はばったりと倒れ、昏睡状態に陥ってしまった。





