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第28話 釈門の千里駒

 「玉玲ぎょくれい、玉玲か」


劉洪りゅうこうは、自らが殺してしまった妹分に呼びかけた。

薄靄の中に立つ玉玲は啜り泣いていた。


「なぜ泣いている。俺に殺された恨み言か?」


「違うわ。兄さんが報いを受ける時が来たからよ。だからあの時、止めたのに」


「あれから10年以上経ったが、俺にはなんの報いもなかった。神も仏もいねえってことさ」


「可哀想な兄さん」


薄靄の中を静かに背を向けて去っていく玉玲を追い、肩に手をかけて呼び止める。


「おい、どういうことだ……」


振り向いた玉玲の顔は自分そっくりの、陳光蕊ちんこうずいの顔に変じていた。


汗びっしょりで目覚めた劉洪、陳光蕊を殺して江州長官に成り上がったこの男は、寝所からただならぬ気配に気がついた。

戸を開けて、廊下に出る。

使用人達が慌ただしく走っている。


「何事だ!」


「わわわ私たちにもさっぱり。捕り方が外に……」


窓から顔を出して外を覗くと御用提灯が十重二十重とえはたえ、戎装した軍勢が屋敷を取り囲んでいた。

両手に鉄鞭てつべんを構えた将が大声を張り上げる。


「偽の長官よ、出てこい。大人しく縛につけっ!」


「偽の長官ですと?何のことやら。私が丞相の娘婿と知っていて、なおこのような言いがかりをつけるのですか?」


「ぬかせ!本物の陳光蕊ちんこうずい殿の息子が生きており、真相にたどり着いたのだ。彼は丞相夫人が送った産着を持っていた。天網てんもう恢々かいかいそにして漏らさず、というのはこのことだな」


将軍の隣の馬に乗る僧形の男が顔を上げた。

自分を睨みつけるその青年の顔は、陳光蕊によく似た面差しをしている。

劉洪は妻が流産したと言っていた子供の事を思い出した。

妻は亡くした子を見る悲しみに耐えられず独断で川に死体を流したと言っていたが、生きていたとは。


「ちっ、バレちまっちゃあ仕方がねえ。いたちの劉洪はただじゃあ捕まらねえ!最後っ屁をかましてやるぜ」


「ふん、この尉遅敬徳うっちけいとくを知らんと見える」


大唐帝国建国の功臣、古今無双の英雄である尉遅敬徳の名を聞き、劉洪の顔も引き攣った。

敬徳は鉄鞭の一撃で容易く屋敷の門を叩き壊す。

屋敷の中に兵がなだれ込んだ。

劉洪は袖をちぎって口元に巻くと、燭台の火を蹴倒して屋敷に火をつける。

煙に巻かれた兵士の咳き込む大の方向に斬りつける。

煙の中に悲鳴が続く。

中庭から柱を伝って屋根に登る。このまま屋根を伝って外に飛び降りればあるいは……。

しかし、劉洪はそこで足を止めた。

勢いで火をつけたが、この火災の中で妻は無事だろうか。

待て待て、今回の事がばれたのも、結局はあの女が何かしたに違いないのだ。

だがしかし……。

階下にある妻の部屋の方向に目を転じると、死んだはずの陳光蕊が廊下を走っている。

ひっ、と悲鳴を上げる間もなく劉洪は脚を滑らせて池の中に落ちていた。

違う!あれは陳光蕊の息子だ。何を馬鹿なことを俺は考えたのだ。

もがきながら池の淵にたどり着き、水を滴らせながら這い上がると、眼前には陳光蕊でもその息子でもなく、尉遅敬徳が立っていた。


「もう一度言う。縛につけ」


劉洪は頭を下げるふりをして帯に隠した匕首に右手をやる。

ゴッ、という鈍い音がして右手と肋骨がくだけた。

尉遅敬徳の鉄鞭が手の甲を突き破り、胸にめりこんでいた。


「救えぬやつめ。天誅!」


振り下ろされるもう一本の鉄鞭がやけにゆっくりと見えた。

脳裏に浮かんだのは殺してしまった妹のこと、そして長く連れそう内に愛するようになった妻のことであった。

劉洪の頭は西瓜割りのように砕け散り、その衣は朱に染まった。


 煙の中をかきわけて玄奘は母の元へと向かった。

ついに母のものと思しき部屋を見つけ出す。


「母上、助けに参りましたぞははう………」


玄奘が目にしたのは、天井からだらりとぶら下がる母の姿だった。

縄を切り、落として脈を確認するが、手遅れであることは誰の目にも明らかだった。

しばらく呆然としていた玄奘であったが、母の亡骸の傍らに遺書を見つけた。

開いてみると一言だけ書いてあった。


ーー父のためによく仇を討ってくれましたーー


玄奘は遺書を取り落とした。


「父のため、父のため……私のやったことは、母のためには、ならなかった、ならなかったのだ」


玄奘は床に臥して、哭いた。


事件から数週間が経っていた。

世間では父の仇を討った玄奘の親孝行ぶり、二夫に仕えたことを恥じて死んだ玄奘の母の悲劇などが話題となっていたが、それもようやく落ち着き始めた頃だった。

丞相府では玄奘の外祖父である殷丞相いんじょうしょうと僧侶が向かい合っている。


「玄奘は、本当にもう大丈夫なのかね」


殷丞相が問うのは、玄奘の育ての親である法明ほうめい和尚である。


「あの子は強い子です。立ち直りますとも。それで例の話なのですが……」


法明は殷丞相に、自分が玄奘に教えられることはもう残っておらず、その才能は片田舎の寺院で終わるような規模のものではないと熱弁を振るった。


「和尚がそこまで言われるのならば、あいわかった。皇帝陛下も玄奘の事件を聞いて気にかけておられる。玄奘が都下の洪福寺こうふくじで更に進んだ教育を受けられるように取計ろう」


法明が寺に戻って更に数週間の後、金山寺に迎えの一行がやってきた。


「そんな寂しい顔をするでない。お前の人生はこれからなのじゃから」


法明和尚は玄奘の肩を叩いた。


「私は母を救えなかった。そんな者にこれからがあるのでしょうか」


「あるとも。その悔しさを忘れずに、多くの迷える者を救う立派な僧侶となりなさい。さすれば、そなたはいずれ釈門しゃくもん千里駒せんりのこまとなるだろう。励みなさい」


遠ざかる玄奘の一行を、法名和尚はいつまでも門から見つめていた。

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