第23話 救われざる者
観世音菩薩と恵岸行者は東土を目指してなおも進んでいく。
すると、目前に立ちはだかる連山の中心から、金色の光が天に向けて放たれているではないか。
「お師匠様、あれは例の暴れ猿めを封じた五行山ではありますまいか」
「斉天大聖が封じられたという、かの山か。様子を見てみよう」
二人が山の頂上に降り立つと真言の記された札があった。
観世音菩薩はその真言を眺め、嘆息した。
「あれほどの法力を持ちながら、傍若無人の振るまいにより、ついに我が仏、釈迦如来の手によって封印されてしまった。実に惜しいことだ。あの力が正しい道のために使われれば、救われる者もあっただろうに」
その時、地の底から響く声があった。
「誰だ……俺を嗤うのは」
二人は山を降り、声の在り処を探った。
山の麓に半洞窟のような穴が開いており、暗闇の中から赤い目が二つ輝いている。
「嗤ったりするものか。お前のような優れた術者が、ここでこうして朽ちていくのを、私は惜しいと思ったのだよ」
「貴女は、観世音菩薩……!救苦救難大慈大悲の菩薩……その呼び声にふさわしい方ならば、俺をここから、出してはくれまいか」
その弱々しい声に観世音菩薩は憐憫の情を催したが、釈迦如来のやったことを軽々に覆すわけにもいかない。
「ならぬ。お前の罪はそれほど重い。また悪さをせんとも限らんしな」
「この山に封じられてから、一日が一年のように感じます。少なくとも五百年は過ぎました。其処から先は数えるのも億劫です。俺にもう、悪事を働く気はありません。ここから出たら、御仏の教えに帰依し、潔斎して故郷の山で静かに暮らそうと思います」
「何?御仏の教えに帰依する、そう言ったか」
「ええ、いけませんか?私はお釈迦様の力に触れて、ちっぽけな自分を知ったのです」
「とんでもない!偉いぞ、斉天大聖よ。……そうだ、お前にぴったりの仕事があるのだ。しばらくの後、取経の僧が、天竺を目指して旅をする事になっておる。お前にその護衛を頼みたい。どうだ?やってみないか」
暗中で赤い両の目が、瞬いた。
「やります!やりますとも!」
「よし!それならば、取経の僧がお前の封印を解いてくれるだろう。お前はその弟子となり、共に天竺へ向かうのだ。法術により、悪人や妖魔から、その人を護れ。ただ、荒事を任せたからといって、無益な殺生はいかんぞ」
「心得ました!ました!」
「うむうむ。それではお前に法名を与えてやろう」
「孫悟空」
悟空の声に恵岸はびっくりして返した。
「こら、お師匠様が法名をつけてくださるというのに、自分でつけるやつがあるか」
「俺の思いつきじゃありません。この法名は、お世話になった方にいただいたんです。その人の事は、菩薩様にも言えませんが……」
観世音菩薩はしかし、この法名が殊の外気に入ったのだった。
「他に選んだ弟子二人にも、悟という字を法名に入れている。お前の法名が悟空というのも、御仏の導きであろう。善きかな、善きかな。孫悟空よ、必ずや天竺の大雷音寺まで取経の僧を守り、三蔵の経典を南贍部洲にもたらすのだ。その時、お前は証果を得るだろう」
こうして、取経の僧を取り巻く旅の一行が選定されたのであった。
観世音菩薩は再び南贍部洲は大唐国を目指して進んでいく。
肝心の取経の僧を探さねばならないからだ。
◇
蟻塚のような奇岩が立ち並ぶ渓谷に、一本の炭化した老木が生えている。
灰色の巨大な鸚鵡が、その枯れ枝にとまっている。
その鳥はまるで木と同化したように目をつむり、身じろぎ一つしなかった。
寒々とした虚空の一角に、罅が入った。空は硝子のように砕け散り、割れたその先には暗闇が広がっていた。
闇の中から、空中を歩いて一人の女性が現れた。遊歩道をあるくかのように、軽やかに老木の前に進んでいく。裸足で、薄紫のゆったりとした衣を着ている。
老木の前に女性が降り立つと、鸚鵡はぱちりと目を開き、木の下にがばと伏した。
「お早いお目覚めですね。ご主人様におかれましてはご機嫌麗しく……」
「麗しくはない」
女性が手をかざすと鸚鵡の舌からみるみる草が生えてきて、蕾が出来、咲くと紫色の蓮の華になった。
女性は花を摘み、その香りをかいだ。
「また、よからぬことを企んでいる奴がいる」
「それはいけませんね。つぶしてやりましょう……ところで、今回はどういった趣旨でその姿を?いや、可憐ではありますが」
「当てつけさ」
女性がそう言うと、鸚鵡は人間の声で笑った。
女性も微笑み返す。
「今回は…そうだな。波旬菩薩とでも、名乗っておくか」
波旬菩薩は顔を上げて西の空を見つめる。
その見据える遥か彼方には、大雷音寺があるのだ。
大雷音寺では、阿難が釈迦如来に変事を告げていた。
「遥か南の空に扉が開き、異界の何者かが現れたようです。あれは一体……」
釈迦如来はどこか悲しげな面持ちでつぶやいた。
「我らには救えぬ者だ」





