第21話 野ブタをプロデュース
ーー満足って、なんなんだろうなーー
沙悟浄と別れた観世音菩薩と恵岸行者は東土を目指して進んでいく。行く手を見ると大きな山が聳え、その頂上にはなにやら瘴気が漲っていた。
「お師匠様、あれは」
恵岸行者が振り向いたその時、一陣の狂風が巻き起こり、観世音菩薩を取り巻いてしまった。風の中には、不気味な怪物の姿があった。
「ブヘヘヘェッ!仙女ちゃん、寄り道していってよ。おいらとイイことしようぜぇ」
観世音菩薩に抱きついて胸をまさぐっているのは、耳は団扇のよう、顔は鬼灯のように膨れた、上向いた鼻と長い口の化物だった。肥った身体の上にぼろぼろの服を着て、ガビガビに錆びた鎧を着けている。手には馬鍬のような物を構えている。
「おい、豚野郎!お師匠様からその汚い手を離せ!」
恵岸行者が渾鉄棍を振り下ろすと、化物は馬鍬で素早く受ける。
「男に用はねえッ!」
化物が鼻を鳴らすと、馬鍬が金色の光を放ちはじめた。
「ひとの恋路を邪魔しやがって。てめぇの綺麗な顔を面白くしてやるぜ」
「いかん!避けろ、恵岸!」
観世音菩薩の声に従い、恵岸行者がすんでのところで身をかわすと、馬鍬から放たれた光が地面に当たった。
すると、光が当たった部分がまるで鍬を何十回も入れたように、ざくざくと土を巻きあげて瞬く間に開墾されてしまった。
身体に当たってしまったら、どうなっていたかわからない。
恵岸行者は冷や汗が背を伝うのを感じた。
「ブヒヒッ!怖いか!おいらの馬鍬は太上老君様の特別製、かなうものなどいやしない。この女は俺が末永く可愛がってやるから、安心してとっとと失せやがれ」
「調子に乗るなよ、豚」
観世音菩薩が手に持った蓮の花をくるりと回転させると、たちまち頭が蓮の花を模した錘に変貌した。
観世音菩薩は錘で化物の股間を打ち据えた。
「あ、あ、俺の大事なせがれが」
豚の化物は股間を押さえて、地上に落下していった。
うずくまる化物の傍らに観世音菩薩が降り立った。
「このくらいで潰れるタマではあるまい。朱元帥よ」
「あ、ホントだ、ついてる!……なんでおいらが天蓬元帥の朱様だって知ってるんだよぉ」
「私はお前がいつかの蟠桃会の折に、嫦娥に抱きついて連行されていくのを見たことがある。あの後、何がどうなってそんな残念な事になったのだ」
豚の化物は目をごしごし擦ると、アッと声をあげて急に土下座をした。
「か、観世音菩薩様でしたか!とんだご無礼を」
◇
豚の化物は、自分の過去をやけに饒舌に語った。
外界で仙術を会得した朱というこの男は、醜く肥ってはいたが、その頃は人の姿をしていた。
やがて、天界から天将の一人として迎えたいと使者がやってきた。
天界の水軍提督、天蓬元帥となった朱は、凶星の討伐で名将との名を馳せた。
功績により、太上老君の造った釘鈀という武器を下賜されたほどであった。
恵岸行者が言う。
「お前はなぜ、そんな栄光の生活をかなぐり捨ててしまったんだ」
朱の目に、どんよりとした暗い澱が覗いた。
「おいらがききたいぐらいさ」
仙人になっても、天蓬元帥になっても、朱の心は満たされなかった。
何をやっても満ち足りない。おまけにそれが永遠に続くときている。
満足ってなんなんだろうな。
ああ、それにしても嫦娥様は綺麗だなぁ。寝台の上では、どんな顔をするんだろう。
ツンツンして見えるけど、意外とああいうのが攻めると弱かったりして……。
蟠桃会でそんな事を考えながら、しこたま酒を飲んでいた。
気がつくと、月の女神である嫦娥に抱きついていた。
「きゃぁ!この慮外者め、うす汚い手を離せ!」
我に返った朱は、しかし、開き直って嫦娥の胸を揉みしだいた。
「つ、つれないこと言うなよ!こんな毎日が永遠に続くんだ!一回くらい、おいらみたいなのとシてもいいだろ!」
捲簾大将に後ろから月牙鏟で殴られて昏倒し、気がついたら牢の中だった。
その後、鞭で打たれた上で追放された。
霊質に分解されて地上に落ちる中で、豚飼いの夫婦を見つけた。しめしめ、あの嫁の胎に落ちて、人として生まれ変わろう。
「ところが、おいらは狙いを外し、夫婦が飼っていた雌豚の胎に落っこちてしまった」
世にも醜い豚人間として産声をあげた朱に、親や兄弟であるはずの豚達が襲いかかった。
親兄弟を噛み殺した朱は、近くの山に逃げ込んだ。
「それがこの山だ。ここには、年をくった兎の女妖魔がいて、おいらをお婿さんとして迎えてくれた。ババアだったけど、良い女だったぜ。アッチの方も上手でさ。さすが経験が長いと……」
観世音菩薩は涼しい顔で遮る。
「そのくだり、掘り下げなくていいから」
ところが女妖魔は不老長生というわけではなかったから、寿命がつきて死んでしまった。
朱は、山と洞窟と財産を受け継いだ。
「それから、ここを通る旅人を襲っては食べてたんだ。気ままな食人生活さ」
「お前も人喰いか!」
「あ、女は食べてないよ!何回か相手してもらって、飽きたら放してあげてたんだ。おいらって紳士だからさ」
ブヒブヒ笑う朱元帥の目には、どろりとした何かが映っていた。
恵岸行者はこの妖魔がいくら明るく親しげに話しかけてきても、いや、親しげに話せば話すほど、肌の粟立つような不快感を感じた。
恵岸行者は渾鉄棍を構え、観世音菩薩に問いかけた。
「こいつは滅しましょう。元が天将であっても、ここまで堕ちては救いようがありません」
「待て。こういう碌でもない奴にも救いの道を示すのが、御仏の教えではないか」
朱元帥はわなわなと震え出した。
「救い……救い」
朱元帥は急に地に倒れ伏すと、ワァワァと声を上げて鳴き始めた。
「おいらを、おいらを、殺してくれぇッ!」
悲痛な叫びが山谷に木霊した。
「救いなんてないんだ!何を食べても、誰を犯しても、おいらは空っぽだ!そんなのわかってる!だのに、毎日、口は寂しいし、せがれはおっ立つ!こんなの、こんなの、もう耐えられねぇ!」
観世音菩薩は肩を震わせて泣く朱元帥の頭を優しく撫でると、言った。
「御仏は生きることの苦しみを説かれた。お前は、永遠の命を手に入れた事で、返ってその苦しみを強めてしまったのだな。だが、罪を得たまま死んだとて、輪廻の輪に飲み込まれるだけ。生きて、罪を償え。そして、執着を捨てて、悟りを開け。それがお前を救うことになるのだ」
「おいらに、そんな事ができるんですか」
「まずは、何か誓いを立てろ。ぎりぎりこれなら出来るかな、という程度のものでいい。それを守って、いつか来る取経の僧を待っているのだ」
朱元帥は顔を上げた。その目から、どろりとした例の沼のようなものが消えていた。
「取経の僧?」
「遠くない未来、正しい教えを南贍部洲に伝えるために、心清らかにして挫けぬ僧が、取経の旅をはじめるだろう。お前はその僧を守り、天竺まで行くのだ。それがお前の罪を償うこととなる。その旅が終わるとき、お前は証果を得て、覚者となるだろう」
朱元帥は、顔についた泥を拭うが、返って顔全体にのびてしまった。
「おいら、やるよ!その坊さんを守って、天竺まで行く!」
観世音菩薩が蓮の花を振ると、朱元帥の顔の泥がきれいに落ちていた。
「お前は今日から新しい人生を歩むのだ。姓を猪と改め、法名を悟能と名乗るがいい」
「猪悟能、おいらの名は猪悟能……」
観世音菩薩と恵岸行者が山を後にするとき、猪悟能はいつまでも、いつまでも手を振っているのだった。
恵岸行者は思う。豚っぽいから姓が猪って、安直すぎはしないかお師匠様、と。





