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第20話 君よ憤怒の河を渡れ

 ーー俺がこの方の命を守っている。……つまり、それは俺が命を握っているのと同じなのではないかーー



観世音菩薩と恵岸行者は瑞雲に乗り、ある河のほとりまで来ていた。観世音菩薩が高く昇って見てみると、その川幅は八百里、上下すれば幾千万里の長さであろうか。南は烏弋(うよく)、北は韃靼だったんの地まで続いている。


「これが世に聞く弱水じゃくすい流沙河るさがか。取経の僧は肉眼凡胎にくがんぼんたい、つまり超常の力を持たぬ普通の人間だ。この難所を超えるのは中々骨が折れよう」


「お師匠様、私が川辺りを見て、渡る術がないか確かめて参りまする」


恵岸行者が降りていき、河に鸚哥の羽を一枚浮かべると音もなく沈んでいった。


「鴻毛も浮かべぬとはこの事か、はてさて渡し守もいないようだし、いかがしたものか」


その時、水面からザブンと音を立てて跳び上がる者があった。


「妖魔か!」


「ケーッ!この河を渡るものは全てこうなってもらうぜぇっ!」


妖魔は首からさげた九つの髑髏を弄ぶと、長い柄の両端に三日月形の刃とノミのような刃がついた武器を振りかぶった。

その肌は青いような黒いような不気味な色合いで、赤々としたざんばら髪の間から妖しく丸い両目が光っている。

口を開くと剣のような歯が並んでいる。手には水かきのような膜が見えた。


「なんの、この渾鉄棍を受けてみよ」


恵岸行者が雲に乗って一瞬で妖魔の背後に回り、渾身の一撃を見舞う。鐘を叩いたような音が響く。


「効かないだと!なんだこれは……」


「ケッケッケ!俺の甲羅にそんじょそこらの武器は通用しないぜ!今度はこっちの番だ」


妖魔の持つ武器が光り、凄まじい速度で恵岸行者に振り下ろされた。

恵岸行者はすんでのところで渾鉄棍を用いて受け止める。

妖魔は負けじと水面に渦を作る。

渦から水流がほとばしり出て恵岸行者を襲う。

避けるのがやっと、というところだ。


「妖魔よ!その武器、月牙鏟げつがさんに見覚えがあるぞ!そなたは、呉将軍ではないか!」


観世音菩薩の澄んだ声が響き渡る。


「俺の来歴を知っている……あなたは一体」


妖魔は渦をつくるのをやめて、川辺りに上がってきた。

青黒い肌に亀の甲羅、赤い髪に水かき、髑髏の首飾りに腰蓑。

その中で武器の月牙鏟だけが豪奢で異彩を放っている。


「私は観世音菩薩である。釈迦如来の命を受けて旅をしている。捲簾大将けんれんたいしょうの呉将軍よ。何故に、そのようなあり様になったのか」


「捲簾大将?玉帝の身辺を護衛する高官ではないか」


妖魔は目を光らせて、ぽつりぽつりと語り始めた。


「如何にも。俺は元は玉帝を守護する捲簾大将であった。ある蟠桃会の折、玉帝の大切にしている玻璃の器を割ったがばかりに官位を剥奪され、下界に落とされた」


観世音菩薩は、何かを思い出した様子だ。


「玻璃の器……」


沙悟浄は訥々と続ける。


「俺の霊質は、この河に落ちる過程で様々な魚介と融合し、遂にこのような浅ましい姿になってしまったのだ。爾来、俺は河を渡ろうとする者を片っ端から殺して喰って生きているのさ」


恵岸行者は納得いかない様子だ。


「いくら玻璃の器が大切な物だったとしても、いきなり追放とは罰が重すぎはしないか」


「そうだ!酷いだろう!だから、俺はここで玉帝を呪い続け、人を獲り殺し続けるのだ」


観世音菩薩は突然妖魔の頰を平手打ちし、怒鳴った。


「馬鹿!玉帝はお前に情けをかけてくださったのだ!謀反人のお前にな」


妖魔は血の盆のような口を開いて、何か言いかけたが、黙ってしまった。


「どういう事なのですか、お師匠様」


観世音菩薩が手にした蓮の花を振ると、三人の眼前に過去の情景が映しだされた。


 そこには釈迦如来が玉帝に玻璃の器を献上する様が映っていた。


「陛下、観世音菩薩が造ったこの玻璃の器は、持つ者の邪心を映します。反意を持つ者がこれを捧げ持つと、これから為そうとする悪事が映るのです」


「ははは、如来よ。私の身辺にそのような不心得者はおらんよ」


「念の為、で御座いますよ」


続いて捲簾大将の姿が映る。捲簾大将は壁にかけられた玉帝の衣を見た。これは着れば七十二般どころではない、何にでも変化できる、仙術の結晶のような衣であった。背後を振り返ると、玉帝は寝台で眠りについているようだ。捲簾大将は独りごちる。


「俺がこの方を守っている。……つまり、それは俺が命を握っているのと同じではないか」


蟠桃会が催された。捲簾大将が玻璃の器を捧げ持つ。その器に、捲簾大将が玉帝の衣を着てその姿に化け、月牙鏟で寝ている玉帝の首を掻こうとする姿が映り込んだ。


「な、なんだこれは!俺はこんな事はしない!」


狼狽した捲簾大将は玻璃の器を落として割ってしまった。

捲簾大将は表向きは玻璃の器を割った事を理由に獄に繋がれた。

玉帝は釈迦如来を呼んで尋ねる。


「あれは、本当に朕を殺そうとしていたのか。とても信じられぬ。あの誠実な男が……」


「あの雑な作戦、とても計画段階にあったとは思えません。思いつきの心中が、映しだされてしまったのでしょうな」


「……そういうものか。今一度聞くが、あの玻璃の器のからくりは限られた者しか知らぬという事で良いか」


「私と陛下、そして観世音菩薩のみが秘密を知っています」


「謀反の心があったと近臣達が知れば、必ず処刑せよと騒ぐであろう。しかし、朕はまだ具体的に何かをしたわけでもないあやつを処刑することに躊躇いがある」


「それこそが慈悲の心です。陛下は真の聖君ですな」


「おべっかはよせ。そこでだ。あの器は朕のお気に入りだった。そういう事にする。よって、呉将軍は官位を剝奪して追放。これで、どうだ」


釈迦如来は少し表情を曇らせた。


「それでは、陛下が物を壊されたくらいで激怒する、心の狭いお方だと誤解されてしまいます」


「ふん、無駄に血を流して寝覚めが悪くなるよりマシだ」


釈迦如来は微笑んだ。


「やはり、陛下は真の聖君でいらっしゃいますよ」


 過去を映す幻が消えると、妖魔はその場にへたり込んだ。


「俺は……情けを……かけられていたのか」


観世音菩薩が声をかける。


「化物の姿に変わったとて、人を獲って喰らわなければならない決まりなどない。無益な殺生は罪を上塗りするだけだ。……真実を知ったところで、やり直す気持ちはないか」


妖魔の目に光が宿った。それは先程までの殺気に満ちたギラついた光ではなかった。


「俺は、俺はやり直したい。方法があるならば教えてくれ……ください」


「これからこの地に、天竺まで取経のために旅をする僧侶が訪れる。その者を護ってほしい。無事に旅を終えられたならば、汝は証果しょうかを得て、聖なる者へと戻る事が出来るだろう」


妖魔は平伏する。


「必ず、必ず取経者を護り、天竺まで参ります」


観世音菩薩は妖魔の頭に手を置くと、言った。


「よし、今日からお前は生まれ変わるのだ。姓をこの流沙河から取って、沙と。法名を悟浄とするがいい」


沙悟浄さごじょう、俺の名は沙悟浄……」


観世音菩薩と恵岸行者が沙悟浄に別れを告げて、立ち去ろうとすると、沙悟浄は何かを思い出したように急に呼び止めた。


「この首飾りを供養したく存じます」


沙悟浄が言うには、殺して食べた人間の骨を河に投げ入れた時、取経者の頭蓋骨だけが沈まずに浮かび上がってきたのだという。悟浄はこの事を不思議に思い、取経者の髑髏だけ首飾りにして取っておいたのだ。


「流石に仏道に帰依する者が人の髑髏など持っておれません。観世音菩薩様にお経を上げていただき、ここらで荼毘に付したいと思います」


観世音菩薩はしばし思案したが、このように答えた。


「それはもっともな考えだが、その髑髏が浮かび上がったことには、何か御仏の導きがあるのかもしれん。私が選ぶ次の取経者が来るまで、大切に取っておきなさい」


「は、仰せのままに」


観世音菩薩と恵岸行者はこうして流沙河を後にしたのであった。

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