第19話 トライピタカ
悟空が釈迦如来に退治されてから多くの歳月が過ぎ去っていった。
ここは西牛貨洲の果て、雷音寺。
俗界と天界の狭間に揺蕩う幻の寺である。
雷音寺最奥の蓮華座に座る釈迦如来は、鏡に世界の様子を写し、ため息をついた。
「東勝神州の者は天を敬い地を崇め、平穏に暮らしておる。北倶盧洲の者は悪事をなすと言ってもそれは糊口をしのがんとするため、愚か故に悪知恵も働かぬ。我が西牛貨洲の者は、貪らずして殺さず、気を修め、長寿を得ている。しかるに、この南贍部洲の者達は……」
迦葉が、苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「ここ五百年くらい、ずうっと戦争をしておりますなあ。飽きもせず、ようやる」
鏡には隋国で大反乱が起き、血で血を洗うような激しい内戦で多くの人々が傷つき倒れていく様が映しだされていた。
阿難が涼しい顔で言う。
「淫を貪り、禍を楽しみ、殺しも争いも共に多い。諍いの凶場、悶着の悪海、と言ったところでしょうか」
釈迦如来が手をかざすと御堂から経典が浮かび上がり、その眼前に浮遊し始めた。
「ここに三蔵の真経がある。これを南贍部洲にもたらし、衆生を救いたい、と私は考える」
迦葉がパッと顔を明るくする。
「善きかな、善きかな。して、その三蔵とはどのようなものでございますかな」
「法が一蔵、これは天を語るものだ。次に、論が一蔵、これは地について説くもの。そして、経が一蔵。これは鬼神を済度するものである。計三十五部あるが、数はまあいい。問題はこれをそのまま渡してもすぐに失われ、有効に使われないということだ」
阿難が師の言わんとするところを察して、返す。
「誰か責任を持ってこれを広める、適任の信者が必要ということですか」
「その通り、そして、この経典は苦難の末に手に入れなくては本来の力を発しない。そのため、ここまでこの経典を取りに来させねばならないのだ。長旅を成し遂げる強い意志を持つ、僧の中の僧を見つけ出さねばならん。鋼の意思を持つ取経僧を、探さねばならないのだ」
その時、蓮の香りを漂わせて、美しい女菩薩が御堂の中に入ってきた。黒髪もつややかに、碧玉の紐で白絹の袍をしめ、錦の袴に金糸の策が映える。
「私めにその取経者を探す任をお与えいただけませんか?不束者ではございますが、必ずや適任の者を見つけて参ります」
「おお、観世音菩薩か。そなたであれば間違いなかろう」
釈迦如来が右手をかざすと、そこには光輝く宝貝が五種類現れた。
「取経の道のりは、いかに意志の強い者でも険しいものとなるだろう。そこで、この錦襴の袈裟と九環の錫杖だ。これは取経の者に渡してほしい。妖魔から身を守ってくれる。ま、欲深い人間は逆に狙ってくるかもしれんが……」
次に三つの金の輪が浮かび上がった。
「これは緊箍児という宝貝だ。それぞれに金・禁・緊という三つの呪文が施してある。これを相手の頭に嵌めると肉と一体化する。そして呪文を唱えると激しく締め付けて、痛みのあまり言う事を聞くようになる」
観世音菩薩は怪訝な顔をする。
「いささか物騒ですね。何のために用いるのですか」
「ふふふ、蛇の道は蛇と言うからな。そなたは道中で神通広大な妖魔に出会ったならば、その真の性を見定めよ。善性がかすかに残る者であれば、その妖魔を取経僧の弟子になるよう説得するのだ。言う事を聞かない場合はこの宝貝を使え。かくして、強力な妖魔をもって、妖魔から取経僧を守る護衛に変えるのだ」
観世音菩薩は釈迦如来の御心を知り、五つの宝貝を持って出発した。白い鸚哥が門の前に止まると、たちまち渾鉄棍を構えた木叉こと恵岸行者の姿になった。こうして、観世音菩薩は恵岸行者を伴にして、取経僧とその護衛を探す旅に出発した。