第11話 じゃじゃ馬ならし
悟空の觔斗雲は凄まじい速度で太白金星の乗る瑞雲を引き離し、はや南天門の近くまで来てしまった。
厳しい面をした増長天が神兵を率いて悟空の前に立ちふさがる。
「侵入者発見!侵入者発見!直ちに排除する」
「なにぃ?舐めてんのかテメェッ」
あわや殺戮の巷となるところであったが、そこに汗だくになった太白金星がたどり着く。
「待つのじゃ!増長天よ、そいつは新たに仙録に記されることになった者ぞ」
「そういう事であれば……」
大人しく矛を収めた増長天に対し、悟空はあかんべえをしたり尻を叩いたりしながら太白金星に引きずられて行く。
しばらく悪態をついていた悟空だったが、あるところまで差し掛かるとぴたりと口を閉じた。
翆色の玻璃で出来た巨大な門、散りばめられた赤や青の貴石が眩い光を放っている。
左右には黄金の鎧を着た神兵が錦の旗を掲げてずらりと並んでいる。
南天門だ。
門を抜けると柱が立ち並んでいる。
赤や青の混じった大理石のその柱一本一本に意匠の異なる龍の彫刻が巻き付いている。
それらの鱗の一枚一枚が金や銀で出来ている。
すれ違う天女は玉の簪を指し、まとった衣に描かれた星は常に動いて同じ柄でいることがない。
天将の被る兜に彫られた獅子は悟空に吠えかかり、刀はシャンシャンと鳴り響いてこの怪しい客への警戒を促す。
林立する柱の間に覗く三十三の天宮と七十二の宝殿は、そのどれもが阿房宮でも及ばないほど壮麗豪華、橋から見下ろす池には水晶の花や魚が浮かんでは消えていく。
やがて悟空と太白金星はひときわ絢爛豪華な宮殿にさしかかった。門は純金で出来ており、貴石で描かれた彩鳳が目に痛い。
照り映える朱色の壁と柱は消えることのないという三昧の真火を思わせた。
「ここが、玉帝のおわす霊霄殿じゃ」
珊瑚や真珠で出来た回廊を通り、玉座の間に通される。
床は透明で、眼下には雲や虹が映っている。
天将星司の居並ぶその先に黒曜石の階があり、更にその上に金剛石の御簾がかかっている。
「件の妖仙を連れてまいりました」
太白金星が跪いて上奏する。悟空は突っ立ったまま、御簾に向かって一言。
「どうもー」
居並ぶ文武の仙卿はたまげてしまう。
「玉帝陛下になんたる無礼か!今すぐ八つ裂きにしてしまえ」
しかし、御簾の後ろからは優しい声が響く。
「下界の猿に天界の礼儀作法を求めるのも酷なこと。罰するには及ばん」
玉帝は人事を司る武曲星君に空きの官職がないか調べさせた。
「御馬監の主管、弼馬温だけが欠員です」
「よし、ではそれに任ずる」
悟空はなんだかよくわからないが取り敢えず得意になって宙返りを打つのであった。
◇
弼馬温の朝は早い。
まだ暗い内から起きて馬草を狩り集め、豆を煮て餌をつくる。
千頭の天馬に餌を食わせると、運動をさせる。
「あ、こら赤兎!まて、クソ馬!この棒でもっと赤くしてやろうか!」
下界で名を馳せた名馬ばかりのため、脱走されたりするともう大変である。
しかし、悟空は馬捕りの名人で、時龍だろうが雖だろうが彼に捕まえられない馬はいないのだ。
悟空が弼馬温になってあっという間に一月ほどが経った。
部下達が歓迎の宴席を設けてくれるというので、悟空は上機嫌である。
「いやはや、孫様が主管になられてから仕事が楽になりました。以前は馬に脱走されたら首を括りたい気分でしたが、今やその日の午後には戻っておりますものなあ」
「はっはっはっ、俺様に出来ないことはないのだ」
「まったくもって、こんな馬飼いにしておくのはもったいない御仁ですよぅ」
悟空は盃を取り落とした。
「ど、どうされましたか」
「え、俺の仕事って、馬飼いなの?」
「そうですよ。現に馬を飼ってるじゃないですか」
「弼馬温って言うのは?」
「馬飼いを、なんというかお上品に言った名前ですな」
「位で言うと?」
「もちろん一番下ですが、何か?」
悟空は唸り声を上げて、宴席の卓をひっくり返す。
耳から如意棒を取り出すと御馬監の建物をコナゴナに破壊し、馬という馬を全部逃がして飛び出した。
南天門に駆けて行くと、今度は来た時と違って仙録に記されているので素通りできた。
◇
悟空は花果山水簾洞に戻ってきた。
大王の再度の帰還に猿達は喝采を送る。
例の四匹の白猿が出てきて悟空を出迎える。
「家臣一同待ちわびておりました。まさか十年もお留守にされるとは……」
「うっそ、天界では一月くらいしか経ってないのに。そういうおかしな仕組みになっているのだなぁ」
「して、天界ではどのような官職にお就きになられたのですか」
悟空は顔を歪ませて、歯ぎしりする。
「それがよぅ、お前は弼馬温だなんて言われて真面目に仕事をしていたんだがよ。これがなんてことない下っ端も下っ端、ど底辺の馬飼いだって言うんだよ。ヒッパオンだかパンテオンだかなんか凄そうな響きだからすっかり騙されちまったわい。それでむかっ腹立てて、大暴れしてから、戻ってきたっちゅうわけさ」
「そいつは非道い!大王様、酒で全てを忘れましょう。大王様がいなくなった日に仕込んだ猿酒を記念に開けましょう」
それからしばらくは自棄酒の日々が続いたのだが、ある日海岸に珍客が現れた。
浜辺に泳ぎ着いた二匹の生き物。
長い角はねじった油条のようで、体は砥石みたいな灰色、海豚や海豹にも似たヒレを持っている。
二匹は突然立ち上がると、煙に包まれて道士のような出で立ちになった。
「我ら独角鬼王。孫大王が戻られたと聞き、慶賀の品を持って参った。案内されたし」
二人の妖王の後ろには大きな泡が浮かび、その中には櫃が一つ入っていた。
猿達が二人を案内する。
「見たことない奴らだな。いったい何の妖怪だ?」
「人間どもは我らをイッカクと呼び習わします。今日は孫大王にお納め頂きたい物がございまして、参上した次第」
泡は悟空の前に来ると独りでに割れた。早速櫃を開けると、きらきらと光る橙色の袍が収まっていた。
「おお!かっちょいい服じゃねえか」
「皇帝専用の服、いわゆる赭黄の袍を模した物です」
悟空は大層機嫌をよくして、二人を傘下に加える事にした。新しい舎弟を招いての大宴会、話題は悟空の天界で受けた仕打ちである。
「なあ、ひどいだろ?見る目ないよなぁ玉帝のヤローは」
「は、まったくの節穴でございますな。天にも斉しい大王様にそんな扱いをするなど。そうだ…いっその事、喧嘩を売ってやればいいのです。斉天大聖と号して、天に覇を唱えられてはいかがでしょうか」
悟空は酔っ払った勢いで旗を作らせ、そこに“斉天大聖”と大書きするのであった。
滝の頂上に上り、赭黄の袍を纏う。
ついでに龍王から奪い取った鎧具足を身に付ける。
如意棒をぶん回して、見得を切る。
「ヤアヤア、我こそは斉天大聖孫悟空なるぞ!」
ベロンベロンに酔った悟空がそんな事をしている時、天界では脱走した彼を捕まえるための捜索隊が編成されていたのだが、その話は次回に譲ることとする。