生生流転
ははあ、こいつは夢だ。
木造の洒落た掘っ建て小屋みたいな古びた店内。
磨りガラスの扉、その傍らには丸い小さなテーブルが置かれ、上に桃色の秋桜を咲かせた一輪挿し。
黄ばんだ壁紙。埃を被った剥き出しの電球が三つ、店内を暖色の光に染めている。商品の置かれた台は三つあって、各々は木と石と銅で出来ている。みんな端が欠けていたり苔むしていたり錆びついていたり、お世辞にも良しとは言えない具合の台。
木の台には、クリーム色のテディベアやウサギの置物、野球グローブ型のメモスタンド
石の台には、色鉛筆やクレヨン、筆や硯、大やら小やらの艶やかな千代紙
銅の台には、リンゴが二つ入った編みかごに、バナナが一房下がったバナナスタンド、ミカンは五つ、桃は六つ、橘は一つ
なんて雑多な並びだい。
店に入って真っ直ぐの一番奥に、木製のカウンターと、その向こう側に控えた店主がいる。紺の着物を着て、こりゃまた随分猿に似ている。
ははあ、こいつは夢だ。
だって店の中がみぃんな逆さまだもの。
どれもこれも俺の上にあるから、商品は一つだって手に取れないし、帰ろうったって、そら、飛んでも跳ねても扉に行かん。
猿ヅラの、一丁前に羽織なんか着ちゃってやがる店主が随分上から─相手にとっちゃ俺のが上か・・・─俺にむかって御挨拶。
「ヘイ、ラッシャイ、旦那さん。本日はどのように致しゃーショウ」
どのようにもなにも、俺は一見だ。如何にも存ぜぬ。
応えしようとしたところ、ゴソゴソゴソゴソ、尻のポケットが騒々しい。
なんだいなんだい、どうしたこうした、摘み出すと、赤い布で出来たちいちゃな人形。頭に赤い紐の輪っかが付いている。
こいつは、あれだ。たしかさるぼん・・・ぱたぼん・・・さ、さる・・・さるぼぼとかいう。
そう、そう、こないだお袋の部屋を整理した時、タンスの奥の奥の隅っこのほうで埃をたんまり積もらせてたの。俺なんでこんなの持ってんの?
輪っかを摘んでぶらぶらしてると、「わぁ〜ヤメロ〜目がぁ〜」なんて声。
「なにすんだよぉ〜目がまわって酔っちゃうよぉ〜」
「あ、そうなの?ごめん」
のっぺらぼうなんだけどな。君。
さて、始終を見下ろす店主より一言。
「アッ、ナアンダ。いるじゃございまセンカ」「なにが?」
「坊っちゃんも、おめでとーゴゼィヤス」「わぁい」「なんで?」
「そんじゃ、アタクシめはこれで。毎度アリャリャッッシュ!!」「なんて?」
人の話を聞きやしない。人形は、さっきまで回すな回すなと言っていたくせに、今度は自分からブンブン旋回しておる。人の指を使って。
俺を無視した店主は袂から白い扇子を取り出しパッと開いた。そのパリッとした紙が貼られた扇面には、白地に黒くて大胆な筆文字で『おんりぃONE♡』と書かれてある。
こんなにも良くできたとめはねはらいがこんなにも腹に据えかねることはきっとこの先一生ないだろうな。後生もないだろう。
店主が扇子の要から扇面の先に向かってふっと息を吹き込むと、店内は電球と店主の控えるカウンターと一輪挿しとそのテーブルを残してみんな消えてしまった。
「危ないデスヨォ」
間違いなく言うのが遅かった。天地、つまり床と天井がなくなった。俺と人形と店主─いや店主はカウンターごとちゃっかり消えている。俺は途端に重力が逆さになって、天井だったほう、つまり床だったほうに向かって落ちていく。
そんで?これはいつ覚めるんだい?
ひゅるひゅると、ふわふわあっちこっち飛んでく人形を引っ捕らえながら落ちていく。
「なんだなんだ、俺はどうすりゃいいんだ」
「どうもしないよぉー。オマエはオイラをミッチーんとこへ連れてってくれりゃ良いんだよぉー」
「ミッチー?ミッチーだって?」
さっぱりわからん。誰だそいつは。
「なんだよぉー、オマエってヤツぁー、おっかあの名前を忘れたのかよぉー」
おっかあ。おっかあ。なるほどね。
俺のお袋は聖子っていう。聖子と書いて『みちこ』っていう。つまり人形は元の持ち主のとこへ連れてけって言ってるわけだ。
「あれか、君。長いことタンスの奥の奥で忘れられてたからって、恨みを晴らす気なんだろう?」
言うと、人形はもんのスゴくびびった様子でビョンビョン飛び跳ねるので、俺はまたあっちこっち行かないようしっかり掴んどかなきゃならない。
「そんなことしやしないよぉーっ!オマエと一緒にすんないっ!」
「あれ、なんだ。恨んでないの?」
人形はのっぺらぼうだが、なんだか心なしか憤慨しているようにも見える。顔真っ赤だし。
「恨みっこなんかしないよぉー!オイラは物だからさぁー、忘れられんぼは慣れっこなんだぁー」
物ってそういうもんなんだろか。俺は飼ってたハムスターに忘れられたら三日間落ち込んだけどなあ。
「それにさぁー、オイラ物だからさぁー、ホコリだって嫌いじゃないんだぁー」
「えーそりゃないよ」
「だってさぁー、ホコリはさぁー、オイラのこと濡らしたり破ったりしないしさぁー、オイラはさぁー、鼻がないからさぁー、だから嫌いじゃないんだぁー」
物の常識っておかしいなあ。この人形がとびきり変という可能性も否めんが。
「にしても、なんだってお袋んとこなんか連れてってほしいの?多分会ってもガッカリするだけだと思うよ」
「オマエわかってないなぁー、物ってのはさぁー、ハレの日のお伴が大好きなんだぁー、それが出来たらもう一杯さぁー」
真っ赤なのっぺらぼうは、見るに本当に嬉しそうに見える。実際そのように語る。
はあん、なるほど。なるほどねえ。
物ってのはどうも憐れなもんだね。
「君、名前は何と言うの?」
「オイラ?へへんっ、オイラはさるぼぼだいっ」
なんだ。それじゃあ一辺倒だな。
まあこうして逢ったのも何かの縁さ。名前くらいは考えてやろうか。
「えっ、名前?オイラの名前かい?良いのかい?」
途端、人形はまたビョンビョン跳ね始める。言わなきゃよかったかもしれない。
「おい、おい、あまり期待しないでくれよ。俺にその手のセンスはないんだよ」
「やったあぁーっ、ありがとぉー!オイラすっごく嬉しいよぉー!」
本当に人の話を聞かないな。
ありがとう。ありがとう。人形は繰り返し何度も喚いた。
ところで君は口もないのにどっから喋ってんだろうね。
ああ、そうだった。こりゃ夢だった。
「アラ、アナタ。どうしたの、阿呆面よ」
「それじゃいつも通りだ」
「アラ、本当だわ」
女房は朝っぱらから花を散らすようにはらはらと笑う。
女房はしっかり者だ。家計簿も日記も毎日つけている。家の物の在庫管理までキッチリ把握していて、その上どこへ言っても華々と笑うので、こないだ、そんなにして、そんなに笑顔でいて疲れないかと尋ねたら『女の笑顔は義務なのよ』ときたもんで。
『家でまでやらなくったって良いじゃないの。どうせ俺しかいないんだし』
『アラ、アナタに気なんか使いやしないわ』
しっかり者は性分らしい。
なまけ者の俺から見れば窮屈極まりない生き方だが、女房はこれで良いのだという。
「俺は君がいれば十分だがなあ」
「アラ、私は一人でも十分よ」
俺が見限られないかが問題なんだなあ。
試しに女房の真似して日記帳なんぞしたためようか。二日と持たんだろうね。
ああ、そう、そう、すっかり忘れていた。
夢ってのはどうしてこう波紋のように駆け足で消えるんだろうね。呑気者の俺を見習ってはどうだろうか。
「そうだ。君、『良太』というのはどうだろう?」
「リョータ?なあに?誰の名前?」
「あれだよ、こないだ言っていた」
「アラ、まだ決めていなかったの?もう四十九日も終わって一月過ぎたって言うのに」
おっとこれは心底呆れた顔だ。
無理もないね。俺が夢を見たと話したのは葬式の当日だものな。
あれから色々バタバタしていたもんで、彼を約束通り母と眠らせてやったはいいが、結局名前を決められんまま、今の今までポッカリ忘れていたのだ。
そのまま言っちゃうと説教コースは免れない。
「夢の話でしょう。そんなに真面目に考えていたの?」
「いや〜、いや〜、名前を決めるのは難しいね」
だが我ながらそこそこ良い感じに出来たんじゃないの?なあ、良太。『おうっ、オイラは良太ってんだ!』なーんつって。
「そう、それじゃあ折角だから、この子の名前もそれにしましょう」
「うん、うん、・・・・・・え?」
うっかり箸が転がった。慎重に味噌汁を置いて顔を上げれば、いかにもしてやったりと言いたげな顔の女房。なんだいその顔。子供みたいじゃないか。
「え?ほんと?え?え?ほんとに?」
大丈夫かい、俺の頭は。なんだか処理落ちしたみたく何にも入ってこないんだけど。大丈夫かい、俺の心臓は。胸骨を突き破ってきやしないだろうね。しどろもどろに本当?とえ?を繰り返す俺を心底愉快げに、笑いを必死に堪えるために目尻に涙を浮かべて女房は意地悪そうに言った。
「私は“一人”で十分だけど?」
なんてこったい。こりゃ夢かい?