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アン・ホレリス嬢

ロンドンの人も、犬も、建物も、街灯でさえも、そして風までもがじっと押し黙り、息を殺して夜の闇の中に身を潜めている。月明かりの下に照らされて姿を現わす者は一人としていなかった。まるで全ての人や家や街灯が死人のふりをしているような、静かな夜だった。

アン・ホレリス嬢は厚手のしっかりした生地のコートで冷たい風から身を守りながら夜の道を急いでいた。彼女はとある友人の元へ出かける途中にあった。友人の家は店々の並ぶ街の曲がり角にあり、二階建てのアパートで、ささくれた扉には『ジョーンズ』と書いた禿げた名札が揺れていた。鍵はかかったまま、いつまでも開いたことがない。アンはドアノブをひねろうとはせずに横面に回り、スカートを持ち上げると、雨樋や窓の枠を首尾よく掴んで軽々と二階へ登っていった。

腕と足が千切れそうに痛んだがとうとうアンは二階の開いた窓まで登りつめ、足から先に淑女らしく部屋に入った。

火の気のない暗い部屋の隅のベッドの中で主人のレイモンド・ジョーンズが眠っていた。レイモンドは床板は材木が剥き出しでささくれ立った上で、四面に蜘蛛の巣の張った壁に囲まれて眠る、若いが血の気の失せた顔色をし、病苦に蝕まれて額や目元にも皺が寄っているせいで瑞々しさのない顔立ちの結核患者の青年だった。寒々しい部屋には彼の唸り声が絶えず微かに響いていた。アンはベッドの側に近づくと、レイモンドの白い額に手を当てた。

熱い。アンが素早く聖女の焦燥と衝撃を起こし、水差しで濡らした布を載せていると、程無くしてレイモンドが微かに目を開けた。

アンは唇に指を当てて言った。

「静かにして、喋っちゃダメだよ」

「君か。...今、何時だい」

レイモンドは掠れた声で朦朧と言った。「10時だよ」アンは答え、鳥肌の立つような部屋に気を揉んで、蝋燭を掴んで暖炉へ近づいていった。途端、

「火をつけるな!」

恐ろしい叫び声を上げてレイモンドが飛び起きた。その緊迫した絶叫に、アンは一瞬ぞっとして身がすくんだ。呆然と振り向くと、レイモンドはなおも地獄からの声のような叫びを上げていた。

「あいつが明かりに気づくだろ!あの悪魔がここに来る、ここに俺を殺しに来る!明るくするな、やめてくれ!!」

まったく彼は錯乱していた。彼の言う悪魔、何度かの事件で人々を騒がせた殺人鬼がこの街をうろついていたのは、その恐怖が街を包んでいたのはもう何年も前の話で、そもそもそれは彼がまだ生きた人間だった頃のことだ。さらに暖炉の明かりを止めたところで蝋燭は最初から灯っていたので、部屋には元から明かりがある。しかし、そのようなことは彼にとって何の意味もなかった。ただ、自分の衝動が満たされることが重要なのだった。それはヒステリーだからだ。

アンは怯えていたが、やがておずおずと遠慮がちに、優しい声で言った。

「ごめんね、レイお兄さん。でも、せめて窓を閉めておこうよ。それからやっぱり暖炉もついてた方がいいよ。寒いのは体に良くないし」

アンが滔々とそう語りかけると、レイモンドは以前よりいくらか落ち着いた様子の声で答えた。

「君がその方が良いと言うなら」

そこでアンは急いで窓を閉め、暖炉に蝋燭の火をうつした。そしてシーツの端に腰掛けてレイモンドの顔を見下ろすと、彼はうっすらと微笑みかけた。

「大丈夫?苦しくはない?」

アンが心配そうに声をかけると、レイモンドは微笑んだ。ヒステリーは落ち着いていた。彼の顔には、元の穏やかな知性が戻っていた。時に不安が彼を別人に変えることがあるのである。

「気分が良い。君のおかげだ」

「良かった。アン、なんにもしてないけど」

「そんなことない。毎晩窓から現れる君は、まるで神の使いだよ」

「心配なの。お兄さんが苦しい思いをしているかもしれないと思うと辛くて」

「そう言ってくれるのも君だけだ」

「そんな...。アンがお兄さんのことを気にしない時なんてないよ!」

「...俺だって君を忘れたことはないよ」

アンの気質は子供の純真さと筋の通った思想をそのまま残していて、そのしがらみのない行動はまるで天使だった。顔立ちにも潔白な清らかさが現れ、若い無邪気のために可憐さが見えた。彼女はこの陰気なロンドンの下町では一際輝く美しさを備えた娘だった。アンは楽しげにベッドの脇の机に目を移して言った。

「ねえ、この本!」

そこには真紅の表紙の厚い本が置かれていた。アンは無邪気に目を輝かせて厚い本を手に取った。

「これってニッセンが二十年前に出した小説集でしょ。アン、ずっと読んでみたかったの!ねぇ一緒に読んでもいい?」

「君がそうしたいなら」

そう言ったその時、不意に窓が音を立てた。レイモンドの顔には一瞬であの神経質な表情が浮かんだ。

「何の音だ?」

彼は緊迫して鋭く聞いた。アンは朗らかに答えた。

「夜の風」

「本当か?」

「そうだよ、今夜はいい風が吹いてるよ。それにお月様も出てたよ」

「満月?」

「ううん、たぶん三日月だったかな」

「そうか、満月なら俺のすっかり見えない目もぼんやり見つけることができたかもしれないのに」

レイモンドの声は再び落ち着きを取り戻していた。死への実感は刻一刻と彼の神経と表情を尖らせていた。だが、せめてアンには激しい気性を抑え、愛情に応えうる良い友人であり続けたいものだと考えているのだった。

「さあ、読んでいいよ」

そう言われるやアンは亢奮してページをめくり始めた。レイモンドは楽しそうにアンの天衣無縫な横顔の表情を眺めていたが、やがて起き上がると、上体だけ起きて一緒にページをめくり始めた。その左手には病気のために痺れが来ていた。彼は時折左手でものを掴めなくなり、その度に右手を差し出して用件を済ませるのに腐心した。思慮深いアンは当然のように感づき、さっとレイモンドに自身の手を重ねてページをめくろうとした、しかもその顔には喜ばしげな情が表れていた。レイモンドは疲れて溜息を吐いた。

「...君は本当に天使だな」

アンは楽しげに笑った。

「アンが走り回っている間にレイお兄さんはこの部屋で一人で病気で苦しんでいるんだって思うと何かせずにはいられないの。たとえどんなことでも、アンが役に立てるならなんだってするよ。お兄さんが喜んでくれるならなんでもやるよ、本当だよ!」

レイモンドは黙って微笑みながら、熱心に喋りかける少女に耳を傾けていた。

「苦しいのが治るならいつでも看病するよ。それで怖いことを忘れられるならいつまでも側にいるよ。だからね、お兄さん、安心して休んで」

アンのなんと清らかで優しいことか、彼女のように根から善良な娘は他のどこを探しても見つかるはずもなかった。アンは本当に美しい少女だった、世の中に足をついているのがもったいないほどに美しかった。陰険な街は最早彼女にふさわしくなく、彼女もまた陰険なアパートにふさわしくなかった。だが、その考えを退けてまで善意の行動を曲がらせないのがアンという少女の心持ちであった。本当に無垢な少女である。レイモンドは静かに微笑したまま、「アン、ありがとう」と呟いた。

「ううん、なんだかちょっと良くなったみたいだね。良かった」

「そう...さあ、続きをお読み」

「あっ。アン、この台詞知ってる。この人が書いた台詞だったんだね!」

「そうだよ。なら、ほら、こっちも聞いたことあるんじゃないか?」

「知ってる!」

アンの目が宝物を見つけた子供のように楽しげに輝いた。

「ニッセンは有名な言葉をたくさん残しているんだ、俺も大学に行ってから読み始めて知ったんだけど」

「大学に行ってたの?」

「ああ。二年前までね。それからは休んだまま」

「知らなかった!すごいよ、今度アンに歴史を教えてくれない?」

「もちろん」

レイモンドは無意識のままに楽しく笑っていた。しかし、

「早く元気になって大学に行けるといいね」

アンが優しく言葉をかけた瞬間に彼は顔を強張らせて狂乱した表情を浮かべた。

「外になど出られるものか!道に殺人鬼がうろついているんだ!」

そうだった。アンは内心で自分を呪った。だが彼女は誠実にもレイモンドと彼の錯覚を呪いはせず、また、勇敢にも逃げようとは思わずにどうにかして彼の錯乱を鎮めてやらねばと思っていた。

「落ち着いて。怖い人は来ないよ」

「おっかない話ばかり続いてる。まるでひどい悪夢だ、この街はもう何日もうなされたままだ。夢なら醒めてくれよ!犯人が捕まるまで外なんか歩けやしない。鍵をかけても何の意味もない。次は誰を狙ってる?まさか俺じゃないだろうが!?」

「ねえ大丈夫だよ。きっと殺人鬼なんか来ないよ。私が守ってあげる」

「この前も聞いたんだ、裁判所の判事が血まみれで見つかったって。だが、道でそいつとばったり会ったのが俺なら、手酷くやられたのは俺だった!次に変死体になるのは誰だ?次に血の海に沈むのは誰だ?ほら、悪魔がそこまで来てる!悪魔がそこにいるんだ!!俺もあんな風に死ぬのか?殺されたくない!」

「落ち着いてよ!」

「首を絞められるのがどれだけ苦しいか知ってるのか?俺にはわかる!息もできなくなって血の気が引いて、痛みに狂いながら死ぬんだ!残虐に殺されるときどれほどの苦しみを味わわされるのか、わかるんだよ!死んだ奴らがどれほど苦しんだか想像できるんだ!死ぬときにどれだけ痛い思いをするか、どれだけの恐怖があるのか!俺は実感できるんだ!!病気で死にかけたことは何度もあるんだから、でも、その度にひどい悪夢を味わったんだ!死にたくない!殺されたくない、殺されたくない、死にたくないよ!」

レイモンドは完全に狂気に取り憑かれていた。彼は今や人ではなく、鳥や動物だとすら言えた。ベッドの上で頭を抱えて錯乱し、容赦のない恐ろしい言葉を次々に吐くレイモンドに可憐なアンは怯えたが、なおも彼女の清廉な勇気は絶えなかった。何とかレイモンドの苦痛と恐怖を取り除こうとして、アンは、頭髪を鷲掴みにして垂れ下がった黒髪の簾の中で不安の言葉を吐き続けるレイモンドの手首を掴み、自分の姿を一目瞳の中に映してやろうと必死に目を合わせた。

「アンがついてる。誰もここにはやってこない。大丈夫だよ。きっとすべてなんとかなるよ、神様はレイお兄さんを守ってくれるよ」

レイモンドはおもむろに自分を掴んだ手を払って、その影を引っ掻こうと両腕を振り上げた。

一一一彼が唐突に正気を取り戻したのはその時だった。

「一一一ごめん、アン」

レイモンドは突然ヒステリーから解放され、息を荒らげたまま、ひどく疲労してベッドに横たわった。アンの方も急に解放され、安堵と、糸が切れたような恐ろしさに身震いしながら立ち上がった。

月も夜風に震えながら青白くなって浮いているようだった。

「時々気がおかしくなるんだ。死ぬのが怖くて」

「誰だって怖いよ」

「...ありがとう。もう寝るよ」

レイモンドは危険さの中で意識を朦朧とさせていった。アンは、まるで母親がそうするように、レイモンドに毛布をかけて側に座った。彼はしばらくぼんやりとした視線でアンの顔を眺めていた。アンは歌うような調子でレイモンドの気を鎮めようと話しかけた。

「怖がらないで。眠るまでそばにいてあげる。安らかに眠って...」

レイモンドの目は次第に虚ろになり、やがて彼は死ぬように眠りに落ちていった。後に残ったのは青ざめた不安げな顔だけであった。

アンはまだ彼が起きるのが心配で、子守唄のように言い続けていた。

「安心して、怖がることはないからね。お兄さんが眠るまでここにいてあげる..........」

ロンドンの街の夜が更けていった。ひとりの清らかな少女を残して、人も、犬も、建物も、街灯も、殺人者もまた、陰湿な街の住人は皆死んだように眠っていた。

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