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野良猫珍道中

雨降らしの入道雲が地平線まで流れていき、綿あめのような白い雲が伸びるその先で太陽が眩しく照っていた。快晴である。朝方の雨は平常以上に元気溌剌な太陽の働きぶりにより、干からびた水たまりを残す程度にまで乾いていた。その気持ち良い昼下がりの天気を、宮原は恐らく一人だけ迷惑に思っていた。

「なんなんですか、この平和ボケした空気は!昼間っからつまらないったらないです!」

いかにも、平和だというのはそのまま刺激に欠けるということでもある。例えば雨の日なら走ってきた車の水撥ねをまともに喰らい、濡れ鼠になる奴というお笑い種がある。曇りや雪でも、傘やらコートを持ってこなかったために散々な目に遭った人を街で見かける。だが、晴れた日でそのような愉快な出来事に出会えることはなかった。気持ちよく晴れた日はほとんどの者が呑気にだらけた時間を過ごす。つまり、宮原のようにやや悪意のある人物の好奇心を満たし得る滑稽な出来事は起きないのである。故に宮原は現在、非常に不機嫌に苛立っていた。

退屈な昼下がりに我慢はできない。宮原はいつも以上に注意深くなって街中に面白いものがないかと目を光らせて歩き回った。

角を曲がったちょうどその時、ついに一匹の黒猫が荷台の下に現れた。宮原はもちろん目ざとくそれを見とめた。そして目を輝かせ、黒猫でどう楽しむか一一一息を詰めて考え込んだ。そしてとうとう心を決めると、近くのトタンのあばら屋の軒先置かれた雨漏り用の水入りバケツを持ってきて、黒猫にかけんと構えた。一一一この程度のことを思いつく辺り、彼女の根の無邪気さが偲ばれよう。

少女の細腕には重たい水入りバケツを両手で抱え、じりじり距離を詰めていく。宮原の目は危険な好奇心と冒険心とで野蛮に輝いていた。じりじりとにじり...にじり.....にじり.......

一一一だが、ただ好奇心旺盛な少女が仮にも一人前の猫の瞬発力に匹敵するはずはなかった。黒猫はすんでのところで宮原に感づき、即座に逃げていってしまった。

宮原は「あっ」と鋭い悲鳴をあげた。しかし、次の瞬間には少女の闘志と危険な執念は衝撃を打ち破って復活していた。

彼女はすぐにバケツを捨てると、猫を追いかけて走り出した。竜巻のように走る小さい黒い影はよく目立つ。すぐに黒猫を見つけることができた。宮原はつむじ風になって猫を追った。それは若さゆえの負けず嫌い、または生物ゆえの狩猟本能、あるいは好奇心旺盛な者の特徴である執着心に突き動かされたか、とにかく宮原は狂ったように猫を捕らえようと躍起になっていた。

「待てーっ!待つです!捕まえてやるですよ!!」

黒猫は軒先の塀をひょいひょいと移り渡って行く。宮原も負けじと塀沿いを駆け抜けた。

「捕まえたら酷い目に合わせてやるんですから!!」

呪詛の言葉まで吐きながら恐ろしく追いかけっこに執着していた宮原は、当然ではあるが、周りの様子など露ほども気にかけてはいない。

通りに出るまでは車も人も彼女と猫の邪魔はしなかった。だが、とうとう歩道を渡ったその時、角から人影が歩き出てきて、宮原は勢いよくぶつかってしまった。

宮原は驚いた悲鳴を上げて後ろに転んだ。ぶつかられた方の者も呆気に取られていたが、

「失礼」

と短く呟くと転んだ宮原にさっと手を差し出した。反射的になる宮原は顔を上げ、相手の顔を見てさらに呆気に取られた。

少し離れた街に住むタンブルと呼ばれている外国人の青年がぶつかった相手だった。

何を隠そうそのタンブルは宮原の片思いの相手なのである。

「た、た、た、タンブル!!?」

喜びと恥ずかしさが一度に込み上げ、思わず宮原は言葉を失った。このような形で会いたいとなど思っていなかった。だが、片思いしている男にばったり会えたことには素直に心が弾む。だが...。

「宮原?...何をしているんだ」

案の定タンブルは唖然とした、という表現が当てはまる不思議そうな顔をしていた。宮原は恥ずかしさで顔から火が出そうだった。みっともなく走り回っていたことも、まともにぶつかってしまったことも、ぼさぼさの髪と服の汚れも全てなかったことになれば良いのにと思った。何よりこの男が今の自分をどのように思っているのか心配でならなかった。

やっとのことで宮原は「ね、猫...ねこです...」と消え入りそうな声で呟いた。それも聞き取ってもらうことができたようで、タンブルはあぁ、と納得した表情を浮かべた。

「飼い猫が逃げたのか」

涼やかな様子の声に宮原は必死で首を振った。猫をいじめるために夢中で追いかけていたことなど隠しておかねばなるまい。

宮原はまだこの青年が考えている内容が心配だったが、次に継がれた二の句は彼女を驚かすものだった。

「...大変だな。探すの手伝ってやろうか」

宮原はその時、無愛想で会話すらまともに叶わない青年が自分に思いやりを傾けていることに対するさまざまな思いで頭が破裂してしまいそうだった。優越感と、衝撃と、迷いと、恥ずかしさが胸をかき乱したが表に出る行動はただ狼狽のみだった。

頰をタコのように紅潮させ、言葉も発せない口を開け閉めしながら宮原は必死で何かを呟いた。

ちなみにタンブルは特にそのようなことは気に留めなかった。元より厳格なる男などではないのである。というより頓着のない方で至って沈着だった。

宮原はその間にどうすべきか悩みに悩んだが、ついにばったりと出会えた興奮を捨てきれなかった。

「お願いしたいです...あっちに...逃げましたです...」

猫を最後に見た方角を指差すと、タンブルは「わかった。行くぞ」と淡々と言い、その方角に歩き出した。

「ま、待って、やっぱりこっちだったかも...いやそっちかも...」

「...猫は逃げ足が速いからな。どっちに行ったかなんてわからなくなるだろうな」

「...はい」

余計なことを言った。宮原は赤面して俯いた。

「まあ、どこに向かっても既に移動していて見つけられないはずだろうからな。念の為探してみるが、いなくても迷い猫届でも出せば良いさ」

「...すみませんです」

「...まぁ猫は逃げるものさ。気にするな」

タンブルは素っ気なく言った。

「猫はってことは犬は逃げないですか?」

「逃げないな。特に飼い犬は」

「犬飼ってたですか」

「飼ってた。大型犬のマックスとかいう奴」

「そうですか...」

その時、二人の視界を黒い小さな影が横切った。

それは確かに黒猫だった。

「あいつか」

宮原が思わず頷くと、タンブルは「持っててくれ」とコートを二秒の間に畳み、宮原の方に放り投げて走り出した。あっという間に見えなくなる。足が速い。宮原が慌ててどたばたと追いかけると、まるで来た道をなぞっているように塀の上と下で追いかけっこが勃発していた。だが、タンブルは若い男であり運動神経が良い方でもあったようで、流石に宮原ほど苦戦はせずに猫を追っていた。というより一一一足が速い。猫など相手にならない。

面白いほど上手く距離が詰まってゆく。宮原は何だか運動会の花形競技でも見ているような本当に面白い気になってきた。同時にただ突っ立っているのみで何の手伝いもしていないことが申し訳なく、肩身が狭い気もしてきて、とりあえず

「が、頑張ってくださーい!!」

とよくわからない声援を送っておいた。

そうするまでもなく、実にあっさりと黒猫は尻尾を掴まれた。あんなに必死に追いかけたのに、探す人が探せばあっという間に済んでしまうのである。宮原はそのよくできたことにまた呆気に取られた。

タンブルに抱いた黒猫を「...合ってるか」と差し出され、宮原は我に返って頷き猫を受け取った。いや、飼い猫などではないのだが、この際事を誤魔化せるのならば何だって良い。

「...暑い」

シャツの襟を掴んでぱたぱたと首元を扇ぐタンブルを見て宮原は途端に申し訳なさが湧き上がり、「すいませんっ!」と声を上げた。

「いきなりぶつかったり猫探しを手伝ってもらったり、色々と手間をかけて悪かったです!本当に反省するです...気をつけます!」

そこまで言ったが精一杯、これ以上思い人に恥を晒せるものかと宮原は「これっ」とコートを押し付け、足早に踵を返して歩き出した。

だが、その胸中には限りない恥ずかしさの他にも渦巻いた迷いと照れとがあった。これ以上口を利くのは出来そうにない。顔を見られるかもわからなかった。それほどに今日は醜態をさらした、と宮原は感じていた。しかし一一一

だがついに宮原は心を決め、再び振り返った。その先にタンブルはまだいた。安堵と恐れを感じて思わず喉が締めつけられたが、意を決し言った。

「あのッ、ありがとうございましたですっ」

途端に耳の先まで熱くなるような感覚が襲ってきた。宮原はその場に崩れ落ちそうになりながら、そんなことをすればさらに厄介なことになると必死で耐えて立っていた。

タンブルは微笑みもせずにコートを抱え直すと、

「...良い午後を」

とだけ呟いて踵を返して去った。それもまたあっという間だった。

思わず力が抜けて宮原はその場にへたったが、その心に後悔はなかった。ただ、踊り出したくなるような胸の弾みが残されたのみだった。

恋の楽しさに弾む少女に似つかわしく、天気は快晴だった。明日も熱くなるだろう、という予報だ。

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