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僕らを見ていた

霜の降りる季節で日暮れが過ぎると早急に外の空気が冷たくなる。橙色の明かりが灯った家の中で濃紺に変わっていく空を眺めながら、子供と遊んだり編み物をして身近な人のために過ごす一日の終わりの安らかな時間が、リュインヌには何よりも尊かった。

彼女の今日の寝床はその昔粉屋の倉庫だった屋根の中だった。リュインヌはそこの床に座り込み、鼻歌交じりに編み物をしていた。薄汚く霞んだ寝床に居る痩せこけた若い女のその頬は紅潮し、その顔には輝きがあった。かわいい子供の寒さを思いやって夜中までマフラーを繕っているのだった。

リュインヌは非情で凶暴な悪人に生まれたわけではないただの娘だった。だが彼女の肌と髪は黒く、それは人々の間では忌避の的となる特徴だった。彼女やその仲間は常に街の静かな階級社会の最底辺を這っていた。その泥と暗闇の中を生き延びるには純粋無垢な娘でいることは無理だったし、世間擦れするのも早く、綺麗な愛情を持った花のような少女時代を失うのはさらに早かった。だから結局は、愛や恋に楽しみを見出すよりも今日と明日の食べ物の心配で精一杯の人間になるより他なかったのだ。

だが、彼女はどういうわけかは説明もできないが幼いときから正体のわからない慈愛の視線が自分に注がれているのを感じていた。それは彼女を産むために絶命した母親のものかもしれなかった。或いは昔話に聞く妖精や魔法使いの類いが本当に自分についているのかもしれなかった。もしくは、恐らくだがリュインヌ自身が現実の不幸から逃れるために作り上げた幻想であるとも思えた。だが、いずれにしてもリュインヌは幼い頃からその幸せな幻想の眼差しのおかげで純情さを少し取っておいたまま育つことができたのだった。

街灯も消え出す頃になってリュインヌは粉屋の倉庫を出発した。荒い麻のマントを纏い、夜風に長い髪を乱しながら歩いて向かった先には森があった。二時間ほどでそこに辿り着くと、彼女は腰を下ろして空を眺め出した。

その側に聳え立つ大樹が彼女を見下ろしていた。いや、比喩ではなく本当に一一一見下ろしていたのである。

大樹は名を木霊と言い、博識壮麗な長寿の神の一人だった。美しい童子の姿を持ち、普段は大樹の姿で森に君臨している。

「また来たのか。用もないのに」

冷たげな言葉も神が人間に告げている故である。

「ここに来ると気持ちが落ち着くんだ」

「落ち着かねばならない事件でも起きたのか」

「いや、特にそういうわけじゃないね」

「何だ、やはり用はないのではないか。人騒がせな奴め」

「いてはいけないの」

その台詞はリュインヌの吐き慣れないものだった。

ほとんど全ての人間から嫌われ、疎まれているせいで、多くの場合いてはいけないのかなど聞くまでもないことでありそう聞く前に人々の前から立退くのが常識だったのだ。だが、リュインヌはこの森にだけはいても構わないという何らかの信頼を寄せていたためこのような言葉が出るのだった。そしてその声は拒絶されたかもしれない恐れを覆うように少し悲しげだった。

木霊は答えた。

「仕方ない、構わん。好きなだけ留まるが良い。だが儂の森に手を出したその時はお前は死ぬのだぞ」

「しないよ。約束するとも」

リュインヌは再び夜空を眺め出した。

木霊はその横顔を見ようと、童子に姿を変えて木の葉の間から少し顔を出した。するとリュインヌの笑った唇の端が見えた。それに自分の知る幼い頃の面影が濃く残っているのを見て取り、木霊は微かに息を吐いて葉陰に身を潜めた。

この大樹の神がリュインヌと出会ったのは昔のことであった。木霊はそのことを鮮明に思い出せるのだった。

リュインヌは幼い子で、今にも増して見すぼらしく痩せこけ、目の飛び出した娘だった。マルセイユの街からカレーへと移り住む旅の道中、子供だった彼女は疲労がひどく、見てもわかるほどに衰弱と貧困の一途を辿っていた。だがその見た目は哀れみを掻き立てるものではなく、醜さと汚さへの激しい嫌悪を催させるような見目をしていた。

大樹の木霊は森を抜ける途中の一行を見た。旅の一行は程も離れていないところで休息を取り出し、リュインヌは自分のそばに寄って遊び始めた。近づいて来たこの見目も貧しい女の子が何をしようとするのか、木霊は興味を傾けていた。やがて、リュインヌは確かに自分をしげしげと見つめ始めたのである。木霊は腹を立てた。醜く不愉快なものを向けられ、さらにいきなり顔を向けられ驚いたためであった。

その時、リュインヌは、木霊の枝の一本に小さな傷を見つけた。それはその日の昼にカラスに手酷く突かれたものであった。枝の一本折れたところで、枝の大小により痛みが出ることはあるものの命は取られないが、事実、その枝は今にも折れそうだった。リュインヌはその傷を見るや否や頭に結んでいた鮮やかな模様のリボンを外し、枝を強く縛ったのである。枝は元通りまっすぐになり折れそうな状態を脱した。

リュインヌはそれを見ると、立ち上がって、心配そうに二度三度振り返りながら一行の夜営へと走り帰っていった。

木霊は唖然とした。

だが、あの汚い娘に間違いなく、人の痛みを解し、癒そうと考える優しい心があることは確かだった。

娘は当然神である木霊より弱い存在だった。当たり前に死ぬし、病気も怪我も縁遠くなかった。その上人間の中でも社会的に弱い、差別対象の者だった。

木霊は彼女のことが気がかりになっていた。不幸と不運を数多抱えた弱い娘を始めて健気に思い、少しだけ哀れんだのだった。気にかかるあの娘が痛みの中にあるならば手を貸してやりたい、この世の苦痛から守ってあげたいという小さな心配が少し芽生えていた。

それ故にリュインヌが発する落ち着くという安らいだ言葉は、木霊に安堵と感慨を起こさせた。同時に、彼女が見栄えする生き生きした若者に姿を変えていくことは密かに喜ばしい出来事だった。少女から知る顔立ちが見違えるように変わっていく様子は木霊の小さな楽しみで、どのような姿になっているのだろうかと思いを馳せるうちに時が流れることもあった。

木霊はもう一度リュインヌを仰ぎ見た。その言葉にも見た目にも、かつてとは違う幸福が溢れ見えていて、リュインヌが現在幸せの中に暮らしていることが見て取れた。木霊は密やかに感慨深い思いをした。

「神さま、聞いてくれるかい」

リュインヌは小さく嗄れた声で言った。

「私、今日は編み物をしたんだ。あのかわいいカンパーニュにだよ。もうすぐ寒くなってくるからねえ、マフラーを編んであげるんだ。お友達がいるようだから揃いで作ってやるかしら...」

「良い考えなのではないか」

「そう思うかね」

「ああ」

「人を愛しているとね、毎日が幸せなものになるんだ。何をしていても自分の友達や、可愛い知り合いの子供たちを喜ばせることが思い浮かぶんだよ。おっかないことだってなくなるんだ。何があっても天使と対面している気になれるんだから。私、人の幸せを願うのがこんなに幸せだって知らなかった。ねえ、多分、母さんもこんな気分だったのかもしれないよ」

「お前の母親か?」

「会ったことはないけどね。死んじゃったもの。でも、慈愛を注ぐ相手がいるほど楽しいことはないもの、大切な人の幸せを何より願いたくなっていたかもしれない。私がそうなれたように」

「そうなれたのは幸せなことだったか」

「最高にね」

夜は深くなっている。冷たい風が葉を音を立てて揺さぶった。木霊はその中からじっと地上とリュインヌを見下ろしていた。リュインヌは夜の風に吹かれながら、だんだん眠くなってきた様子だった。マントの襟元を掻き集めながら眠りそうに首をもたげていた。

木霊は呆れた顔をしながら、咄嗟に木を下りてリュインヌの元に寄っていた。風邪を引かせることに胸が痛んだのである一一一不思議な話だった。

木霊は造作もないとリュインヌを屋根のある処まで運ぶことにし、軽くリュインヌの体を抱え上げた。

リュインヌは一瞬はっと覚醒した。その抱かれた感覚に覚えがあった。それは過去の出来事を思い起こす懐かしい手触りだった。

「一一一あなたは」

驚いてそう言ったとき、木霊はリュインヌの唇を塞いだ。その途端にリュインヌは眠りに落ちてしまった。

安らかな世界に意識が飛ぶその間際、確かに聞こえた声は、母のものなのか、かつて聞いたものなのか、それはわからなかった。

ただその声は静かに言っていた。

「ずっとあなたを見守っているよ」と。

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