自殺の代償
パンプスを脱ぎ、冷たいコンクリートに足をおろした。
所々、赤錆が浮いた金網のフェンスに指を引っ掛け、足の裏に食い込む痛みに耐えながら少しずつ上がり、反対側に回る。
足が地面に着くと同時に、秋の夜風が強く吹き頬を叩いた。
五階建てのビルの屋上。時折強く吹く風に注意しながらへりまで進み下を覗いた。
真夜中のオフィス街に人影は無く、ぽつぽつと立ち並ぶ街灯が、静寂の街を照らしている。
私は両足を揃えて立ち、掌を胸の前で組み目を瞑った。顔を少しだけ上げ、天を仰ぐ形で重心を前にかけようとした──その時。
「もしも、──」何処からか声がして、振り返るが誰もいない。
照明の無い屋上、月の明かりだけを頼りに目を凝らし周りを見渡すと、私の左手、数メートル先、フェンスを挟んだ向こう側に人影が揺れた。
「もしも、飛び降りて死ねなかったら、どうなるんだろうね? 凄く痛いんだろうな」
子供のような幼さが残る声が聞こえた。
「きっと身体は不自由になるだろうし、寝たきりになんかなったら、家族の重荷にもなるよね」
声に誘われゆっくりと近づく、そこには一人の少年が立っていた。
金網に両手を掛け、フェンス越しにこちらを見ている。
「それで、自分で死ぬこともできずに、一生ベッドの上で生きていく」少年はわざと体をぶるっと震わせ「怖いよね」と、言いながら顔をしかめた。
少年の目の前まで近寄り、対面する形になる。
「止めて......くれてるの?」
私の言葉に少年は少し首をかしげた。
目の前の少年がこの世の者でないことくらい、私でも分かる。こんな時間に子供が一人でいる訳がない。
少年の顔をよく見てみると、どことなくあの人に似ている。私は自分の腹に手を置いた。
私とお腹の子を捨て、家庭を選んだあの人に......
目の前の少年。この子は私の子供で、未来から私を止めに来た? まさか、そんな事がある訳ない。私は自分の妄想に苦笑した。
この少年はそう、私の罪悪感が産んだ、ただの幻覚──
不倫の末に男に捨てられ、相談できる友達もいない、アパートに籠り、ただ泣くだけの毎日、自堕落な生活で日々を過ごし会社も首になった。
なんで私だけがこんな目に合わなければならない? 私が何をした? 私だって幸せになりたかった!
悪気は無かったが少年に、睨むような目を向けてしまう。
真っ直ぐに見返してくる少年の無垢な瞳が、
(また自分のことばかり考えているの?)
そう言われているような気がして、慌てて視線を地面にそらした。
…...そう、私はいつも自分のことばかりだった。
愛は正義だと自分に酔っぱらい、相手の奥さんやその子供のことなど、これっぽっちも考えたことはなかった。自分の父親が不倫していると子供が知ったらどう思うのだろう?
数年間ろくに連絡もとらず、自分達の知らないところで勝手に自殺し、娘の訃報をしらされる親の気持ちは?
少しずつ私の中で何かが変わろうとしていた。
自分の弱さを人のせいにして、失ったものばかりを数え、大切なことには目を背けた。
挙げ句、自身の最悪の選択に我が子まで付き合わせるなんて──
自分、自分、自分、自分、自分、自分のことばかり......私は......最低だ。
恥ずかしさと、愚かさで胸を締め付けられた。しかし、それと同時にさっきまでとは真逆の感情が湧いていることに気付く。
閉ざしていた私の心の暗闇に光が差し込むような感覚を覚えた。
──生きたい! お腹のこの子と一緒に。
幸せになりたい──ではなく、幸せになるんだ。この子と二人で。
目の前の少年が幽霊だろうと、幻覚だろうと、現れてくれたことで大切なことに気づくことができた。
自然と言葉が口からでる。
「ありがとう......ありがとう」頬を涙がつたう。いつ以来だろう? こんなに暖かい涙を流せたのは──
「でもさぁ──」少年は屈託のない表情で話始めた。
「でもさぁ、お姉さんは大成功だね、飛び降りて、ちゃんと死ねたんだから」
「えっ......?」
少年の言葉と同時に私のこめかみあたりに赤く冷たいものが流れた。
自然と右手でそれを拭い、頭に手をやると、酷く陥没した頭部がぐちゃぐちゃと気持ち悪い。押さえた掌から手首をつたい、ひじの辺りから鉄臭い液体がちょろちょろと流れている。
真っ赤に染まった掌に混乱する。
動悸が激しくなり息が荒い、足元がおぼつかず地面に膝が着いた。そのまま上半身も傾きコンクリートに両手をつく、顔が真下を見る格好になり、地面にできた血だまりの中に、大人の親指程の胎児が転がっていた。
「嫌あああぁぁ!」自分が絶叫していると気付くのに暫くかかった。
頭が回らず、ただ急いで子宮に戻さねばと慌てるが、潰したらいけないと、そっと拾い上げようと両手を寄せた。
すると、声などでるはずのないそれが、私を拒絶するかのような、耳をつんざく程の悲鳴を発した。
赤子の癇癪とは到底思えないような酷い音にたまらず耳を塞ぐが、音は私の耳から侵入し、脳を鷲掴かみにされ、激しく揺さぶるような感覚に目眩と吐き気がした。
頭上で少年の声がする。
「たまにいるんだよね、自分が死んだことに気がつかなくて、お姉さんみたいに何度も、何度も、なーんども、飛び降りてる人がさぁ」
ふらつき、涙で目も霞むが、力を振り絞り立ち上がって少年と目を交わす。
「......私は、死んでいる? 嫌だ ......生きたい、この子と......一緒に」
両手の中に優しく拾い上げられた胎児はなおも叫び続けている。
今までに感じたことのない絶望と恐怖が物凄い速度で膨らんでいく。
「お姉さんはさぁ、もう何年も前に、とっくに死んでいるんだよ」
「嫌だ、いやだ、イヤダ」
膨れ上がった感情が私を闇に引き込もうとしている。
「結局、自殺なんて、成功しても、失敗してもいいことなんか無いんだよ」
「やめて、嫌だ、生きたい......死にたい、イキタイ......シニタイ」もはや私の思考は正常に機能していないようだった。呪文のように生きたいと死にたいを繰り返し、少年に背を向け、一歩、一歩と闇に向かって歩いた。やがて宙を踏みぬき、そのままビルの底に頭から落ちていった。
「あーあ、また飛んじゃった。あの調子だと永遠に気付かずに、飛び降り続けるかも、──怖いよね」