自転車泥棒
君は覚えているだろうか。
17歳の夏、茹だるような暑さの中で、僕は自転車の上で不安定に揺れる君の後ろを、小判鮫のようにくっついて歩いていた。
一緒にサイクリングをしようって言い出したのは君なのに、どういうことか君は自転車に乗れなかった。
それどころか持ってすらなかった。正直、流石にふざけた奴だと思った。
だけど何故か、僕は気前よく君に空色の自転車を貸して、その後ろをお供のようについてまわってしまった。
「離さないでよ。良いって言うまで離さないでよ」
「離さないって。ちょっとくらい信じてよ」
そう言いながら、僕はこっそり自転車から手を離していた。にやにやと含み笑いを浮かべながら、ぐんぐんと離れていく君のポニーテールを眺めて楽しんでいた。その結果、君は派手に転んだ。
「そういうのいらないって......」
「ははは。ごめんごめん」
君はわりと本気で膨れつらをした。
今思えば、あの時手を離さないほうが良かった。
もしあの時にしっかりと君を掴んでいれば、何かが変わっていたかもしれない。
君が自転車に乗れるようになるまで、結局一ヶ月もかかった。自分の子供の頃のことを思い出すと、だいぶ時間がかかった気がする。そして、自転車に乗れるようになるや否や君はすぐに調子にも乗った。
「ね、今日も自転車借りるね!」
「いいよ。どこか行くの?」
「うん。ちょっと渓流のほうに友達とサイクリング」
「いいね。俺も行きたいなあ」
「写真撮ってくるから楽しみにしてて」
僕は君のことを自転車泥棒だと思った。
君に自転車を貸して、そのうえ乗り方まで教えたのに、それっきり用済み。まるでゲームの説明書みたいだ。
でも、きっと僕に気を許しているからこそそんな扱いをできるのだと肯定的に受け止めた。何より、君の喜ぶ顔を見れることが単純に嬉しかった。気がする。
夏が終わり、冬の足音が聞こえてきた頃。
君は僕の全く知らない遠いところに移ることを伝えに来た。その時の髪型も、相変わらずポニーテールだった。
あの時、なんとなくだけど君の瞳の中に一抹の寂しさみたいなものが存在するのを感じた。
何か、若者特有のサインがあったような気がした。
初めてみる君の悲しそうな眼が夕陽に映えて切ない色をしていたのを今でも覚えている。
だけど僕は臆病だった。
笑顔でさよならを言いながら、生きてればいつかまた会えるさ、なんてふざけたことを言った。
そんな言葉、虚しさしか宿らないことは知っていた。
ただ、僕は夏の陽炎のように全てを曖昧にしてしまいたかった。
区切りをつけなければ、物事は終わることがないだな
んて、ぼんやりとそんな絵空事を考えていたのだ。
結局、僕の自転車は貸したまま君のものになった。
あれから何度か同じ季節が移ろった。
今、僕は最寄り駅のホームにいる。
僕にとっては見慣れた駅のホームも、旅人たちからすると非日常の一部なのだろう。
僕もそろそろ、どこか遠くへ行ってしまいたい。そう思いつつも故郷の居心地の良さに甘えてしまっている。
大人になったら、僕も東へ向かおうか。
電車を待ちながら、そんなことを思っていた矢先だった。
反対側のホームで電車を待つ人々を何気なく眺めた瞬間、すべての時が止まった。
蝉の鳴き声も、電車の到着を伝えるアナウンスも、風の流れる音すらも耳に入らなかった。
ずっと探していた君がいたんだ。
久々にみる君はとても綺麗になっていた。
ポニーテールは解かれ、少しふくよかだった頬もすっきりしていた。一瞬、誰かと思った。
それでも、僕の五感は君の姿を記憶していた。
「あ......」
君の視線と僕の視線が、間違いなく交錯した。
数年振りに見る君の瞳は相変わらず大きくて、透き通っていて、水晶のようだった。
でも、君はすぐに視線を逸らした。
何故なのだろう。
気まずかったから? 僕だと確信が持てなかったから? それとも......。いや。
きっと意味などないのだろう。
何故なら、人は人を忘れる。どんなに仲良くなったって、将来の話をしたって、一緒に自転車に乗る練習をしたって。
人は同じ場所に留まることができない。
君は僕のことを忘れた。
僕だけが君を忘れられずに、ただ一人駅のホームで立ち尽くしている。それだけのことだ。
でも、もし、許されるのならば。
最後に一言言いたい。
僕はあの時、君のことがーー。
心の中で呟いた声は、特急列車に遮られてしまった。そして、波に攫われる貝殻のように、君の姿は消えてしまった。
僕は呆然と立ち尽くし、ひとり乾いた笑いをこぼした。
あの時、君も僕も振り返らずに歩いていった。
何を今更、過去を掘り返そうとしているのだろう。
情けなくて、女々しい男だ。
俺なんてもういっそ、線路のほうへ飛び込んでーー。
「自転車!」
「え?」
「自転車、借りたままだった。ごめん」
その声はまるで、夕立を叫ぶ雷鳴のようだった。
不意に背後から現れた彼女はピアスをつけ、映画の中の登場人物みたいに輝いていた。
でも、やっぱりもうポニーテールではなかった。
僕は動揺して、うまく受け答えが出来ずにいた。
「あはは。忘れてたよ。そんなこと」
「え、そうなの? ずっと謝りたかったのに」
君は少し寂しそうな顔をした。逆に、僕は驚いていた。自転車のことなんて、とっくに忘れてると思っていた。
少し沈黙をおいて、君は鈴のような声で囁いた。
「あの自転車、壊しちゃったの。ごめんね」
「え。そ、そうなんだ。地味にお気に入りだったんだ。あれ」
「......今度ご飯奢るから許して」
彼女は申し訳無さそうに、雲のように白い八重歯を覗かせた。
その屈託のない笑顔の変わらなさに、僕は思わず笑ってしまった。
そして心の中で呟いた。
僕はあの時からずっと、君のことが嫌いじゃなかった。
ありがとうございました。




