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二、



太陽が熱かった。じりじりと炙るような日差しが確実に思考力を奪う。

訳が分からなかったし何もかもがムカつくが、家に入ることは出来ず暑さにも耐えかねて、司は近所の商店街へ移動した。

部屋着のまま飛び出して来たので、何も持っていない。

どこからか湧いて出た見知らぬ携帯は壊してしまったし、本物の司の携帯は髪の毛に占領された自分の部屋の中。財布も煙草もライターも同じ。無一文。連絡手段も無し。

「ちくしょう、ゲーセンにも行けねえじゃねえか」

忌々しげに舌打ちする。連れのところにでも行くかと考えて、はたと思い直す。

鬼を連れては無理だ。恩返しだ何だと妙なことを言いふらされても困るし、化け物の心配もある。

他に涼めて時間を潰せる場所はと考えて、司がふらりと向かった先は商店街の奥にある喫茶店だった。

路地を一本入ったところにひっそりと佇む、セピア色の店内に煙草と珈琲の香りの満ちた小さな店だ。『凛』という名の看板の下に『OPEN』とプレートが掛かっている。

司は遠慮なく扉を押し開けた。

「邪魔するぜー」

「おう、ツカちゃん。またサボりか、この悪ガキめ」

カランカランとドアベルの奏でる軽い音に重なって、エプロン姿の店主がカウンター奥から顔を覗かせた。

纏めた長髪に丸いサングラスの、厳つい割りに気さくな店主を、司はよく知っている。数年前までお隣さんだった片瀬さん家の一人息子、凛太郎だ。

十歳以上年上の隣人に、司はよく面倒を見てもらっていた。司の父はたまにしか帰ってこないし、隣家の両親も共働きで遅くまで戻らなかったから、夜まで遊んでもらうことも多かった。店を持つと同時に引越したが、今では司が常連として通っている。

「冷コー。ツケで」

「あいよ」

カウンター席に座って突っ伏すと、ひやりとしたクーラーの風が全身を包んだ。生き返る心地だ。

すぐに凛太郎は戻ってきて、シロップやミルクと一緒に氷の浮かんだグラスを司の前に置いた。

「いい若いもんがダレてんじゃねえよ。まあこう暑くっちゃダレるのは分かるけどな」

力無く顔を上げると、細かい汗をかき始めたグラスに司の顔が映る。

「凛兄い、今日暑いよな」

「ああ、堪らねえよな。冷房が無くちゃやってられねえよ。クーラー様様ってもんだ」

「今、五月だよな」

「そうだよ。しょうがねえこった。五月ってのは暑いもんだからなー」

おかしい。この世界はおかしい。五月が真夏日なのはおかしい。それが平然と受け入れられているのもおかしい。

押入れから髪の毛が這い出て来るのもおかいしし、鬼だと名乗る子供が尋ねて来るのもおかしい。そもそも、家の前に知らない子供が蹲っている時点でおかしかったのだ。

鬼は何をしているかと目を向ければ、司の足元にしゃがみ込んで珍しげにスツールを撫でていた。

それから、きょろきょろと辺りを見回して、シュガーポットや爪楊枝や紙ナプキンを眺めたり引っ張ったりしている。

「ツカちゃんの友達?」

「ちげーよ」

即座に否定して、グラスを手に取る。黒い液体を啜り上げれれば、喉を落ちていく冷たい感触が内側から体を冷やした。

ようやく一息つけたものの、問題は何一つ改善されていない。鬼のことも家のことも父親のことも。

「おいてめえ、ちょっと来い」

司は鬼を呼びつけた。雑誌棚の前にしゃがみ込んでいた鬼が寄ってくるのを引き摺って、珈琲のグラスと一緒に店の一番奥にある四人掛けの席に移動する。

鬼を向かいに座らせると、凛太郎が鬼の前に水を運んで来た。

「何の内緒話だー?」

「別に内緒じゃねーけど。聞いても意味わかんねーよ多分」

「生意気言いやがって」

どうせおっさんにゃ若いもんの話は分からねえよと笑って、凛太郎は厨房に引っ込んだ。

司は鬼に向き直る。鬼はお冷やのグラスを両手で包み込んで、丸い瞳で司を見返した。

「お前、見たよな。俺の部屋に出たもの」

押入れから這い出した髪の毛。化け物以外の何とも思えない。

鬼は氷水に口をつけながら頷いた。

「見た……けど、あれは悪いものじゃないと思う」

「お前の感想は聞いてねえ。ようはお前が来てから家に化け物が出たってことだ」

鬼は慌てて否定した。

「違う、何もしてない、司が危ないことなんてしない……!」

とても信用に足る言葉ではない、と司は考えている。

「お前、鬼だっつってたよな?そんで俺に恩返ししたいんだっつったよな?」

おずおずと、司の顔色を伺いながら鬼は再び頷く。

「じゃあ恩を返してもらおうか。鬼ならあんな化け物平気だろ。つうか同類じゃねえか。

 あの髪の毛、家から追い出せよ。俺は厄介事が片付く、お前は恩が返せる、悪い話じゃねえだろ」

鬼は困った顔で俯いた。しかし、司は殊更自分の案が気に入った。何より面倒が二つ一気に片付くところがいい。

コーヒーを飲み終えたら早速にでも家へ戻ろうと思えた。髪は家から出られない様子だったから、何かあれば外に逃げればいい。

鬼は気が進まない様子だったが、特に意見はしてこなかった。

お代はツケて貰って、炎天下の下を司と鬼は二人で家に戻る。

家の周りだけ、どことなく気温が低い気がした。つい先程化け物に追い出された身としては、明かりも無く薄暗い家に正面から入るのは躊躇われた。

ならば勝手口だと、遠巻きに庭から裏手に回り込んでみる。庭の方にも髪の毛の姿は見えない。窓に特に怪しい影が映っている様子も無い。

化け物は引っ込んだか大人しくしているようだと判断する。

勝手口は閉ざされていた。台所の窓にそっと近付いて中を覗くが、静まり返っただけのごく普通の我が家である。

司はドアノブに手を掛けた。ゆっくりと捻り、極力音を殺して手前に引く。

かちゃり、と開いた。

隙間から覗きこんでみる。見慣れた台所以外目に付くところはない。空気がひやりと湿っている気がしたが、きっと気のせいだろう。

戸を開け放って、靴を脱ぎ捨てた。廊下に出る。後ろから鬼もついてくる。

自分の部屋に着いた。蹴飛ばした布団、散らかった雑誌、床に転がっている携帯電話と財布、のたくったイヤホンとそれに繋がっているMDプレイヤー。

何一つ不審なものなどない。いつも通りの、片付いてない自室だった。

化け物が出たことなど夢だったかのようだ。

「いなくなったみてぇだな」

思ったより安堵の色が声に出て、虚勢を張るため必要以上にゆっくりと部屋の中に入った。

ぐるりと押入れから床の隅々まで見回して、携帯と財布を拾い上げる。

(何ともないじゃないか……)

そう思った時、バサリと黒い紐が落ちてきた。

目の前で髪束に解けた紐が、司を目掛けて飛び掛ってくる。

「わあああああ!」

腰を抜かしかけた。

踵を返して逃げ出す間に、背中、腕、脚にわらわらと髪の毛が絡みつく感触があった。

振りほどこうとするも、無数の髪の毛が恐ろしい力で司の体を引っ張る。

転倒した。ここぞとばかりに黒い紐が司の四肢を絡め取る。引き摺られる。

髪は押入れに向かっていた。真っ暗で闇が凝ったように見える押入れは、ぎっしり髪で満たされていた。

と、目の前に瞬間、赤い炎が広がった。飛び退くように髪の群れが退く。

火が見えたのはほんの一瞬だった。燃え移ることも何かを焦がすこともなく、髪だけを威嚇したようだ。

司の体がぐいと引かれた。廊下に放り出され、鬼が庇うように部屋の前に仁王立ちになる。

気を取り直した髪が、再び向かってくるのが見えた。

司は飛び起きて、勝手口目掛けて走った。振り向けば、鬼が飛び掛る髪の束を両手に鷲掴みにして押し留めているところだった。

靴を履くのももどかしく、開けっ放しの戸から転がり出る。

「早く来い!」

鬼を呼ぶ。髪を振り払った鬼が廊下を逃げて来る。その足を髪が捕らえた。

鬼が倒れる。髪の毛が追いついてくる。

司は勝手口の脇から目に付いたものを掴んだ。それを髪の毛に向かって投げた。包丁だった。

刃が、髪の塊のど真ん中に突き立つ。手ごたえはなかった。

しかし、蠢く黒髪は動きを止めた。怯むように少し震え、鬼を掴んだ髪が緩む。

その隙に、鬼は髪を振り切った。一足で廊下を越えて、飛び出てくる。

司は勝手口を閉じた。鍵も掛けた。鬼の手を引いて、表の道路まで急いで走った。

庭を出ても安心できず、家がすっかり見えなくなるところまで逃げてから、ようやく足を止めた。

川縁まで出ていた。橋の袂で一息つく。

「……司、痛い」

鬼が言う。気付けば、鬼の手をきつく握り締めたままだった。慌てて振りほどく。

「助けてやったんだから文句言うな!」

「……うん、ごめんなさい」

鬼は頷いたが、助けたのはお互い様だ。とにかくもう家が絶対安全ではないことが分かったことと、携帯と財布を取り戻せたことは収穫だった。

もう一度喫茶店に戻ってツケを払い、夕方まで涼もうかと思った。凛太郎に泊めてもらえないか相談しようとも。

父親が帰るのがいつになるのか知れないし、あの家に戻るのは真っ平御免だった。

商店街に向けて歩き出そうとした時、

ピリリリリリ!ピリリリリリ!

携帯電話が鳴った。画面を見る。“クソオヤジ”と表示されている。迷わず通話ボタンを押した。

「てめえどのツラ下げてかけて来やがった!今どこにいるんだ、あ?コラ!

 蹴り入れてワンパンくれてやるから居場所教えろクソジジイ!」

怒鳴りつける。

しかし答えるのはザーザーという罅割れたノイズのみ。その向こうにか細く声らしきものが聞こえる。

『……つ……さ、に……なさ……』

父親の声だった。それだけは確信できる。ただ、雑音に阻まれて意味は届かない。

「あ?聞こえねえし。電波悪りいのか?だったら居場所だけ教えろって……」

『――ツカサ、ニゲナサイ』

急にはっきりと声が聞こえた。ガリガリと五月蝿いノイズはそのまま、息を切らせたようなぜいぜいと落ち着かない父の声が、司に告げる。

『お父さんしくじって……お化けに見つかっちゃったんだ。捕まっちゃったみたいだけれど、何とかするから……司は逃げなさい。

 うんと遠くに行くんだよ、何だったらお祖父ちゃんの……ところに行けば大丈夫だから……』

努めて能天気に振舞おうとしているように聞こえた。

遠くなったり近くなったりする雑音が、電話の向こうで父の周りをうろつく不吉な足音に思えた。

「はぁ?つうかてめえ、マジでヤバいんじゃねえか?!本気でどこに居やがるんだジジイ!」

『……お父さんは大丈夫。だから司は絶対にか……に近付いちゃいけないよ。

 ……お父さん……を捕まえ……てる間は、司のところには……行かないはずだから……』

またノイズが酷くなってきた。

『いいかい司……、絶対川……に近付いちゃいけないよ。早く遠くへ行……』

ギギギギギギギリィッ!!

黒板を引掻く不愉快な音を何倍も大きくしたような騒音が聞こえて、父の声は途切れた。

思わず携帯電話を取り落とした司が拾うより先に、鬼がさっと携帯に手を伸ばす。

耳に押し当てて、もう片方の耳を手で塞いだ。スピーカーから伝わってくる音をよくよく聞き取ろうとするように。

構わず司も、電話を挟むように反対側から携帯に耳を押し当てた。

雑音はなくなっている。しかし何の音も聞こえない。繋がっているのに無音だ。

だが、鬼には何かが聞こえているようだった。眼を閉じて、じっと携帯に耳を傾けている。

「川……流れてる水の音が聞こえる」

鬼が呟く。川縁なんだから当たり前だとは、司は茶化さなかった。

父に何かあったことは間違いないのだ。駄目な父親ではあるが、知らぬ振りをすることはできない。

鬼は袂を探って、鮮やかな赤い小石を取り出した。ビー玉のようにまん丸で大きさもそのくらいだ。

それを放り投げた。こつん、と道路にぶつかって、ころころと転がり出す。微かに光っている石を、鬼は追いかけ始めた。司もそれに続く。

玉は緩い斜面を登りながら転がって、川原に下りる階段をかつんかつんと下り始めた。

河川敷はちょっとした公園になっていて、花壇やベンチ、駐車場もある。休みの日には、ジョギングしたり散歩したり、スポーツや楽器演奏の練習に来る人もいる市民の憩いの場だ。

アスファルトで舗装された歩道を辿って、その奥にあるフェンスで囲まれたサッカーコートに、赤い玉は辿り着いた。丁度橋の影が被さっているせいでコート内は薄暗い。

「ここに親父がいるのか?」

「……分からない」

「分からねえって何だよ!」

八つ当たりとは分かりつつも、つい怒鳴ってしまった。

鬼は困ったように辺りを見回す。何も無い。人はいない。歩道にもベンチにも、堤の上にも橋の上にも。不気味な程人の姿がない。

車も通らない。街が活動しているようなざわめきが一切聞こえない。まるでここだけ切り取られて、世界に司と鬼の二人しかいないようだ。

「……やっぱりここのはず」

鬼が呟いた。川を指差す。

「聞こえた水の音、あれと同じ。電話はここからのはず」

サッカーコートから川岸までは結構近い。フェンスがあるから容易くボールが川に落ちることはないだろうが、川が増水する時には確かコートの使用は禁止されたはずだ。それくらいの距離。

司は携帯を開いて父の番号をコールしてみた。プップップと呼び出し音が鳴った後、プルルルルッと切り替わる。

と同時に、どこからか軽快な電子音が聞こえ出す。曲目は“エリーゼのために”。父の携帯に設定されている着信音だ。

「あっち!」

鬼が指差した方向に走り出す。

川岸だった。水音が大きくなると共に、着信音もはっきりと聞こえてくる。

「おーい、クソ親父ー!どこだー!」

声を上げるが返事は返らない。

「おーーい!クソジジイー!!」

「……司!」

鬼が川縁に下りて行った。岸に打ち寄せる波を蹴立てて、草叢に屈みこむ。

司の父が、腹から下を水に浸して、そこに横たわっていた。

「親父!」

司も駆け寄り、鬼と一緒に父の体を担ぎ起こす。意識がないのかぐったりした父は、司の肩に寄りかかった。

二人掛かりで引き摺って、どうにかサッカーコートに横たえた。

見た限り全身ずぶ濡れではあるけれど、幸い怪我などはないようだ。

「おい、クソ親父、起きろ」

頬を叩き肩を揺すると、父は呻き声を上げて薄っすらと目を開いた。

「……ツ…カサ…?」

ぼんやりとした視線が司の方を向く。

途端に咳き込んで、口から水を吐き出した。藻がまじって緑色の、生臭い水。

「手間かけさせんな親父。今救急車呼んでやっから……」

119番に連絡しようとした司の隣で、鬼が父の体をひっくり返す。

「何してやがる」

鬼は、司の父の水を含んだ上着からシャツのポケット、ズボンのポケットまで探って、言う。

「……電話がない」

「あン?」

「さっきまで鳴ってた電話がない」

はたと気付いた。司はいつ通話を切っただろう。無意識にそうしたのかも知れない。

けれど、父が携帯を身に着けてない理由にはならない。

もう一度、リダイヤルからコールした。

♪~♪~♪~

音が聞こえてくる。

けれど、ここではない。川縁でもない。もっと向こう、川の真ん中から。

鬼が身構える。流石の司も気付いた。

様子がおかしい。おかしいのは最初からだが、その中でも特に。どこがというのでなく、何もかもが。

ひたひたと底冷えするような気配が、川から足元へ漂ってくる。

それが霧のように辺りを満たした頃、水面の下に潜む不気味な気配が身動ぎした。

巨大な二つの丸い目に、ぎょろりと凝視されているような居心地悪さ。

「何だ……?」

鬼に尋ねてみても、答えは返らない。ただ、鬼はじりじりと川辺へ近寄った。

揺らめく水面が、急に背伸びする。水が伸び上がるように立ち上がった。

ぼこりと盛り上がった3メートル程の水の塊。その中に黒い影が見える。

司は思わず後退る。

その足を、突然掴まれた。

父だった。緑色の水を吐いて、魚のような丸い目で司を見ている。

死人のような冷たい手と、泥のような土気色の肌。明らかに生きていない。

「……っ!!」

辛うじて、悲鳴は堪えた。




―  続  ―



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