甘さと辛さは紙一重
電線に立ち並んだカラスと燃えるような夕日、その空を埋め尽くすのはこれまたカラス――。今日も一日大学生活を平穏に終えて長いこと電車に揺られたのち、やっと到着した最寄り駅で真っ赤な夕空をぼんやりと眺めていた。一講から四講まで授業を詰め込めば脳が疲れきり睡眠を欲するのも仕方がない。しかし残念なことに帰宅後すぐに眠るわけにはいかないほど課題を抱え込んでいる私は、このような過酷な時間割の作成者に腹を立てているのだった。
自転車置き場へ向かいながら、大きな欠伸をひとつした。誰もいないから隠す必要もないだろうと思い切り口を開く。一気に眠気と口寂しい感覚に襲われて、鞄から眠気覚まし代わりに愛用しているミントのタブレットを取り出し口に放り込んだ。口に広がるのは辛く爽やかなミント味のはずなのだが、どういうわけか甘ったるい某乳酸菌入り清涼飲料水の味がした。
「……は?これおやつ用の甘いほうじゃん…二個とも同じポケットに入れたの誰よ、紛らわしい」
思わず呟いてしまってから辺りを見回すがやはり誰も見当たらず、相変わらず近くにいるのはカラスだけだった。ほっとして、口に放り込まれた甘ったるいタブレットを噛み砕く。
甘い後味はなかなか消えてくれない。しかし今もう一つ食べたとすれば後味が混ざって気持ち悪いからと、味が消えるのを待っていた。その間に改めて良く似た二つのパッケージを眺めてみる。食べてみなければ見かけだけでは決して見分けがつきそうもない……そう感じたのは今の私だけではない。遠い昔にどこかの誰かが私に怒っていたような気がした。薄れていくはずの後味の甘さが一層強く感じられ、鍵をかけていた甘い記憶が引き寄せられたかのように一気に溢れ出した。
小さなソファーに軽く腰掛けている少年と、彼に寄りかかる眠たげな少女。それが恋人である紘と私だった。別々の高校に通い始めたために二人きりの時間といえば月に数度の彼の部活動のない日しかなく、その度にどちらかの家で過ごすのが進学後の暗黙のルールのようなものになっている。例によって、今日は彼の家にお邪魔してまったりと休日の午後を過ごしているのだった。特に何もすることもなくただ寄り添って過ごすだけのこの時間は、会う機会が減った今では特に貴重なものなのだ。
徐々に暖かくなりつつあるこの季節、他人とぴったりくっついていれば少々暑苦しくも感じる。それでも触れた手を伝って届く温もりや速い鼓動が愛おしくて離れがたく、そのまま心地良く眠りに落ちてしまいそうになった。
「……ん。ねむい」
「眠気覚まし代わりのタブレットなら持ってるけど食べる?辛いけど」
「えー、辛いやつ?まぁいいや、食べてみる」
紘の指差す学習机に目をやると、タブレット菓子が二種類と飲みかけの炭酸飲料が並べて置かれている。どちらも彼の好物なのだが、残念なことに私はどちらとも苦手だ。炭酸もミントも舌が痛くなるので自分から好んで飲み食いする人の気が知れない。そんなに痛みが好きなのだろうか。疑いの渦中の紘は二つのうち見るからに辛そうな黒のケースを開き、スナック菓子でもつまむような感覚で軽く一粒口へ放り込んだところだった。こちらを向くと意地の悪そうな笑みを浮かべ、再び一粒取り出してこちらに差し出す。
「ほら、あげるよ?おいで?」
「……それいちばん辛いやつでしょ、私が辛いもの苦手って知っててそっち選んだでしょ」
「大丈夫だって。現に俺は平気なんだよ?」
「あんたが辛いもの好きだからそう思うだけでしょうが……」
拒否したところで無理やり食べさせられるのは目に見えている。そうなる前に眠い体を起こして渋々受け取った。見かけは私が最近持ち歩いている期間限定の乳酸菌飲料味のタブレットと何ら変わりないものの、味に関しては全く想像がつかない。ためらう私を見つめる紘は、私が辛さに耐えられず悶える様子を見て馬鹿にするつもりなのだろう。それなら裏切ってやろうじゃないかと、思い切り口に放り込んだ。
恐る恐る口の中で溶かしてみたものの、意外にも辛さは標準のミント味と変わらなかった。私の好みではないが決して食べられない代物ではない――そう思ったのも数秒のうち。油断していた私の舌先に辛さを超えた鋭い痛みの刺激が走る。
「……っ!辛い!っていうか痛いよ!」
吐き出すわけにもいかず必死に飲み込もうとするのだが、むせ込んでそれどころではない。涙の滲んだ真っ赤な目で睨む私を見て彼は案の定愉快そうに笑っているだけだった。
「ははっ、やっぱ無理だったか。これ飲みなよ」
「ありがた……くないよ!だってこれ炭酸じゃん、あんた私が炭酸も苦手なの知って……きゃっ」
断るより先に飲み口を押し付けられ、そのままペットボトルの中の液体が口に流れ込んだ。甘ったるいぶどう味の炭酸飲料の味自体は嫌いではない。しかしタブレットの後味の辛さと苦さが、炭酸飲料の甘さと混ざってとても気持ち悪い。そのうえミントの辛さでやられた舌に炭酸の刺激は酷すぎる。痛みは収まるどころかますます増し、床に倒れこんで悶絶し続けるしかなかった。一方紘は腹を抱えて笑い続け、再び黒のケースから数粒取り出すと自慢げに口へ放り込んで見せた。
「……げほっ、このやろ!仕返しがないと思うなよ?」
「うぇっ!」
自分が優位だと思い込んで油断していたほうが悪い。鳩尾にチョップを食らわせ、バランスを崩している隙に手に握られたケースを奪い取って自らの鞄からも甘いタブレットのケースを取り出す。私の両手に握られた二つのケースを見せつけながら、今度は私が意地悪い笑みを作ってみせた。
「おい柚乃、お前まさか……」
「私のことからかった罰だよ?仕方ない仕方ない」
おそらく現在発売している製品の中ではダントツで甘ったるいであろうタブレットを数粒取り出し、黒いケースの中にしまいこんでそのまま振る。辛い中にとっても甘い当たりが数粒の、食べ物版ロシアンルーレットの完成だ。
「眠気覚まそうとしてそれ出てきたらどうするんだよ、見かけじゃ区別つかないし……!」
「ん?おいしいんじゃない?ヨカッタネ」
「いやいやいや、最近居眠りしてばっかりだし笑い事じゃないんだってば!」
肩から崩れ落ちる紘を見るのは実に愉快でいい気味だ。
「びっくりして逆に目覚めるんじゃないの?それに……」
「それに?」
首を傾げて続きを待っているその姿を見て、喉元まで迫っていたその言葉をかすかに残る後味の苦味とともに飲み込んだ。
――離れてても、私のこと思い出せるでしょ?
照れくさい言葉を口に出せない不器用な私には、意味も届かないほど密かな愛情表現しかできなかった。
「なんでもないよ。まぁ、食べてみればわかるんじゃない?」
「このやろう……」
こつん、と額同士がぶつかった。目が合った次の瞬間には唇が触れる。甘い時間のはず、なのだが。
「ちょっと待ってよ!辛い、辛いってば!離れろ!」
「ぐえっ!」
再び鳩尾にチョップが飛んだ。彼が仰け反る隙にその胸に顔を埋める。ひねくれててごめんね、と心の中で呟いた。何も知らない紘は、優しく私を抱きしめる。
――それはお菓子なんかよりも甘い、甘い時間だった。
カラスの鳴き声が遠くに聞こえた。ぼんやりとした二人の像とともに、後味の甘さはいつの間にか完全に消え去っていた。やはり口寂しいような気がして、確認してからミント味を口に放り込む。適度に爽やかな辛さが口の中に広がり、まどろみからも目が覚めるような気がした。自転車の鍵を外し全速力で自宅へと走り出すと、追い風とミントの味が相まっていつもの帰路が爽やかに感じる。夕日を背負ったカラスの行列はあっという間に遥か後ろの景色になっていた。
甘さ、辛さ、苦さ。後味は気づけば全て溶けて消え去っていた。