第九十一話 暗闇に狩る
転んだときに鉄板の取っ手に唇をぶつけて少し切った。血の味がする。
「くそっ」
頭を上げると、樹の一本一本のシルエットが人間のように見えた。自分をバカにした人間の化身のようにだ。ケルビンデザインの今岡、黒崎次長、後輩の加納、曽根美、憎悪の対象は何人もいた。
「態度だよ。客に向かってどういう態度なんだ。え、だれのおかげで……」「俺の顔に泥塗りやがってっ。納品一つまともに出来ねえのかよっ!」「ここはあなたのような人の来るところではないっ。帰りなさいっ!」「うちの業績だあ? おまえはいつから管理職になったんだっ」「さっさとそこに署名すればいいんだよっ!」
樹々が無言で言葉を俺に浴びせる。
「うるせえよっ!」
……るせえよっ。 ……せえよっ。怒鳴り返した俺の声は森中に響きわたり、木霊になって時間をずらして再生された。
罵詈雑言を浴びせていた森が静かに黙るが、俺の怒りは解けない。
くだらない人生に対する憎しみ。くだらない毎日に対する憎しみ。くだらない毎日を送っているくだらない自分に対する憎しみ。
安全がなんだ! あいつらがなんだ! 無難な人生がなんだ!
俺の足は早足になった。暗闇で躊躇していたが、もうどうでもよくなった。転ぼうがなにしようがどうでもいい。まじめで石橋を渡る俺自身を忌避する気持ちがもう限界だった。
血の味にほんとうに小さな頃いじめられて錯乱した記憶が甦る。臨界に達して我を忘れ暴力に訴えたんだ。
「がああああーっ!」
獣のように雄叫びをあげて、俺は駆け出していた。
唇を舐める。血の味は悪くない、ぜんぜん悪くない。
強い怒りは恐怖心を駆逐する。俺は俺を拘束していたものを脱ぎ捨てていく。
ランナーが夜の森を疾駆する。俺はトレイルランナーだった。行く手に立ちふさがる樹々を抜け、藪を薙いで走る。
視力が上がったように感じる。あれ眼鏡かけていないのに、星空をずっと見ていたせいだろうか。
奇跡のように周囲のものがすべて見えていた。時速三〇〇キロで走行するF1ドライバーは一瞬の視野狭窄の後、視野が爆発的に拡張すると言う。
たしかに俺はふだん見えないものが見え、ふだん聞こえない音が聞こえていた。
蜘蛛の巣の糸が満月の月明かりに反射し、真ん中に眠る大きな蜘蛛が蠢く。枝の上の鳥の巣に羽毛のかたまりがぬくぬくと寝ている。
太古から俺の中に眠っていた野生の機能が滑り出すように動き始める。
ホモサピエンスという巨大で複雑なシステムを統合している無意識の潜在能力だ。
異様な万能感があった。自我が自分の皮膚を突き破ってもっと遠く広く拡散して、森の中に自分がいるのではなく、自分の中に森があるような。俺の目がこの二つだけでなく、この空間のそこここにあまねく偏在している感覚。上空からさえも俯瞰しているような。
「おおーい、出河、待ってくれよ」
もう遠くなった浪政が呼ぶが、待ってられるわけない。
UFOは見られるだろうか? いや、だろうかじゃない。見るんだ!
それはどんなタイプのUFOか? 八木亜門のものと同じか別か?
こんなときに、とおんと格闘の練習をしたときの彼女の言葉を思い出していた。
「人間は猿から進化した、でも退化させたもの、眠らせているものもあるのよ。たとえば反射神経とかも。わたしはバイクに乗るから知ってるけどスピードを出して、突然、世界がゆっくりに見えることがあるの」
「強いスポーツのチームに入るとその人も強くなるでしょ。周りにできる人がいるから自分もできるって信じられるのよ。自分の力を信じなさい。なによりもできるって思いこむことが秘訣なのよ」
逃げていくオレンジの光源を追跡し夜の森を駆ける。枝葉に遮られて本体はなかなか姿を現さない。
遭難の危険、転ぶ危険、そして、また鉱山跡の穴に落ちる危険はあった。それでも俺は段差を飛び、障害物を左右にかわし、葉の茂みを払い、倒れた木の幹を踏み越えて駆けた。
鳥が一瞬羽ばたいた。
自分が夜行性の肉食動物、ミミズクやフクロウに変身したような錯覚を起こす。暗闇の狩人だ。
感覚が研ぎ澄まされ姿勢が反射的に制御され飛ぶように走る。本能…… 動物だったころの記憶で夜を切り裂いて疾走する。俺はUFOを狩っていた。
行く手の地面が急に消えた。崖の行き止まりだ!
止まろうとする。
だが、一瞬の直感で止まらなかった。
「いけるっ!」
跳躍していた。二階の天井くらいの高さがあった。5メートルくらい落下した。俺は星座の間を飛んでいた。宇宙を遊泳している時間はずいぶんと長く経過した。
ふわっ。
着地は軟らかい土と下草がクッションになった。片手はついたが、すぐに起きあがる。
直感は間違っていなかった。ほら飛べたじゃん。笑いながら俺はそのまま駆けた。
駆けたのだが……
「あ、あれっ……」
突如としてオレンジの光が消えていた。
見失った!?
「く、くそっ。なんでだああっ!」
なんでだもどうもない。UFO、未確認飛行物体が突然消失することはあることだ。だからUFOなのだ。俺は追跡に失敗した。
そのとき、前方に白いものが見えた。いや白いものではなく、白い人影だった。満月といえども闇夜の中で、ぼおっと光を放つその姿は見てはいけないあの存在、幽霊が見えてしまったのだと思った。
だが、そこにいたのは、もっと信じられないものだった。
「え? とっ、とおん……」
目を凝らす。とおんだ。宵宮とおんだった。彼女はなにも身につけていなかった。その白いヴィーナスのような裸身の胸から赤い液体が流れ出ていた。
駆け寄ろうとしたその瞬間、とおんの周囲がオレンジ色に染まった。ブラックアウトしていて気がつかなかったのだ。すぐそこの一〇メートルもないような手の届きそうな距離にUFOがあった。とおんはUFOの内部に取り込まれていたのだ。UFOの透明な窓の向こうにとおんは閉じこめられている。
ヴワ……
俺が追いかけていたUFOはとおんを乗せたまま一気に上昇し満天の星のどこかへ消えてしまった。携帯のカメラを構える暇もなかった。
UFOがとおんを乗せていた。なぜここに? これは夢なのか。
UFOの窓は魔法の鏡なのか。いやこの全てが幻想で蜃気楼のような出来事じゃないのか。
俺らのイメージする姿をとる。それが俺たちはそこにあるものを見ているのではなく、見たいと思っているもの、見ようとしているものしか見えないのではないか。夢のように。
「おーい。大丈夫か?」
浪政だった。ヘッドランプが俺の顔を直接照らしてまぶしい。
「変なものを見た」俺は言った。
「変なもの?」
「いや……」俺はとおんを見たと言わなかった。それを口に出すことで彼女がもうこの世にいないということを認めてしまうような気がしたのかもしれない。
「俺も見た。オレンジのUFOだった。すげえよ、こんな間近で」
少なくともUFOは夢でも幻でもない。2人ともが見ている。
「ありゃ! ここ工事んところじゃねーか」と浪政。
UFOがさっきまでいた場所は開発計画の建設途上の現場だった。
「こいつは、UFOはひょっとして監視してたのか?」
「えっ?」
「UFOは原発とか、軍事施設とかそういう危なっかしい施設を監視しているって聞いたことがある」
いかにもな発想だ。
「マンションが危険な施設なのかい?」
「なあ出河、おれは建築現場で働いたこともあるわけよ。この現場変じゃねーか?」
見降ろした工事現場の地下部分に組み上げられている鉄骨の造形は、まだ基礎の部分だったが、円形のドックのようなそれは、ふつうのマンションの基礎工事とは似ても似つかない構造物だった。