第八十話 ビンタ
「あはは。あ、そうだ、長谷川未理緒が彼氏と別れたって知ってるう?」
「知らないけど」
「えーっ、知らないのお? へ~っ、出河君、彼女のこと好きだったとかじゃないんだ?」
「え、別に、そうじゃないし」
「……好きだったとかじゃないんだ?」
「なんで、二度も聞くんだよ」
「んーと、念のため? 長谷川ファンって結構多いしね」
「別に好きじゃないよ。あんなやつ」
「そうねー。ま、長谷川未理緒はやめといたほうがいいわ。お堅いふりして結構遊んでるとかいないとかって…… あ」
途中で止めるような言い方をしておいて、彼女はカマボコ型の目をして俺の顔をのぞき込んだ。
ピンピンにカールした睫毛が、ジャングルに生えてる昆虫を捕まえる植物みたいな輪郭をしてる。
「なあ、長谷川のさ、変な噂聞いちまったんだけど、五井、知ってるか?」
興味本位ではなく、長谷川の横領に関して調査しなければという気持ちからだと自分を納得させる。
「まあ、知らないとは言わないけどねー。でも、どの噂?」
「どのって、そんなあんのかよ」
「まあね、彼女いろいろネタ多過ぎて…… Tバックの千円札のことは知ってる?」
「ボーイズバーの写真だろ」
「あ、そう。出河君でも知ってるんだ。じゃ片町でボーイズバーの男の子と歩いていてその男の子の彼女にビンタされた話は?」
「知らない。お尻に千円挟んでたの奴か」
「また別の男の子。ボーイズバーの男の子、日替わりでお持ち帰りしちゃってるんだって。どうもキャバクラのはけた時間じゃないかって」
「えっ?」日替わりで…… いや、それにキャバクラだって?
「キャバクラで働いてるらしいよ~」
「なにそれ。つか、うちの会社、バイトするときは許可いるだろ」
「そんなの内緒にしてるに決まってんじゃない」
キャバクラでバイトってか…… そんなに金が必要なのか?
「彼女のお金に関する話とかって聞いたことある? 困っているとかさ」五井なら知ってるかもしれない。
「これ言っちゃっていいのかなあ。誰にも言わないでよねー」
「言わないけどさ」
「あのさ、乃村取締役と二人で料亭から出てきたらしいのよ。夜の一一時よ。えれー遅くない? ひょっとして金銭的に助けてもらってるとか? 『そういう関係なんじゃないの』って三際ちゃん言ってた」
「え、マジか? なんだよそれ。乃村なんて若作りしてるけど思いっきりクソオヤジじゃん」
「微妙なセクハラ言動も多いしね」
「最悪だよ」
「案外、ああいう一見お堅そうな子がヒヒオヤジに引っかかるのよね」
「あのさ ……金庫の話は知ってるか?」
俺はその話を切り出した。鍵の台帳を守衛室で確認してからも、その件は馬都井くんと手分けして調べている。
「あんたも知ってんの? 商品券と経理の裏金でしょ。さすがに、それは本当にマズい話よね。法律に触れちゃうし。そう、出河くんも知ってんだあ。じゃ、やっぱ本当なのかな。最初聞いたときは、さすがにあの長谷川で、それはないなあって思ったけど、料亭の話なんか聞くと、なんだってする女なのかもって思っちゃうわよね。ボーイズバー通いでお金が要るんじゃないのー」
五井は、蛇口をシャワーに切り替えて、洗剤をすすいだ。
「さてと洗い物終了っと。あ……」
そのまま五井まどかが固まった。
「どうしたんだよ、五井?」
彼女は俺の背後のなにかを見ていた。
えっ、誰かいるの?
振り返る。
長谷川が入り口に立っていた!
全部聞かれてたのか。
「い、いや、違うんだ…… 違うんだ…… これは、えと、違うんだ……」自分で言いながらなにが違うのか、なにが言いたいのかまったく分からなかった。
「こんなところで陰口言ってて楽しいっ?」
「あ、あんたの方こそ盗み聞きしてたのね」五井が赤い顔して反論した。
「盗み聞きじゃないわよ。たまたま通りかかったらでかい声で人の悪口を言ってるのが聞こえただけ」
「別に悪口言ったつもりはないわ。ただの情報交換よ」
そ、そうなんだ、俺は長谷川の情報を知りたかっただけなんだ。ほんとに。
「情報交換? あんた、いつも憶測で噂話広げてまわりの人を貶めてるじゃない」
「私は知っている話を、聞きたいって人に伝えてるだけよ。なにが悪いのよ?」
「なにが悪いですって! お金に困って乃村取締役とつきあってるとか、キャバクラに勤めてるとか、適当なこと言わないでよっ。この嘘つき女っ!」
「ふん、全部が本当じゃなくったってね、噂の中には真実があるものよ。その噂の種を作ったのは誰なの。あんた自身じゃんっ」
「くっ」
「噂はね、鏡みたいにあなたを映しているのよ。そりゃ多少の誇張はあるわよ。その方が面白いし楽しいからねー。でも噂では最低女だけど本体は実は清純だって? そんなのありえな~い」
「お、おい、五井……」
俺は五井まどかを止めようとした。言い過ぎだ。長谷川はもう泣きそうな表情になっている。
「ふん、私が言いふらさなくたって、みんながみんな長谷川未理緒の最低女っぷりは、とうの昔に知ってるわ。ははん」
パンッ!
長谷川が五井の頬を張った。
「なっ、なにも知らないくせにっ!」
ビンタして、長谷川は給湯室を飛び出した。涙が彼女の目のふちからこぼれ飛んだ。
「痛ったーい、チキショーッ!」
頬に手を添えた五井が男みたいな言葉を吐いた。