第七十九話 五井まどか
給湯室からは、わちゃわちゃ華やいだ話し声が聞こえてきた。
そこは基本的に女性の聖地だ。
男もコーヒー淹れたり、カップめんを作るときは行くけど、滞在時間は女に比べれば格段に短い。どんな話してるんだろうといつも思う。じぶんのことを好意的に話題にしてないかなとか。給湯室にはあこがれがあった。お手洗いと給湯室でされる女子の話は一度聞いてみたいと思う。盗聴装置があればできるのだろうけど、そこは一線越えちゃいけないところだ。ともあれ現代の小さな大奥でどんな会話が飛び交っているのか気になる。
カレーヌードルとチリトマト以外はスープを全部飲んだりしないので、飲み残しを流しに来たのだった。
「きゃっ」
女子が一人出てきて、ぶつかりそうになってカップの中のスープが揺れた。
「あ、ごめんなさい」
「おおっと、だ、大丈夫、大丈夫」
そのまますれ違って給湯室へ入った。
そこに残っていたのは五井まどかだった。人事課の女の子で、年は一つ下だが短大出て入社しているので社歴は俺よりも長い。色が白くて肉感的というかなんかムチムチしてる。決して太っているというわけではないのだけど、服がジャストサイズ過ぎるのか会社の制服なのにちょっとミニスカートっぽくなって、それに胸があいたシャツを合わせてる。
うちの会社は制服はあるけれど、着ても着なくてもいい。女性陣に言わせると制服があった方が楽らしいのだが、気分に合わせて自分の好きな服も着たいらしくて、そんなふうになっているのだ。だから好きな服を着たいなら勝手に私服を着ればいいのだけど、五井まどかの制服を着てるのにそれをラフに崩すスタイルというのが、なんだか意味不明で学生っぽくて妙なセンスだった。いや悪くはないんだけど、ぜんぜん。なんだろ、派手な私服よりもずっと蠱惑的な感じがするんだ。
「あれ、出河睦人、どおしたん?」くだけた口調で彼女は聞いた。
ゆるいウェーブに明るい茶色にカラーリングした、肩に掛からないくらいの髪。化粧直しをしていたミラーから目線を外してそう言うと、明るいピンクのリップに陶器のつくりものってくらい白い歯がのぞいた。
「ああ、打ち合わせ。一七階の会議室がふさがってるから、今日はこっちのフロアなんだ。営業のアイデア出しなんだけど昼を越えてやるってなってさ。地獄のブレインストーミング合宿とかって。課長が無駄にやる気出しちゃってて……」
俺は言いながらカップめんのお湯を流した。
「へえ、そーなんだー、忙しいんだあ。ご苦労さまあ」
「ほんと今みたいなくだらない雑用にばかり時間がかかってて、んなことしたって成績上がんないのにさ。そんなだったら、お客のところ回った方がいいし」
「そうね、あの課長ってなんか扱いづらそうだもんね~ 理屈っぽそうで」
「なにかとめんどくさいよ」
「毛のこととかも?」
「そう、毛のこととかも……」
「気にするんだったら、もうズラかぶっちゃえばいいのにね。あたし、ほんとは人事なんかより営業とかにも行ってみたいんだ。いろんな人と知り合いになれるでしょ。でも、あの課長は勘弁。そうだ、ねえ知ってる、あんたんとこの課長、昨日、次長室から出てくるとき泣いてたらしいわよ」
口角をキュッと上げて、いたずらっぽく笑う。
「えっ、なにそれ?」
「パワハラ番長に相当絞られてたのね。課長が出てくるとき、『来月までにノルマ達成しなかったら、そのウザいスダレを坊主にしやがれ』って言ってたらしいわよ」
「それで昨日の午後から鬱ってたのか。基本、課長と次長は相性悪くないんだけどな……」
「うそ、悪いわよ。課長が逆らえないだけよ」
「え、そうなのか?」
「そうよ。地獄のブレインストーミング合宿もそれに関係してるんじゃないの?」
「ん、それはそんな気がする…… たしかに成績が悪くて、『このままじゃ、うちの課、もう廃止かも』なんて弱音を課長吐いてたし。でも、五井は、なんでそんなうちの階のこと知ってんだよ」
「ちょっと小耳にね」そう言って彼女は髪の毛をかきあげて小さな耳を見せた。耳たぶには赤いビーズのピアスが光ってる。
三畳もないような狭い給湯室のスペースに五井まどかのつけているコロンの南国フルーツみたいな甘い香りうっすら充満していて、長くそこにいたらにおい移りしそうだ。
「最近どう? 面白いこととかなあい?」
「面白いことってのはないかな」実は人に言えないような冒険ばかりしてるのだけど、それは言えない。
「誰かと誰かが別れたとか、つきあったとかさー」
「そういうのうといんだ」
「そうよねえ。てか出河くん自体が恋愛にうとそうだもんね」
「悪かったな」