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第七十八話 馬都井家の家業 間者

 ふぉれすとビルの裏は深い森がずっと続いている。もともと原生林を切り開いてヤオヨロズふぉれすとは開発されていたからだ。

「暗くて目が見えない」俺は言った。

「わたしが見えますか」と馬都井くん。


「かろうじて……」輪郭は分かる。

「ついてきてください」

「君は見えるの」

「ええ。今日は月がある。満月ではないですがね。暗闇は得意なんです」


 遠くに消防車の音がしている。遅ればせながら火事の消火活動のために着いたのだ。だが、その必要はない。むしろ今回の件は警察の範疇だったかもしれない。


 夜の森は暗かったが、しばらくすると夜目が効いてきた。振り返ると森の入り口付近にライトの筋が何本も見えたが、森は広く捜索範囲はきりがない。俺らに接近するようなことはなかった。やがてふぉれすとビルの明かりも遠ざかっていった。

「はははは」突然、馬都井くんが笑い出した。

「ど、どしたの?」


「楽しかった。自分の持っている力を使うというのは楽しいですね」

「階段のところでなにか投げたじゃない。あれはなに?」

「界面活性剤を小さなジェルボールに詰めたものです」

「それに、時限発火装置なんて。君っていったい?」


「出河さんには話しておかなければならないでしょうね。馬都井家は吉良守家の馬周り役でしたが、吉良守家に仕える中でいくつか裏の役割も担っていました。間者って分かりますか?」

「間者?」


「ふう…… こういう言い方は誤解を与えるんでいやなんですけどね、間者というのは忍びの者、つまり忍者だったんですよ。江戸時代の間諜、スパイです。とおんさんと同じですね」

「ええっ」


 俺のまわりにスパイが二人もいるのか…… なんだそれ。

「もちろん、今はスパイではなくお嬢様の企業グループの統治を補佐するのが私の仕事です。でも、私の家、馬都井家の家業としてはいつの時代も吉良守家の家臣であり馬周り役とともに間者を営んでいたのです」


「いまでも、そういう仕事ってあるの?」

「さすがに現代ではそのような仕事はほとんどありませんがね。まあ、まれに吉良守家の営むビジネスの中で取引先の企業の内実を探るようなことはあります。と言っても産業スパイというようなものではなく、むしろ企業の信用調査サービスや探偵業に近いでしょうかね。にしても、うまく逃げられてよかった。逃走経路をイメージしてましたからね。間者の習性ですね。いつも逃げ道を確保しておくというのは」


「家業が忍者って、なんかスゴいね。でも生まれながらにしてそういう宿命みたいなのがあるってのはどんな感じなんだろう」

「いやなものですよ」


「えっ、そんなふうにも見えなかった。さっきは楽しかったって笑ってたし」

「ああ、今は違いますよ。正確に言えばいやだったという過去形になります。

「過去形?」


「私は高校生まではこの血がいやでたまらなかった。自由が欲しかった。吉良守家を憎んでいました。できることなら吉良守家を根絶やしにしたいとね。でも、お嬢様、吉良守美々に出会ったあの日、私は敗北してしまった。彼女は吉良守家の財、権力、そして歴史が作り上げた最高傑作です。どれほど憎んだ対象であったとしても、あのとき私にはその芸術作品を破壊することはできないと悟ってしまったのです。それが私の敗北でした。憧憬の念とともに、それと同じくらい大きな憎しみは、まだ私のこの血の中に残っています。いまでも、そういうところがある。お嬢様には複雑な感情がある。いつかお嬢様を裏切ってしまう日が来るのではないか、敵味方に分かれ戦う日が来るのではないか。そういう恐怖と期待とか渾然となって狂いそうになるときがあるんですよ」


「な、なんだろ…… 意外すぎて……」

「でもね、案外、我が一族の当主は代々そういう感情を持っていたのではないかとも思ってるんです。いつか主君を裏切る日が来るのではないかってね」

「どう言っていいか。複雑過ぎるよ」

「はは、私のこと忠実な執事のような人間だと思ってましたか?」


「うん。そういういい人だって」

「なに、今日明日になにか起きるということはありませんよ。最近はそういう狂気を心の中に飼い慣らしていくのも面白いなと思っているんですよ。うまくいっている企業グループを経営するのはとても退屈ですからね」

「退屈?」


「安定している企業の場合、むしろ経営者はなにもしない方がいい。それがうまく行っているのかうまく行っていないのか冷静に判断する。そして、うまく行っているのなら構わないでおく。動かざることって言うでしょう。無能な経営者というのはとにかく関与したという達成感を欲するために無闇にいじりたがるんですよ」


 馬都井くんの言葉に、うちの課長が意味もなく資料の文言を直したりするのは、とにかく関与したいという気持ちをこらえきれなくてなんじゃないかと思った。まじめにやっていないと誰かに怒られるのではないかという強迫観念、あるいは、とにかくなにかしないと大きな失敗が待っているんじゃという漠然とした不安から来るんじゃないかと思った。

「経営者の理想の一つの形として、逆説的かもしれませんが、経営者がいなくても機能するような組織を作る経営者というのもあるように思います」


 しばらく黙って森を歩いた。

「できれば、今日お話ししたお嬢様に関することは忘れてください」

「こんなこと言ったら美々さんに気まずいもんね。仕事がしにくくなるだろうし」

「第一、照れくさいじゃないですか」

 照れくさいか……


「長谷川さんについて思うのは、彼女の中にもわたしと同じような狂気があるのだとしたら、まじめな経理職員という枠に納まりきらない倫理や法を犯してしまうような狂気があるのだとしたら…… できれば出河さんにはあまり彼女に理想を望み過ぎないであげて欲しいのです。出河さんが幻滅したり、憎んだりしてしまったら悲しいですから」


 尾根を越えて下りになる森が少しづつまばらに開けてきた

「ねえ、馬都井くん、ニンニンってやってくんない?」

「いやです。だから忍者って言うのはいやだったんですよ」

「だって、ほんものの忍者のニンニンだよ」

「ぷっ…… ほんと愉快な人だ」


 森に入ってからもう一時間くらいだった。ついに突っ切って国道に出ると、馬都井くんは自分の会社の車を呼び出し、二人のスパイあるいは忍者はピックアップされた。馬都井くんは最後までニンニンをしてくれなかった。


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